12
森は鬱蒼としていた。
足元には太い木の根がうねうねと伸び、歩きにくい。
根は苔むしていて滑りやすく、ときどき足を取られた。
それでも、何かに引き寄せられるように、私は進んでいった。
「なぜ、こんなことをしているのかしら」
自分でもよく分からない高揚感が、絶えず体を前へと押し出している。
後先のことは考えられなくなっていた。ただ、未知なるものがこの先に待ち受けているという、その一点だけが、今の私の心を満たしていた。
どれくらい歩いただろうか。
気づけば数時間は森の中をさまよっていた気がする。
やがて、薄暗い木々のあいだから抜けて、ぽっかりと開けた場所に出た。
そこだけが不自然なほど明るく、日の光がスポットライトのように降り注いでいる。
その光の輪を目にしたとき、ようやく頭が働きだした。
「これって、エロスが仕組んだ罠。そうに違いないわ」
そう口にした途端、胸の奥からじわじわと心細さがせり上がってきた。
――戻らなきゃ。
そう思って振り返った私の目の前に、サテュロスがいた。
身の丈は百六十センチほど。半身半獣のその男の顔立ちは整っていて、いわゆるイケメンというやつだろう。
だが、首から下はほとんど山羊そのものだった。
薄茶色の体毛にびっしりと覆われ、短い尻尾までついている。
蹄は二股に割れ、岩をしっかりとつかむような形をしていた。
横長の四角い瞳孔が、まっすぐに私をとらえて離さない。
緑がかった金色のぼさぼさの髪のあいだから、湾曲した角が二本、外側へと伸びている。
そいつはニタニタと薄笑いを浮かべながら近づいてきた。
まるで森にたむろするチンピラのような、だらしない立ち居振る舞いだった。
神話の中のサテュロスは、ニンフや人間の女性を追い回したり、酔って大騒ぎする
厄介な存在だ。
徒党を組めば調子に乗って、からかいや悪ふざけがヒートアップしていくという。
――困った……目の前のサテュロスは、軽薄ナンパ野郎にしか見えないわ。
《初めて見る精霊だね。ねえねえ、君は何の精霊? ここにいるってことは森関係だよね。もしかして“新たに生まれ出でし苔の精霊”…かな?》
苔の精霊だなんて。着ている服はびしょ濡れで、足元は泥だらけだった。
まあ、この見た目なら、そう思われても仕方ないのかもしれない。
「私はモナミって言います。あなたは?」
《俺は……山野を駆け巡るものなり。モナミというのは、何を表すものだい?》
「私の固有の名前よ」
《固有の……名前? それって俺にも付けてもらえるのかい?》
「名は体を表す」ということわざが、ふっと頭に浮かんだ。
神話には、真名を持つことで力を得たり、逆に名によって縛られたりする存在がいくつも出てくる。
この世界の神々に、軽々しく名を与えてはならないと野崎に言われてきた。
けれど、もしかしたら神のほうもまた、与えられた名によってどこかを縛られているのではないだろうか。
もともと持っていた性質が、名によっていっそう強く「自分はそういうものだ」と認識されて、その結果として神々は喜んでいたのかもしれない。
この世界の神や精霊に、人間のような固有の名を与えれば、その性質をどこかに固定できるかもしれない。
試してみる価値はありそうだ。
元々持っているポテンシャルからは大きく外れないでしょうけれど、この窮地を脱するにはそれしか思い浮かばなかった。
どういう名前を与えれば、サテュロスの性質を少しでも温和な方へと傾けられるだろう。
私は真剣に考え込んだ。
誠、清、優……。
そんなふうに頭をひねっているあいだにも、サテュロスたちは次々と集まってきてしまう。
私は焦りだした。
こんなにたくさんの、獣じみた半身半獣に取り囲まれてしまったら、私はいったいどうなってしまうのだろう。
ニンフが攫われて深い森の奥へ連れ去られたしまうと言う記述が頭を過る。
《なんか面白そうだな。俺たちも混ぜろよ》
繁華街でチンピラに取り囲まれたら、きっとこんな感じなのだろう。
周りにいるサテュロスたちは、下卑た笑いを浮かべながら目配せし合っている。
《名前を付けてもらうんだ。おまえらも、名前ってやつが欲しくないか》
《名前って何だ? 酒の一種か?》
初めに遭遇したサテュロスが、期待に満ちた目でこちらを見上げてくる。
ここにいる彼らは、全部で七柱。
いや、七人……いや、七匹かしら。
――一度に七匹もの名前、か。
私は、急に面倒くさくなってしまった。
「いいわ、名前を付けてあげましょう。あなたは誠一。次のあなたは誠二……」
こうして私は、名前のあとに漢数字を足すという、きわめて安直な方法に逃げ込んだのだった。
彼らは名前をもらっても、見たところ性質は変わらないようだった。
ふと、「漢字の意味を認識させるべきでは?」という考えが頭をよぎる。
「『誠』というのはね、まこと。誠実という意味があるのよ。だからあなたたちは、誠実な半身半獣だわ」
