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ゼウスの王座たる高み
世界の頂きにそびえる神々の館
天と地を見下ろす至高の峰
不死の神々が集う天上の宮居
ギリシャ神話で、オリュンポス山はしばしば、このような言葉で飾られてきた。
その聖なる山の玉座に、いまゼウスが座して神々を見まわし、大音声で呼ばわった。
《霞より湧き出でたる、人という神が、今ふたたびアルケディアに降臨した。
神々よ、われと共に、その始まりの地へ赴き、これを誅すか。
それとも、これに媚びるか》
ゼウスの言葉を聞いたヘパイストスとヘスティアは、耳を疑った。
人の神から名を授かり、その力を得たはずのゼウスが、人の神を討とうとしている。
それは結局のところ、ほかの神々にこれ以上力を与えたくないということではないか。
ヘパイストスは、自分から遠く離れた場所に静かに座るヘスティアへ、念話を送った。
《其方、人の神モナミのもとへ赴き、このことを知らせよ》
《あい分かった……》
ヘスティアは表情一つ変えず、静かに気配を消す。
そして誰にも覚られることなく、人の神のもとへと急いだ。
***
開発部のメンバーが集まり、井ノ瀬博士の説明に耳を傾けていた。
「非常に興味深い現象を観測できたわ」
博士は興奮を隠しきれない様子で資料を広げる。
「この世界の植物は、軽微な損傷であれば極めて短時間で自己修復してしまうの。折った枝で実験したところ、数分後には組織が再生し、まるで最初から傷など存在しなかったかのように元の形状へ戻ったわ」
開発部の面々がどよめく。
「しかも、この性質は植物だけではないの。採取した鉱物にも、同様の傾向が確認されたわ。微細な欠損が時間の経過とともに修復されるのよ。私は、この世界を構成する物質そのものに自己修復機構が組み込まれているのではないかと考えているわ」
佐藤さんが腕を組みながら尋ねる。
「つまり、神々が驚異的な再生能力を持つのも、この世界を構成する物質の特性に起因している、ということですか?」
「その可能性は十分にあるわ。もし私の仮説が正しければ、この現象を解析することで、異次元ドア技術にも新たな応用が見えてくるかもしれない」
その言葉に開発部のメンバーは目を輝かせ、追加調査のため再び森へ向かっていった。
この頃の私は彼らとは行動を共にしていない。
ジョバンニのために、なるべく彼の側にいたいから。
「今日もいい天気ね、ジョバンニ。散歩へ行きましょうよ」
だけど、ジョバンニはここ数日、元気がなかった。
食も細くなりつつある。日がな一日、力なく横たわり、私の動きを目で追うだけだ。
トイレには、かろうじて立ち上がってペットシーツの上ですませているが、その様子を見るたびに、確実にその時は近いのだと、私は切なくなるのだった。
それでも仕事をしなければならない私は、パソコンを起動して、ここの地図を作っていた。
佐藤さんに頼み込んで、屋内でできる、唯一のこの仕事に変えてもらったのだ。
今ごろ弁慶たちは、井ノ瀬を連れて森へ行っている頃だろう。
そして、プロメテウスはコロを連れて冥界へ向かっている。
ハデスに名を与え、コロにも新たな名を授け、冥界の番犬として本来の居場所へ戻すためだ。
プロメテウスは、私が渡した、人の間で語り継がれてきたギリシャ神話の本を何度も読み返し、その内容を心に刻んでいるようだった。
それでも、ときどき納得のいかないところがあるのか、私に質問を投げかけてくる。
私なりに答えてはみたものの、果たして納得してくれただろうか。
エロスは、今日は名前をつけ直す予定なので、ここにいてくれる。
そして、ジョバンニの様子も見ていてくれている。
愛の神らしい慈愛に満ちた目で、残り少なくなった一緒にいる時間を静かに見守っているようだった。
「彦麻呂、名前、変えちゃおうか」
《われ、このままでも良いかな……。もし名を変えたら、エロスという意地の悪い神に戻ってしまいそうで……怖いんだ》
