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島の私の家は、今は開発部のみんなの拠点になっているという。
「ここにいると、ペットたちに癒やされるしね」
佐藤さんのまわりには猫たちがひっついて、安心したようにだらりと伸びている。
ジョバンニも、元気よく私に飛びついてきてくれた。
ジョバンニの首まわりをわしゃわしゃと撫でながら、彦麻呂を見る。
彦麻呂は、外で島を見て回っているプロメテウスを、じっとにらんでいた。
《なんで! なぜあいつは神の姿のままなんだ。名前をもらっても……》
言葉づかいが荒くなっている。――ずいぶんこの世界に、馴染んでしまったようだった。
私は、野崎が異世界のことを話すのを、じっと聞いていた。
「この世界とアルケディアは異次元ドアで繋がっていることは、以前話したね」
《うん……われも通ってきたから……で、アルケディアって?》
「榊原君が、神の世界に名づけた名前だ。そのせいで、神の世界は少し変わったらしい」
彦麻呂は野崎の目を見て、「変わったって?」と言いたげに首をかしげる。
野崎は、何がどう変わったのか、詳しいことまでは分からないようで、言葉に詰まってしまった。
そこで、私が口を開く。
「神々が仰るには、『色がついたような、動き出したような』感じだそうよ。プロメテウスは、世界に“方向性”が生まれたんですって」
《方向性……それって、今までみたいに同じことを延々と繰り返さなくなったってこと?》
弁慶が、顎に手を当て思索するように空を睨む。そして、
「この地球のように、実体化した。もしくは少し物質化した。または……」
佐藤さんが弁慶の言葉を引き継ぎ、「あくまでも仮説だが」として話し出した。
「私たちが何度も異次元ドアを行き来したことで、二つの世界が少しずつ互いに影響し合うようになった。その結果、アルケディアが地球の環境に同化し始めたのかもしれません。そして、榊原さんが名前を与えたことで、その変化が確定した……とも考えられます」
《でも、あの古代の巨人。プロメテウスっていう格好いい名前をもらった。われは愛野彦麻呂。どうして? モナミ!》
「……それは……」
私は、彦麻呂をまともに見ることができなかった。
ここに初めて姿を現したときの彦麻呂は、危険な存在だと感じていた、とは正直に言えない。
彦麻呂は、きっと傷つくだろう。だから、
「プロメテウスは、アルケディアで名前をつけた、から……かな。彦麻呂も、神の世界へ戻ったら、格好いい名前に変えてあげられるよ」
《それは嘘だね! 三頭犬、コロはどうなの? われを、また追い出そうとしている……》
私は、名前についてきちんと話すことに決めた。
決して適当につけたわけじゃないと納得してもらえるように。そして、彦麻呂を傷つけないようにと、考えに考えた。
「愛野彦麻呂というのは、君の性質に沿うように、そしてここ日本で親しまれるように、つけた名前。『愛』は、あなたの本質よ」
彦麻呂は、疑いの目で私を見つめる。
額を伝って、じわりと汗が流れ落ちていく。
――あんなに素直だった彦麻呂が、こんなに疑い深くなってしまったなんて。
やはり、ここに彦麻呂がいてはいけない気がする。
彦麻呂は、人里離れたこの島から一歩も出ないようにしていたけど、スマホやテレビを通して、世界のことを知り始めている。
私たちの理不尽なところも、どこか不合理な部分も、そのまま吸収してしまったのだ。
ニュースでは戦争や飢餓の映像が流れ、その一方で、享楽にふける映画や、架空の物語も同じ画面に映し出される。
それらを見て彦麻呂は、何を現実だと思い、何を人間の本質だと受け取ったのだろう。
考えれば考えるほど、背筋が冷たくなっていった。
今ここで、本当の名前に変えることはできない。
以前、佐藤が「エロス神が彦麻呂という名を受けて、地球の物質で体を作り直したのではないか」という仮説を口にしていたことが、頭をよぎったからだ。
窓からプロメテウスが顔を覗かせ突然こう言いだした。
《ここには違う神々もおられるようだ。我らがここにいては、かの神々の領分を侵すことにはならぬか。人の神モナミよ》
「はぁ?」
弁慶も愛菜も佐藤さんまで口をあんぐりと開けてプロメテウスを見るが、彦麻呂は、
《そうだよ。ここには力ある神々がすでにおられる。われも、感じる。だけど、見えない……》
そういえば彦麻呂は、以前父島で「神に祈れば思いは通じる」などと言っていた。
あれは本気でそう思って、口にした言葉だったのだろう。
確かに日本にも、八百万の神がいるという迷信――いや、神話がある。
だからといって、アルケディアの神々のように実在すると、本気で信じている人はほとんどいない。
「もしかすると、本当はいるのかも……天照大神」
「もなっち、飛躍しすぎ。プロメテウスは、もなっちのことも神だと認識しているんだから。人間がいっぱいいるって感じたに違いないわ……そうに違いない」