私の言葉が、ゆっくりと彼らの体に吸い込まれていくのが分かった。
サテュロスたちの体が一瞬だけ光を帯び、さっきまでのニヤニヤ笑いが、すうっと表情から消えていったのだから。
***
その頃、野崎は異次元ドアから社員たちを次々と迎え入れていた。
小山のように積み上がったレアアースやレアメタルを、異次元ドアエンタープライズ社の資材置き場へ運び込んでもらうためだ。
幸い、この世界の重力は地球よりもいくらか軽い。
おかげで、人の手作業だけでも、どうにか運び出しはこなせそうだった。
異次元ドア自体は、それほど大きくはない。
ダンプカーや重機を通すことなど、とうていできない幅しかないのだ。
そのため社員たちは、各自リアカーや手押し車を持ち込み、ドアのこちら側と向こう側とをひたすらピストン輸送で往復していた。
「そういえば、柏原君はどこへ行った?」
「さっきまで河原で休んでいましたけど……」
榊原は、できるだけ早く日本へ戻そう。
野崎はそう考えていた。
ここは危険すぎる。やはり連れてくるべきではなかったのだ。
彼女はこの世界を見いだした功労者でもあるが、こうも何度も番狂わせを起こされては、対処しきれない。
たしかに資源は手に入れることができた。だが、この先の展開があまりにも読めなさすぎる。
そのうえ追い打ちをかけるように、榊原は問題をさらに大きくしてしまうのだ。
さすがの野崎も、彼女に対する怒りを抑えきれなくなっていた。
昨日もつい、彼女に対してつっけんどんな態度を取ってしまった。
腹が立って、どうにも我慢ならなかったのだ。
けれど今は、少し言い過ぎたかもしれないと考え直している。
――彼女にとって、この世界は夢にまで見た神話の世界だ。
少しくらい浮かれてしまうのも、仕方のないことだったのかもしれない。
「佐藤、榊原君を探してきて欲しい。先に秘本へ戻すことに決めた」
「分かりました。でもモナミどこ行っちゃったんだ?」
「川の上流かもしれない。悪いが頼む。私は先にディメンションリンクへ行ってくる」
異次元ドアをくぐり、ディメンションリンクへ一時戻ってみると、こちらではすでに五ヶ月近くの時間が経っていた。
異世界とのあいだには、およそ二十四倍の時間差があるのだと、改めて思い知らされる。
島の工事も、そろそろ大詰めを迎えている頃だろう。
野崎は、ひとまず胸をなで下ろした。
「島のほうの異次元ドアとリンクしておいてくれ。ここの作業が終わったら、こちらのドアの設定は解除しておいてほしい」
「はい、承知しました。しかし、すごい量のレアメタルですな。向こう数年分はありますよ。これが、たった五ヶ月足らずで探し出して掘り起こせたんですか?」
「いや、神からの贈り物さ」
「は?」
野崎は、むっつりとして異次元ドアを再びくぐった。
これほどの量を譲り受けても、割に合わないくらいに、野崎は危機感を募らせているのだから。
今後の対策としては、異次元ドアは島にリンクさせる。それしか思い浮かばない。
万が一、異世界の神が日本へ入り込んだとしても、島であればまだ時間を稼げるだろう。
都会のど真ん中に神が現れたら、いったいどんな危機が襲いかかるのか。
想像しただけで、野崎の胃はしくしくと痛みだした。
目の前には、まだまだ鉱物資源の小山が残っている。
残りは島へ運び出すことにして、それさえ終われば、この場所とのリンクは完全に切る。
野崎の中では、すでにそう決めていた。
資源を運び込む時間を稼ぐ。
今の最重要課題は、それだけだ。
このことを国に報告すれば、今度こそ国は目の色を変えるだろう。
だが、神とまともな交渉など、本当にできるのか。
「無理だな。この異世界には、手を出しちゃいけない」
たとえ国が資源に目をくらませて反対してきたとしても、その決心だけは曲げるつもりはない。
『実際に神を目の当たりにすれば、政府の役人だって腰を抜かすに決まっている』
ヘパイストスやガイアは、たしかに恐ろしい存在だった。
だがギリシャの神々の中には、その二柱よりもなお恐ろしげな神が、数えきれないほどいるのだ。
ヘパイストスが、自在に自分の体を縮めてみせたとき、野崎は愕然としたものだった。
大きければ異次元ドアをくぐれない。
そう高をくくっていた前提が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた瞬間だったのだ。
ギリシャ神の何よりの恐ろしさは、「不死の存在」であるという一点にある。
だいたいゼウスなどは、父親の頭を突き破って子が生まれても平気なのだ。
そんなものと、まともに戦えるはずがないではないか。
もし、オリュンポス十二神だけでなく、ハデスやケルベロス、メデューサのような怪物じみた存在までがこの世界にいて、さらに地球へ渡ってきたとしたら──。
そのとき、いったい何が起こるのだろうか。




