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冥界はアルケディアの地下深くにある。
本来なら巨大な門の前には、門番であるケルベロスがいるはずだった。
だが、ここにその姿はない。
人の子と共にいることを選んだあの幻獣は、いまや冥界の門を離れている。
ケルベロスの名を拒み、コロという名のままでいることを選んだのだ。
プロメテウスは黒々とそびえる門の前に立ち、低く呼びかけた。
《ハデスよ。我が呼びかけに答えよ》
しばらくして、門前の闇が揺らぐ。
そこから、ハデスがゆっくりと姿を現した。
黒髪と黒き髭がその面貌に影を落とし、金の双眸だけが爛々と輝いている。
ただ立つだけで、神々すら一目を置く威があった。
プロメテウスは一瞬、その威に呑まれ跪きそうになったが、ぐっとつばを飲み込み踏みとどまった。
愛おしき人の子の願いを、ここで退けるわけにはいかなかった。
《ハデスよ。エロスの迷宮より渡りし、かの異界の人の子らがいずこにあるか、それを知りたい》
《プロメテウスよ。其方のあずかり知ることにあらず。ここへ来し魂は、ことごとく我が冥界の住人なり。疾く去れ》
ハデスの手にした二又の槍が、ぎらりと禍々しき光を帯びた。
されどプロメテウスは一歩も退かず、なお問うた。
《われはただ知りたいのみ。その者たちはいずれの階層にいるのだ》
ハデスは、半ば呆れたように言葉を落とした。
《……それほどまでに人の子が愛おしいか。其方にとっては、神々よりも重き存在なのであろうか》
《せめてこの目で見たいのじゃ。その者たちが苦しんでおるようなら、われがすくい取る。其方と戦ってでも》
《ふっ……ついて参れ》
一瞬、いかめしいハデスの目が笑ったようにも見えたが、プロメテウスはうながされるままにハデスの後をついていった。
ハデスの冥界は二つに分かれているという。
ひとつは、深き底にあって神々を閉じ込めておく奈落。
もうひとつは、精霊や獣たちが死後に赴く冥府である。
異界の人間たちもまた、冥府にいるはずだとプロメテウスは考えていた。
そこは初めて足を踏み入れる、薄暗い世界だった。
世界の果てには、黄昏のような淡い光が、静かに沈みかけたままとどまっている。
沈みゆくようで沈みきることなく、その光はいつまでもそこにあった。
ハデスが歩を進めるごとに、足元へ金の光がこぼれ、そこから草と花が音もなく生いひらく。
そのまわりには蝶と小さき羽あるものたちが舞い、花の蜜を吸っていた。
――これが冥府か。
薄闇に沈みながらも、そこは荒廃とは無縁だった。
むしろ地上のどこかを思わせる静かな豊かさに満ちており、プロメテウスはしばし見入るばかりだった。
《ここの住人はいずれまた地上へ還る。だが、奈落に落とされた古き神どもには、その巡りは訪れぬ》
《永久の牢獄と聞いていたが、どうやら古き神々にはその通りでも、他の者にはそうではないらしいな……》
《……あまり言いふらすな。われの威厳に関わる。畏れられているくらいが、治めるにはちょうどよいのだ》
ハデスがふいに足を止め、その指し示す方へ目を向けると、アルケデアではまず見かけぬ造りの建物があった。
人の子モナミが拠点としていたものに似た、角ばった異様な建物である。
《あれは、かの異界の人間の思念が結んだものよ。この冥府は、思いを形へと変えるにふさわしき理を持っておる》
いつの間にかハデスは姿を消していた。
プロメテウスは、ここを自由に歩くことを許されたのだと知る。
その建物には呼び鈴が据えられていた。
そっと押してみると、中から栗色の髪の男が顔を出した。
「いちいち呼び鈴なんて鳴らすなよ。勝手に入ってくればいいじゃないか。ボブ――あれ……あんたは?」
