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拠点の宿舎が出来上がり、仮宿舎は解体された。
今度の宿舎には、個室が二十、大部屋が十ある。
大部屋には十人が泊まれる。個室はビジネスホテルのような造りで、広さも同じくらいだった。
野崎の部屋だけはスイート仕様になっている。
ほかには、大きな食堂もあった。
いつでも日本へ戻れるし、ディメンションリンク事業部の半分ほどが、ここに移動してくるようだ。
ギリシャ神話の本をもう一度読み返し、弁慶や佐藤さんと神々の名前を確認しておいた。
それに、弁慶や佐藤さん、愛菜でも名付けができると分かったおかげで、以前ほど肩に力を入れずに済むようになった。
それでも野崎は、なるべく私に名前を付けてほしいという。
「この世界は君がリンクし、君の願いで出来上がった。だから君がつけるべきだ。私は今後、名付けはしない」
野崎は『マイクロ』事件で、自信をなくしたのかもしれない。
私の役目は名付けだけだ。
だが、ここの資源を定期的に手に入れるという一番の目的については、野崎も頭を悩ませているようだった。
「毎回ガイアに出てこられてはたまらない。せっかく出来上がった拠点が、地震で崩壊する」
「ヘルメスなんかが来てくれたら、交渉できそうですね」
「……ヘルメスが、交渉相手に最適なのか?」
私は自分の知識で知っていることを話して聞かせた。
「ヘルメスは、神々の使者として有名です。商人や旅人の守護者で、交渉や駆け引きに長けた雄弁の神です。でも、どこか口八丁な感じがします。気を付けていないと、うまく手玉に取られそうです」
「もしヘルメスが現れたら、君は名前を変えるか?」
「怪物はともかく、神々の名前はなるべく変えない方向で……ここは神の世界ですし」
野崎は腕組みをして考え込む。そして、
「では、外交や企業交渉の経験者を呼ぶか。私では分が悪い」
そう言って野崎は、日本へ一時戻っていった。
政府の交渉役でも連れてくるのだろうか。
私が考えることではない。
ヘルメスもそうだが、ギリシャ神話の神々は、どれも一筋縄ではいかない気がする。
特に女神は厄介だ。
ヘスティアは穏やかな神だった。
けれど、もしヘラやアフロディーテが現れたら……。
他にも、冥界のハデスやゴルゴーン三姉妹なんかもいるかもしれない。
私はどう接すればいいのか、本気で悩み始めてしまった。
名前は変えたくない。
だったら――『忠犬コロ』のように、名前の前後へ言葉を付け加えるのはどうだろう。
例えば、『穏やかな~』とか、『腰が低い~』とか……。
紙に書き留めておかないと、いざというときに咄嗟の言葉が出てこない気がする。
私は『穏やかな』『寛容なる』『静穏なる』『無害な』……など、神々に添えられそうな修飾語を忘れないよう手帳に書き留めた。
「もなっち。ギリシャ神話の本もう一度見せて欲しいんだけど」
弁慶が私の部屋へ来て質問をする。
ギリシャ神話のあらすじに納得いかないという。神の性質が語られる話によってバラバラなため、理解し難いのだ。
「カオスから生まれたウラノス、ガイア、エロス。彼らは家族とも言えるものだわ。なのにガイアが産んだ子どもに対して酷いことをする。そう思わない、もなっち?」
「クロノスも、ゼウスも似たようなものだわ。ガイアはそのためか度々ゼウスと戦ったのよ。言ってみれば、親族同士がいがみ合う構図ね」
「何とも、ドロドロしている世界ね……」
「古代の人たちが、自分たちの世界を神になぞらえて語った物語なのかもしれないわ。たくさんの人が思い思いに語り継いだから、話も少しずつ変わっていったんでしょうね」
「でも、ここには実際に神が存在しているわ。もなっち」
弁慶はその後真剣に本を読み始めた。
弁慶に話を聞かせていたら、無性にヘパイストスに会いたくなった。
思い立って岩山へ登り、祭壇に供物を供える。
けれど、もう来てはくれないようだった。