「大丈夫だと思うの。あなたはもう、何も知らない幼子とは違うわ。人間の世界の残酷さも学び、それでも心は愛で満たされているんですもの」
《……そうかな》
私は、彦麻呂の前にひざをつき、彼の目を見てこう言った。
「愛野彦麻呂。あなたを縛っていた名前を、いま解除します」
彦麻呂の体から、ぼろぼろと石膏がはがれるように、表面が崩れ落ちていく。
そして、はじめに出会ったあの少年の姿が現れた。
彦麻呂の目には妖しげな光が宿り、体の内側から輝くような神々しさがあふれ出してくる。
それでも彦麻呂は、何かをこらえるように、その場にじっとしていた。
「あなたは、愛にあふれた優しき神。その名は――エロスよ」
エロスの目が、突然まばゆい光を放ち、私をじっと見つめた。
《われ、なんだかすごく力が湧いてくる。以前とは比べものにならない……。なんでも思いどおりだ!》
次の瞬間、エロスはジョバンニへ向き直る。
その小さな体からあふれ出した純白の光が、ジョバンニをすっぽりと包み込んだ。
「何をするの!? やめて、エロス! ジョバンニーっ!!」
私の叫びもむなしく、ジョバンニの体はみるみる小さくなっていく。
そして――
光とともに、その姿は消えてしまった。
いや、ジョバンニのいた場所に小さな光の粒が残った。
「こ、これ。ジョバンニ……なの?」
《ジョバンニの愛の欠片さ。ここからまたジョバンニが生まれ出る。少し時間が掛かると思うけど。安心してモナミ》
エロスはそう言い残して、ふうっと消えていった。
私は恐る恐る、ジョバンニの欠片に手を伸ばした。
ビー玉ほどの白い光の粒からは、あたたかな熱が伝わってくる。
「たしかに、ジョバンニっぽいあたたかさだわ……」
小さくたたんだハンカチの上にそっと載せて、机の上に置いた。
じっと見つめていると、わずかに光が脈動している。
「生きている。ジョバンニ、また会えるのね」
涙があふれた。
ジョバンニが変わってしまって、胸がつぶれそうだったけれど、また会えるのだ。
待てば、生まれ変わって、また私と一緒にいてくれるのだ。
それからほどなくして、アルケディアの拠点には、ティターンたちが次々と姿を現すようになった。
彼らは皆、大きな掌いっぱいに、私たちが求めていた鉱物資源を抱えてやって来る。
以前、交わした約束のお礼だという。
ティターンたちが広場へ鉱物資源を積み上げるたび、小山はあっという間に山へと姿を変えていった。
職員たちは慌てて搬出に追われる日々を送ることになる。
野崎から届いた伝言は、一言だけだった。
「よくやった。今後も頼む」
ティターンたちに与えた名前は、簡単な数詞ばかりだ。
けれど、私には誰が誰なのか見分けがつかない。
間違えて呼んでは失礼だと思い、おろおろしていると、彼らは自分から名乗ってくれた。
《苔の精霊モナミ、人の神モナミ。われはティターン族のテッサラ。心より感謝を述べようぞ》
という具合だった。
愛菜は、この頃は拠点にいることが多かった。
「森へ行くのに飽きちゃった。日本へいったん戻って、何か仕入れてこようかな。何か入り用な物、ありますか、先輩」
「そうね、ペンダントが必要かも……」
「ペンダント!? 先輩にしては珍しい。おしゃれに目覚めたんですか」
「違うわ。ジョバンニの光の粒。肌身離さず持っていたいの。何か良い物がないか考えていたの」
「……そうでしたね。ジョバンニ、いなくなっちゃったんでした」
ペンダントがあったとしてもロケットは小さすぎてジョバンニの光の粒は入らなそうだ。やはりペンダントは要らないと愛菜に断る。
今まで通り、胸ポケットに大切に入れておくしかなさそうだ。
そんなある日、ヘスティアが姿を現した。
林の中から、私に手招きをしている。
走り寄ると、ヘスティアはほっとしたように首をかしげて、こう言う。
《やっと気づいてくれました。存在感が薄いのは、変わらないようですね……》
と、あきらめたようにため息をつき、それから真剣なまなざしでこう告げた。
《ゼウスが、ここに攻め入ってくるやもしれぬ。ここから、疾く立ち去るが良かろう》




