26
エトナ山の拠点にいて、どれほど時間が経っただろう。
少なくとも一ヶ月は過ぎた。
その間、優しい神のプロメテウスは、私たちの側を離れずに、いろんなことを聞きたがった。
人とはどのような神か。
人の住む地はここより遥か遠いというが、一体どこにあるのか。
そのたびに答えに窮する。神に嘘はつけない。
私と野崎は、だんまりを決め込むしかなかった。
プロメテウスは悲しそうな目で私を見て、そっと火を差し出す。
だが私は受け取らない。
これは神話に書かれている、あの場面だろうか。
人に火を与えたとゼウスに知られれば、プロメテウスは未来永劫苦しむことになるのだから。
アトラスも、たまに姿を現す。
彼は、長くは離れられないのだそうだ。
《天が落ちてこないように支えなければならない》
「ここは星でしょう。天は落ちては来ないのでは?」
野崎が首をかしげて「そうではないかもしれない」と言うが、私は意識をそちらに向ければ、星になり得ると押し通す。
無駄な仕事を押し付けられたアトラスを解放してあげたいと、昔から密かに考えていたのだ。
「私たちは、ここをアルケディアと名前をつけたの。ここは一つの星。広い虚空に浮かぶ安定した星。だからアトラスは……もう自由よ」
アトラスは、私の話をじっくりとかみしめているようだった。
思念の世界なのだから、神の意識を変えればいい。私はそう思うのだ。
***
神たちは、今までになく激しく戦っていた。
特にゼウスとガイアは、他から抜きん出る強さだ。
ゼウスが雷を大地に突き刺すと、負けじとガイアは山を盛り上げ、岩を噴き出し、溶岩を吹き出す。
広大な土地が荒れ果て、小さき神や精霊たちは逃げ惑う。
とうとう地中深くまで大きな穴が穿たれた。
地の底がめくり上がるような大穴。そこから冥界を治める王が姿を現した。
調停神たる冥界の王は、天と地を隔てるように立ちはだかった。
そして大音声で、ゼウスとガイアを叱咤する。
《やめんか! 双方、矛を収め、周りをよく見よ!》
熱くなっていたゼウスとガイアは、そこで、はたと思いとどまり、己の所業をまじまじと見て、深く恥じ入る。
神々の戦いは、始まったときと同じように唐突に収束した。
その後は何事もなく、それぞれの居場所へ姿を消してしまうのだ。
ヘスティアは、
《今回は、随分早く収まったようだ》
と、気楽に呟く。
神は不死だ。
これほどの被害を受けて恐れおののくのは、いつも力の弱い精霊たち、そして哀れな獣たちだった。
今までは、この世界は、神によって壊されても、すぐに元通りに復活して、いつもの生活に戻れたのだ。
だが、今回の戦いの爪痕は、なかなか元には戻らない。
ヘスティアと、聖なる山に住まう神々は首をかしげて話し合った。
《大きな戦いではあった……しかし、これほど長い間、元に戻らぬとはどうしたことか》
《たれぞ、原因を知るものはおるか》
《私にはさっぱり分からぬ。強いて言えば、ゼウスが名を受けた。そしてガイアが名を受けた、という違いであろうか》
そこへアトラスが現れた。その姿を見て、神々は口々に非難する。
《己の役目を忘れたか! 天が落ちてくるぞ》
そこでアトラスは、涼しい顔で言い放った。
《この世界は、丸い星というものだ。人の神が名をさだめたもうた。その名は、アルケディア。この世界は変化した》
その言葉を聞いた神々は、世界そのものが変わってしまったことを悟る。
これから先、どのような世界となっていくか、誰にも分からない。
神々は初めて、恐れを抱くことになった。
***
ヘパイストスが、神々の戦いは収束したと教えてくれる。
なんと、ハデスが冥界より出向いて調停したのだそうだ。
「ハデスって、そういう役回りなの?」
「神話ではあまり表へ出ない神だが、冥界は秩序を司る場所でもある。案外、一番冷静なのかもしれんな。さあ、戻ろう榊原君。拠点がどうなったか心配だ」
ヘパイストスが、今度も私たちを同じように送り届けてくれた。
なぜかそれに、プロメテウスが一緒についてくる。
「榊原君、随分懐かれてしまったようだな」
「……大好きな神の一人だから、うれしいけれど、なんだか複雑」
体の大きなプロメテウスは、少しだけ鬱陶しい。
そこで彼に小さくなってくれないかと頼み込んだ。
《そうであったな。済まぬことをした。其方らと同じくらいで良いか?》
「ええ、そうしてくれると非常に助かります」
三メートルほどに縮んだプロメテウス。
まだかなり大きいが、これ以上は無理だという。
巨人族としてのアイデンティティが、体の大きさを決めているのだろうか。
拠点に着いて目にした光景に、私たちは肩を落とした。
プロメテウスには普段通り接していたものの、野崎は日本へ帰れなくなるのではないかと危惧しているようだった。
拠点の建物は傾き、内部も相当荒れているだろう。
私たちがキャンプを張っていた林は焼け焦げ、川向こうの森まで広い範囲が焼けてしまっている。
私が大声で誠一を呼ぶと、しばらくして木々の間からひょっこりと姿を現した。
――良かった。無事だったみたい。
《苔の精霊モナミも、無事で何よりです》
誠一がそう言って、ほっとしたように笑った。
彼が教えてくれたところによると、神々の戦いの余波で、少なくない数の精霊たちが消えてしまったらしい。
《いつもなら、すぐに元通りになるのですが……今回はどうしたものか》
誠一は、焼け焦げた林と森を見回し、ふりふりと頭を振ると、森の奥へ戻っていった。
《苔の精霊モナミ……いや、人の神よ。其方らが名を与えたことで、この世界は実体を固めたようだ。そのため、元に戻るにも時間が掛かるようになったのだろう》
賢者のような顔で、プロメテウスはそう分析した。
アルケディアという名を与えたことが、この世界そのものを変えてしまった。
私はまた、胸の奥が沈んでいくのを感じた。
神の世界には干渉しない――そう大口を叩いていたのに、結果として誰よりも干渉している。
私が名前を与えたせいで、この世界は、私の知る神話とはまったく違うものへ変わってしまうのではないか。
良かれと思ってしたことも、「こうあってほしい」と願ったことも、結局は私のエゴだった。
《何を悩んでいるのだ、モナミ》
「この世界をめちゃくちゃにしてしまったのは、私だわ」
《停滞し、色を失っていた世界に、一つの流れを与えた。其方が為したのは、そういうことだ》
プロメテウスは穏やかな眼差しで私を見つめると、
《受け取ってくれ》
と、再び火を差し出した。
私はゆっくりと首を横に振る。
――これは、受け取ってはいけないものだ。
なぜか、この世界の神々は神話をなぞるように振る舞いたがる。
まるで、運命を司る三女神モイライの糸に絡め取られているようだ。
まだ、この世界は完全には変わっていないのだろう。




