21
この異世界へ来て、もう二か月が過ぎようとしていた。
拠点も、ようやく形になり始めている。
そんな中、私と野崎は、この世界に名前を付けるべきかどうかで意見が対立していた。
「名前は必要だろう。いつまでも『神々の異世界』では不便だ」
「……軽々しく名前を付けるべきではないと思います」
「今更そんなことを言ってどうなる。ここはもう私たちに認識されてしまったのだぞ」
「……」
野崎の言い分は、人間が認識していないと神の神性がが定まらなかった。私たちが神を見て神の存在は決定したと言っているのだ。
まるで『シュレーディンガーの猫』の思考実験のようだ。
――違うとは言い切れない……。
だったら、この世界にふさわしい名前を考えるしかない。
なるべく穏やかな神々の世界であってほしい。
人間の欲望を映すことなく、この世界本来の姿を保ち続けてほしい。
そんな願いを込めて、私は口を開いた。
「始原を意味する『アルケー』と、神々の理想郷『アルカディア』を合わせて……アルケディア」
野崎は呆れたようにため息をつく。
「まったく君は……。まあ、それでもいいが、もっと短い名前はないのか」
「願いを込めてつけた名前ですよ。それを端折るんですか!」
「だが、いつも私たちがしていることだろう。アルケディアは舌を噛みそうな名前だ。そのうち皆が勝手に短く呼び始めるぞ、「アルケ」とか「アルカ」なんてな」
野崎の言ったことは気にしないことに決め、私は心で念じる。
『どうか神々が争わず、未来永劫、この美しい世界が続いていきますように――
神々の世界……アルケディア』
その瞬間だった。
バリバリッと轟音がとどろき、空に稲妻が走った。何本も。
天から落ちた白い閃光が大地へ突き刺さる。
同時に、大地の奥底からも眩い光が噴き上がり、天地が共鳴するように輝き始めた。
天からも地からも光が放たれ、世界は白一色に染まっていく。
私は思わず目を閉じた。
周囲では作業員たちが慌ただしく動き回っている気配だけが伝わってくる。
けれど、不思議なことに、誰の声も聞こえない。
音さえも、この白い光に飲み込まれてしまったかのようだった。
どれほど時間が経ったろうか。
数時間とも思えた天地の狂宴はいつしか静まり、私たちは呆然と立ち尽くしていた。
「いったい……何事だ?」
「世界が今――生まれ変わった……?」
「馬鹿を言うな。世界が生まれ変わるだなんて、突拍子もないこと……」
野崎は空を見上げ、そこで言葉を失った。
私も同じだ。
私たちの前に、天を突くような幻獣が立ち塞がり、こちらを睥睨していた。
「あ、れは」
「言うな。何も言うなよ! 名前を言ってはいけない!」
私は自分の口を両手で塞ぎ、目を見開いてその怪物を見上げていた。
――テュポーンだわ。
ガイアがゼウスを倒すために生み出した怪物。
巨大な蛇の尾を持ち、コウモリのような羽根を広げ、口からは火炎が噴き出していた。
でも、なぜ今ここに現れたのかしら。
よく目をこらして見ると、テュポーンの体は透けている。
まるで投影機で空に映し出された幻のようだ。
野崎は私に、「何か、ほかの名前を言え」と言いだした。
「他の名前ですか?」
「たぶんあれは、実体化していない。世界が生み出したばかりだろう。名前を付けて違うものに変えなければ、ここは滅びるぞ」
テュポーンは、最強の怪物と言われている。
ゼウスでさえ、一度は負けたという。
私は何かないかと頭をめぐらせるけれど、焦っていて何も浮かんでこなかった。
空に浮かんだ怪物は、刻々と体に色を帯び始めているというのに……。
「ええい、くそっ! お前の名は『クラウドサウルス・キンギイ』だっ!」
「ちょっと野崎さん。なんでエリマキトカゲ?」
「子どもの頃好きだったトカゲだ。咄嗟に思い付いたのは……それだ」
名前を与えられたテュポーン――いや、クラウドサウルス・キンギイは、しゅるしゅると音を立てるように体を縮めていった。
やがて、空から地上へ落下する。
ドスン。
少し遅れて、大地が小さく揺れた。
恐る恐る落下地点へ向かう。
地上にいたのは、全長三メートルほどまで縮んだクラウドサウルス・キンギイだった。
私たちに気付くと、首元の襟のような膜をぱっと大きく広げ、威嚇する。