弁慶は自信なさげに否定するけれど、内心では神がいるのかもしれないと思っていそうだ。
でも、プロメテウスが自分から《ここにいては迷惑が掛かる》というのなら、アルケディアに戻ってもらうことには、きっと素直に納得してくれそうだ。
「野崎さん。またアルケディアへ行きますよね。いつ頃になりますか?」
「そうだな。私はここにいて事務処理をしなければならないが、君たちが行く分には構わない。早速行って、神を戻してくれないか?」
「はい。佐藤さんは? 行きますか?」
「ああ。弁慶とも話し合っていたんだ。行くよ」
愛菜もケルベロスを連れて行くため同行する。
ペットたちは、ディメンションリンク事業部の社員に面倒を見てもらうことにした。
だが、ジョバンニだけは連れて行きたい。彼から目を離したくないと私は思った。見るからに、寿命が迫っているように感じるのだ。そのときは、そばにいてあげたい。
プロメテウスは今、弁慶が見つけてきた特大の股引を身につけて家の中で寛いでいた。
私は、再びアルケディアへ行くために、荷物の整理をする。
リュックの中から、『図解 ギリシャ神話 神々の詳細』という本が出てきた。
何気なく手に取って眺めているうちに、後ろからプロメテウスがのぞきこんでいるのに気づく。
《これは……われのことをあらわしているのか?》
彼の太い指が示したのは、プロメテウスの絵画だった。
「そうよ。そして、ここに書いているのが名前。人間の世界にも、ギリシャ神話というお話があって、アルケディアはそれと少し似ている。だから、ここに載っている名前を神々につけたの。見たいのなら、どうぞ」
真剣に本を見ているプロメテウスを眺めながら、私はあることをひらめいた。
――何も、私が名前をつけなくてもいいのでは?
いっそのこと、プロメテウスに名付け親になってもらえば、あの世界の運命の三姉妹モイライの糸から、彼を守れるのではないだろうか。
彼を、ひどい目に遭う運命から遠ざけられるのではないだろうか。
運命の糸は、強力だと感じる。
神の世界は、過去から連綿と同じことを繰り返しているのではないだろうか。
《これは何だ?この、細かい記号は》
ああ、そうだ。まずはカタカナを教えるべきだ。並記している英語は、覚えるにも大変だろう。カタカナなら、すぐに覚えることができるはずだ。
それから私は、カタカナ表を作り、一文字ずつ声に出して教えていく。
さすがは神だ。
あっという間に文字を覚えてしまうと、ページをめくりながら、絵と名前を照らし合わせ、一心不乱に読み続けた。
日本語で書いた解説も、私に読んでほしいとせがむ。
だから、ゆっくりと噛んで含めるように教えていく。
そばで見ていた彦麻呂も興味を示し、一緒に本をのぞきこみ始めた。
愛菜は私に、
「いいの? 野崎CEOにまた叱られない?」
と小声でたずねる。
「いいのよ。アルケディアは神の世界だもの。神があの世界を創るべきだわ。それに、彦麻呂も、プロメテウスも、私が名付け親だわ。きっと私の言うことは聞いてくれるはず……」
「……コロは、アルケディアで名前をケルベロスに戻すんでしょう? 何となく寂しくって。この頃、可愛くなってきたのに」
「だったら、愛菜がもう一度名前をつけてあげればいいじゃない」
「いいの!?」
「ええ。でも、ケルベロスは冥界へ戻してあげなければ。ハデスにも名前をつける必要があるし。冥界へは、プロメテウスが行ってくれると思う」
《モナミ。われは、エロスというのか!》
まずい。彦麻呂に気付かれてしまった!
恐る恐る彦麻呂を観察するが、彼に変化が起きる気配はない。
――どうして?
彦麻呂は、特に気にしている様子もなかった。そして、エロスの解説を読むようにと、私にせがんでくる。
図解には、今の彦麻呂とはまったく違う姿が描かれている。
天使のような羽の生えた、可愛い幼児の姿。
初めに私が会ったエロスとも、また違う姿だった。
よくこれで、自分のことだと分かったものだ。
仕方なく、彦麻呂に書かれている解説を読んで聞かせる。
彼は頭をかしげ、
《悪戯好き? エロスは意地悪なのか?》
「そうね。私が思うには、エロスは子どものまま成長していなかった。だから、愛を与えることもするけれど、子ども特有の残酷さも、そのまま残っていたのかな」
私の話を聞いて、彦麻呂は顔をしかめる。
《あまり好きになれないな……エロスって》
彦麻呂ったら……初めて会ったとき、私に意地悪したことは忘れてしまったの?
私はそんなことはおくびにも出さずに、彦麻呂にたずねる。
「彦麻呂は、アルケディアへ帰らなければだめよ。ここにいては、人間でもない神でもない者に、変わってしまいそう」
《分かった。アルケディアがどういうふうに変わったか、見たいし。でも、ここへも遊びに来てもいいだろう?》
「……悪戯しなければね。約束できる?」
《大丈夫さ。われは愛の神なんだもの》




