20
私は、罪悪感に押しつぶされそうになっていた。
元気が無くなった私を見て野崎が声を掛けてくる。
「何があった?」
そこで、数日前のサテュロスの一件と、弁慶たちの仮説を話す。
「何を馬鹿なことで悩んでいるんだ。そもそもここは異世界だ。たまたまギリシャ神話にそっくりだと言うだけだ」
野崎は簡潔にこの世界に対しての見解を述べる。
「名前の概念がないのは当たり前だ。名付け自体は人間のものだ」
名前自体が人間のものだと言われ、ますます私は落ち込んでしまった。
私の落ち込む様子を見て、野崎は私の肩に手を置き優しく囁く。
「神だと思うから君は苦しむ。いいか、蟻や蜂のようなものを考えて見なさい。蟻のような集団で一つのもの。それは意識はあるかもしれないが、それは集団としての一つの中の一個だ。そこにたまたま人間が一匹の蟻を特別に思い、名前を付けたとする。蟻は理解しないだろうが名付けた人間にとってはその蟻は特別だ。そうなればその蟻は集団の中で特別な存在になる。名付けた人間にとってな」
分かるけれど、違うと感じた。
神は蟻ではない。考える力も、持つ力も、それぞれが固有のものだ。
たぶん野崎は、私を元気づけるために言ってくれたのだろう。
そのとき、不意に閃いた。
ここは、私が思い描いた神話世界とリンクした異世界だ。
まだ人もいない、古代の神秘的な世界。
過去、多くの神々も、初めは人が崇め、名を与えたことで「神」となった。
だったら、これから私たち人間が神として認識すれば、この世界の存在たちも本物の神になるのではないだろうか。
それが、「名を付ける」ということなのではないだろうか。
***
二日前のバーベキューの片付けが、まだ終わらないと愛菜は困っていた。
「一体どうしたの?」
「コンロの炭がね、水をかけても消えないの。このままじゃ危ないでしょう」
愛菜に案内され、炭を捨てた穴を覗き込む。
確かに、二日前の炭とは思えないほど赤く燃え続けていた。
「……これは、おかしい」
もしかして、また神の仕業だろうか。
私は頭の中でギリシャ神話の神々を思い浮かべる。
「っ! まさか……竈の神、ヘスティア?」
すると、赤く燃える炭の中から、ふわりと人影が立ち上がった。
他の神々と違い、驚くほど存在感が薄い。目を離せば、そこにいることさえ忘れてしまいそうな、穏やかな女神だった。
《われは、ヘスティアという名を授かった》
女神は静かに微笑む。
《其方には、この竈の火が決して消えぬ加護を授けよう》
言うだけ言うと、ヘスティアはまた炭火へ溶け込むように姿を消してしまった。
なぜ私の傍に現れるのは、マイナーな神ばかりなのだろう。
物語にもろくに名前が出てこない神たち。けれど、そういう端っこの小話ばかり好んで読んでいたのは、ほかでもない私だ。
「困るよ先輩。火事になったらどうするの?」
神が突然現れて、加護だけ置いて帰ったというのに、愛菜はまるで恐れても気にしてもいない。
気にしているのは、火事になるかどうかだけだ。
……さすが、物怖じしないギャルである。
でも、これは確かに困る。消えない火などもらってもありがたくはないのだ。
現代人にとって、火など珍しくもないのだから。
しかし神々の加護に、いちいち目くじらを立てるのは骨が折れる。
まあ、今回の影響は小さい。良しとしよう。
火事にならないように囲いを作ってもらい蓋をするが、火は消えない。
――神の加護は火の性質までねじ曲げるのかしら。
だが、しばらく過ごしてみると、この火は地味に役に立つようだ。
一度ついた炭火は、次の日になっても赤みが消えていない。
面倒な火起こしが格段に楽になったおかげで、この頃は外でバーベキューをするのが、すっかり定番になっていた。
バーベキューコンロを囲んで、サーロインステーキを食べながら弁慶が不穏なことを口ずさむ。
「この分では、もなっちのところに毎日神が来るようになりそうね」
「……毎日……」
「先輩。今度神が来たら、もっと役に立つものをもらってください」
「でも、これはこれで便利じゃない」
「……それはそうだけど」
「炭を使わなくてもずっと消えない火なのよ。エコだわ」
佐藤さんと、神について話す。
この異世界はギリシャ神話によく似ている。けれど、どこかが違う。それが私たちの共通認識だった。
「人間が存在しない世界の神って、どういう存在なんだろうね」
「想像するのは難しいな。でも、一つ気になることがある」
「何?」
「ギリシャ神話には、プロメテウスが人間を創ったという説がある。もし、この世界には人間がいないのなら……プロメテウスも存在しないのかもしれない」
私は思わず黙り込んだ。
それは、少し寂しい。
私が一番好きな神が、この世界にはいないだなんて。
プロメテウスは、人間を創り、そして深く愛したとされる神だ。
ゼウスよりも古い神で、アトラスと同じティーターン神族。
人を愛するあまり、人間に知恵と火を与えた。
それを知ったゼウスは怒り、プロメテウスを鎖につなぎ、鷲に肝臓を食わせるという永遠の罰を与えた。
食われた肝臓はたちまち再生し、また食われる。
優しい神が、人のために永遠の苦しみを背負う。
子どもの頃、その話を読んだ私は胸が締め付けられたものだった。
「古代の人々は、なぜこんなにも悲しい神話を生み出したのだろう」
私がぽつりとそう呟くと、佐藤さんが口を開いた。
「神話っていうのは、その時代の人たちが苦しい現実に理由をつけたものかもしれない。どうにもならない強い力に翻弄されて、それでも生きていくための心の支えだったのかもな」
人間の歴史は、自然との闘いと言ってもいいのかもしれない。
文明が発達した現在でさえ、自然災害の前に人は無力だ。
それだけではない。
人は権力を欲し、他者を従えようとする。
神々の世界とは、人間が自らを投影した姿に他ならないのだろう。