次の瞬間。
二本足で立ち上がると、足を交互にちょこまかと動かしながら、一目散に走り去っていった。
「……妙に愛嬌のある走り方でしたね」
「そうなんだ」
野崎は満足そうにうなずく。
「エリマキトカゲは、走り方が可愛いんだ」
それから三日間、毎日のように幻獣が現れた。
野崎は最初のうちは、図鑑を片手に難しい学名を調べては名前を付けていた。
頭が五十、腕が百本もあるヘカトンケイルが現れたときは、あまりの異形に顔を引きつらせていたが、それでも彼は冷静に名前を叫ぶ。
「お前は『トルティリス』だ」
そう言った途端、ヘカトンケイルは地面に根を張り、大きな木に変わった。
「これって、アフリカにある『アンブレラソーン』に似ていますね、野崎さん」
「ああ。学名が『ヴァケリア・トルティリス』だ。だから『トルティリス』と名付けた」
野崎は、ヘカトンケイルは古代の人たちが木をモチーフにして編み出した怪物だと思っているのだそうだ。
わたしたちの拠点にどっしりとした木がそびえ、気味の悪かった怪物は無害な植物になって鎮座した。
その後も野崎は、何度か名前をつけていった。
だが、七日もすると、面倒になったらしい。
「もう全部マイクロでいい」
そう言い出し、現れた幻獣に「マイクロ」を付け名まえを呼び始めた。
ケルベロスも例外ではない。
「お前は、マイクロケルベロスだ」
その瞬間、三つ首の魔獣はみるみる縮み、手のひらサイズの三頭犬へと変わった。
ただ、「マイクロ」を付けた怪物たちは、小さくなっても中身までは変わらなかった。
ケルベロスの唾液は、やはり猛毒らしい。
おかげで私たちは、手のひらサイズの三頭犬が仮宿舎へ侵入しないよう、入口をきっちり閉めて眠る羽目になった。
愛菜が愚痴をこぼす。
「野崎CEO。小さくすればいいって考えてませんか? かえって厄介になっちゃってます」
「……では、どうすればいい」
「せめて『ミニ』にしてください。『マイクロ』だと小さすぎて捕まえられません。『子犬ちゃん』とか、そのくらいのサイズ感でお願いしますよ」
「……では、名前を付け直すか。できるのか?」
「やってみる価値はありそうです。一度付けた名前を変更できるかどうかも、検証しておくべきですね」
私がそう言うと、野崎は渋々重い腰を上げた。
そこで、作業員総出で『マイクロケルベロス捕獲作戦』が決行された。
何しろ、小さすぎる。
石をどけてもいない。草をかき分けても見つからない。
作業員たちは分厚い作業用手袋をはめ、地面に這いつくばるようにして石の下や草むらを探し回った。
ようやく捕まえたときには、誰からともなく拍手が起こった。
「愛菜。君がやってみなさい」
「ええーっ!」
「でも、名前を変えるにはまず解除する必要がありそうだ」
佐藤に言われ、野崎は顔を引きつらせ皆を避難させる。
檻に入れられたマイクロケルベロスは、野崎に向かってしきりに威嚇し吠えていた。
何しろ掌サイズだ。吠える声も小さく、キャンキャンと妙に可愛らしいが、侮ってはいけない。猛毒の唾液が飛んでこないように野崎はやや距離を取って厳かに言い放った。
「お前の名前を解除する。元の幻獣に戻れ」
途端に名前を縛っていた光が弾け、檻を壊してケルベロスの体がみるみる巨大化した。
野崎へ飛びかかろうとした、その瞬間――愛菜が慌てて叫ぶ。
「あなたは『忠犬コロ』よ!」
ケルベロスの体がぴかりと光る。
だが、大きさは変わらない。
五メートルはあろうかという巨大な三つ首犬――忠犬コロだった。
コロはその場で行儀よく伏せると、愛菜をうっとりと見上げ、三本の尻尾をぶんぶんと振り始めた。
その後、忠犬コロは、愛菜が行くところへはどこへでも付いて回るようになった。
だが、あまりにも大きく、何かと邪魔だった。
ある日、愛菜がコロに何やら話しかけている場面に出くわした。
不思議に思って見ていると、彼女は熱心に「お手」を教え込んでいた。
「いい? こうやって力加減をするの。他の人にも優しくね」
《グオーン》
「あと、涎はだめ。危ないから絶対に飛ばしちゃだめよ」
《グォ……クーン》
愛菜が異次元ドアで日本へ戻るときは、大人しく林の中で「待て」をしているコロの姿が、拠点の日常になっていった。