「忙しいのか、それとも……人間と話すのは飽きてしまったのかしら」
幻獣も、ぱたりと姿を見せなくなっていた。
森の方に雄牛が草を食んでいるのが見える。
その周りには、ニンフたちもいた。そしてなぜか弁慶が牛と戯れている。
『白い雄牛……』
今までここいらに牛がいただろうか。
私は、もしやと思い、急いで岩山から降りていく。
川の岸まで走り寄ると、弁慶に向かって叫んだ。
「弁慶! その牛に構わないで! それは――」
私が叫んでいるそばから、弁慶は牛の背にひらりと飛び乗り、そのまま森の奥へ消えていった。
まずい。あれはたぶん、牛に化けたゼウスではないのか。
でも、なぜ弁慶を連れて行ったの? ゼウスは好色で知られている。美しい女性を攫って我がものとするのだ。
男の弁慶が狙われるなんて、あるのかしら……。
美少年ならまだ話は分かる。
でも弁慶は、どう見ても筋骨隆々のごついおじさんだ。
愛菜や佐藤さんに事情を話し、「弁慶を助けに行きましょう」と訴えた。
だが、二人は顔を見合わせる。
「ただ牛に乗って遊んでいるだけでしょう。ほっといても、そのうち戻ってくるわよ」
「万が一ゼウスだとしても、弁慶がさらわれるとは考えにくいな。ただの牛じゃないのか?」
……そうかもしれない。
でも、胸騒ぎがする。
私一人では、どうすることもできなかった。
***
弁慶は川の畔で、向こう岸に現れた白い牛を見ていた。
牛はニンフにしきりにすり寄っている。ニンフは、逃げ惑っているようだった。
「ギリシャ神話ね。白い牛、きっとあれはゼウスに違いないわ」
弁慶はゼウスが気になっていた。
神々の王にして、絶対なる権力を持つ者。
法を犯すものには容赦しない。
そして女好きの一面を持つ、人間くさい神様だ。
だが、この世界の神は、まだ固定されていない存在だという。
「あたいが名をつければゼウスの性質が変わるかしら」
愛菜ももなっちも、そして野崎CEOまで名付け親になった。
――自分も名付け親になってみたい。この世界を作り変える一端を担いたい。
神の王に名を付ける事が出来れば、この世界は、もなっちが望む穏やかな世界に固定されるのではないか。
弁慶はそう考えたのだ。
彼は、ザブザブと川に入っていった。
雄牛は弁慶のことなど気にせず、ニンフを背中に乗せようと手を尽くしているようだった。
――まったく。スケベな神様ね。
牛の側まで行き、声を掛ける。
「天を統べる神々の王であらせられますか?」
牛はゆるりと頸を廻らし、弁慶を冷たい目で見た。
《いかにもわれは天空を統べる王にして神々の上に立つ者だ。其方はどこから湧き出でたるものか》
「あら、神に力を与えるために遠方より参った人間のことを、ヘパイストスより聞き及んではおられませんか?」
《ヘパイストスだと。それはなんだ》
ヘパイストスやガイアは、名を授けられて以前よりも力を得ているはずだ。
もしかすると、そのことはゼウスたちオリュンポスの神々には伏せているのかもしれない。
神話を見る限り、彼らの仲は決して良好とは言えない。
とりわけガイアとは、幾度となく争いを繰り返したと伝えられているのだから。
「えーと、確かヘパイストスは鍛冶の神、あなたの初めの子どもだったはず」
《不具の子か。あれが近頃、妙に堂々としておると思えば、それが名の力か》
「ええ、名をつけて力が増したはず。どうでしょう神々の王。私があなた様に名をつけて差し上げましょうか?」
《よし、われの背に乗れ》
牛の背に乗ると、景色が一瞬で変わった。
弁慶の目の前には、雲を突き抜けるような巨大な山がそびえている。
――ここは、オリュンポス山!
山の麓で牛は巨大な神の姿に変わり、弁慶を見下ろす。
《さあ、われに名をつけてみよ》
ごくりと喉を鳴らし、震える声で弁慶はか細くささやく。
「公正なる王……あなたは……貞淑な心を持つ……ゼウス……」
《……貞淑なゼウス……それがわれの名か》
そうゼウスが言った途端、ゼウスの体から雷がほとばしった。
弁慶は雷に打たれ、気を失った。




