15
次の日の朝、弁慶が定時にやってきた。
彼は毎日、異次元ドアを使ってここへ来ているらしい。
「もなっち、久しぶりね。愛菜、これ、頼まれていた物よ。適当に買ってきたけど、サイズ大丈夫かしら」
「野崎CEOと同じくらいの体型だから、間に合うと思う。サンキュー」
どうやら、彦麻呂の服を調達してきたらしい。
ジーンズやパーカー、それに下着など、十数点も詰まった袋をがさごそいわせている。
彦麻呂は、まだ寝ているようだ。
「もなっち、彦麻呂って一体何者?」
「……異世界の神様。こっそり私にくっついてきちゃったの。名前を付けたら、エロスが変化しちゃったみたい」
「エロスって……キューピッドの元ネタの、あれ?」
宗教画でおなじみの天使とはほど遠い姿になってしまったけれど、私には、いまも神のままなのか、人間のようなものに変わってしまったのかは分からないと、弁慶に話す。
「野崎CEOには、まだ話していないんでしょう。このことを知ったら、彼は……」
「それ以上言わないで。今から頭が痛い」
「もなっち、異次元ドアの対策した方が良いかもよ」
「そうね、ドアに認証機能を付けましょう」
「やっておくね」
ガダダダン! ダン!
私たちがこそこそ話していたところに、大きな物音がした。
びっくりして振り返ると、そこに彦麻呂が寝そべっている。
「彦麻呂くん!」
愛菜が駆け寄って、助け起こした。
《へんだな。われ……飛べなくなった……》
「……そ、そうね。ここでは飛ばないのが普通よ。鳥じゃないんだから」
《消えることもできなくなった。其方らもそうなのか?》
私はどう答えればいいのか分からず、しばらく目を泳がせた。
「そうね、人間は消えたりできないわ。彦麻呂くんは、ここに適応したということでしょうね」
《そうか! 適応したか。よし、分かった》
異世界の神は、みんな素直だ。あまりにも純粋すぎて、私の胸はちくりと痛んだ。
彦麻呂は、朝食を食べたあと外を見たいというので、愛菜と一緒に犬たちの散歩に出てもらうことにした。
目を輝かせて外の空気を吸うと、そのまま駆けだしていく。
その後を、コタロウやジョバンニたちが走ってついていく。
愛菜は私を振り返って、
「まるで子犬みたいね」
とあきれたように言った。
見た目は美しい青年なのに、しぐさは年端もいかない少年だった。
「目の保養ね。なんてきれいな青年かしら。彼をモデル事務所にスカウトしたいくらいだわ」
弁慶が、うっとりとそうつぶやいたが、とんでもないことだ。
彦麻呂をこの島から出しては、絶対にだめだ。
何事もなく数日が過ぎ、野崎から「戻ってきた」と連絡が入った。
私と弁慶はディメンションリンクへ出社することになった。愛菜には引き続きここへ残り、彦麻呂の監視をお願いする。
「愛菜、悪いけどよろしくね」
「平気よ。格好いい彼と夢のような一日が送れるんですもの」
異次元ドアを抜け、そのまま野崎のプライベートフロアへ向かおうとすると、通信越しに野崎の声が響いた。
「以前の事業部のフロアへ行ってくれ」
ディメンションリンク事業部は一時閉鎖されていたが、どうやら元に戻ったらしい。
フロアへ入ると、佐藤がすでに待っていた。
私たちのブースのほかにも、事業部の人たちが忙しそうに立ち働いている。
「なんとなく懐かしい気がするのは、私だけかしら」
「そんなことないぞ。私もそう感じる。ここに課長がいたら、以前に戻ったような錯覚を起こすよ」
でも、決して以前と同じではない。
一度、異世界にリンクしてしまったことで、私たちの世界についての認識は変化してしまった。
世界は一つではないのだと、もう知ってしまったのだから。
神の世界は驚くべきものだった。
神話として読むだけなら面白かった。だが実際にあるとなったら、どうだろうか。
人間は小さく、非力で、神のような存在の前ではあまりにも無力だ。
私たちが集まっているブースに野崎がやってきて、「こちらに来てくれ」と言い、私たちはそのまま彼のスペースに移動した。
ガラス張りで、フロア全体を見下ろせるCEOの部屋だ。
私たちは椅子に腰掛け、野崎が話し出すのを息を詰めて待った。
「結論から先に言おう。今回の鉱物資源は、我が社にもたらされた恩恵が大きかった。かつてないほどの成果だ。国内のみならず、輸出も考えている。
だが、今後この資源はあてにできない。私は異次元ドアを取り外すことに決めた」
弁慶は腕を組み、じっと聞いている。佐藤さんはうんうんと、納得しているようだ。
私は彦麻呂のことを話すかどうか悩んだ。異次元ドアを外されたとしても、私は異世界へ行けるのだ。
初期モデルの異次元ドアを使う事にはなるが、不可能ではない。
だけどこのまま口を噤んでいることは私には出来ない。罪悪感が心の中に重く沈んでいるのだから。
弁慶がチラリと私を見る。私は頷き、大きく深呼吸をして野崎を見た。
「野崎さん。実は……エロスがこちらに来ています」
「そうか、そ……ん?」野崎が一瞬フリーズした。
「榊原君。今何と言った……」
「だから、異世界の神エロスがこの世界に紛れ込んでいます。今は島で、愛菜に見てもらっています」
野崎は小刻みに震えだし、顔を真っ赤にして叫んだ。
「君は! ここでも問題を引き起こした。そういうことだな!」
こっぴどく叱られてしまったが、私は甘んじて受けた。私自身が悪かったのだろうか、と少しは考えた。
だが、実際私にひっついて、エロスはこの世界に来たのは事実なのだから。
「まあ、まあ。野崎CEO。そんなにもなっちを攻めたら可哀想だ。彼女だって好きで連れてきたわけじゃないしね。しかも名前を付けたら神の性質が消えたみたいよ。影響は少ないと思うわ」
「なんだと! また名前を授けたのか」
野崎は額を押さえ、大きくため息をつく。
「……君って奴は」
佐藤さんは冷静に、今後のことを話し合おうと提案し、エロスを異世界へ返す方針となった。
「相手は神だぞ。そんなに簡単に事が運ぶとは思えない」
野崎は頑なだ。でも、それも無理はないと思う。あの世界の神々の力を見て、恐れたのだから。
「野崎CEO。彦麻呂は、消えることも飛ぶこともできないんです。たぶん大丈夫だと思います」
「ひ、こ、まろ……それが君が名付けた名前か? 君にはセンスというものまでないのか」
皆が話しているその時、こちらへ駆けてくる愛菜の姿が見えた。
――島にいるはずの愛菜が、ここにいる。
その意味に気づいた瞬間、私の背筋が凍りついた。
「先輩! 彦麻呂が消えました!」