《われはプロメテウス。其方は地球のアメリカという国の者だな。もう一人はどこにおる》
「……俺らになんの用だ」
栗色髪の若者が警戒して戸口に手を掛けた。
《其方らは、すでに死んでいることは知っておるのか?》
「……そうか……やっぱり死んでいたか。ここは天国だったんだな。そうじゃないかとは思っていたんだ」
若者はがくりと肩を落としてその場に座り込んでしまった。
もう一人の若者が、遅れてそこへやって来た。
――おそらく、彼がボブなのだろう。
プロメテウスは二人に、ここが冥府であることを告げた。
さらに、望むなら再び地上に戻り、生を受けることもできるのだと話した。
「……俺たち、このままの姿で戻れるのか?」
《いや、それは叶わぬ。このまましばらくすれば其方らはアルケディアの生き物として、新たに生まれ変わることになる。獣として、な》
「っ……獣……」
《人の姿を望むなら、別の道もある。われの土人形のもととなるのだ。
されどその場合、其方らは現世のアルケデアにおいて、ただ二人きりの同胞となろう。あの地には人がおらぬゆえな。
あるいは、エロスの迷宮の住人として生きる道もある。そこには其方らの同胞もいる。
だが、やはり記憶は残らず、姿もまた変わる。選ぶがよい》
二人は長いあいだ、黙って考えていた。
「どっちを選んでも、今の俺たちは残らないんだな。おい、ボブ。お前はどうしたい?」
「俺は、しばらくここにいたい。ここにいれば腹も減らないし、綺麗な女もいるし、働かなくていいんだ」
「……そうだな。獣に生まれ変わるのは納得いかねぇ。だけど、記憶が残らねぇなら、結局は同じことかもしれねぇ」
彼らは、ぽつぽつと生前のことをプロメテウスに話した。
「リチャードさんに言いくるめられて、騙されたようなもんだったしな」
「ああ。人間だなんだって言ったって、意地の悪い奴はいくらでもいるしな。いっそ獣になって、自由に生きて死んでいくほうがいいかもな」
《人型は要らぬと申すか》
「下手に考える頭なんかあったって、何にもなりゃしねぇよ。獣のほうが、余計な心配しねぇで済む。そっちのほうが、よっぽどせいせいすらぁ」
その言葉を聞いては、もはやプロメテウスにも打つ手はなかった。
せめて彼らのうちにの強い執着、もしくは誰かへの思いが残っていれば、わずかばかりの記憶と力を持たせてやることもできただろう。
だが、それも持ち合わせてはいないようだ。
ふと、プロメテウスはモナミのペットたちのことを思い出した。
彼らには、モナミと一緒にいたいという、ひたむきで強い願いと深い愛着があった。
その願いこそが、プロメテウスの力を受け入れる器となったのだ。
しかし、この若者たちはすでに生前の生活に未練はなく、また諦めていた。
獣としての生を積極的に望んだのではない。抗うことをやめ、ただ冥府の巡りに身を委ねただけだった。
プロメテウスは重い足取りのまま、冥界を後にした。
***
「そう……彼らはこれから、アルケディアの生き物に生まれ変わるのね」
《すまぬ。われにも、どうすることもできぬ》
佐藤さんは、沈んだままのプロメテウスを慰めるように、静かだがはっきりと言った。
「それでも、彼らは自分で選んだんだ。プロメテウスが気を落とすことはない」
私たちはプロメテウスの宮殿を後にして、迷宮へ戻った。
野崎には、このことを伝えなければならないだろう。
彼は、どんな結論を出すだろう。
迷宮で死に、死に戻れなくなった者たちの行く末は、いずれ公にしなければならない。
「佐藤さん。さっきのプロメテウスの話、少し気になったの。強く望めば、生まれ変わったあとにも記憶が残る……そういうことにも聞こえたわ」
「……それも、神が介在してこその話だよ、モナミ。今回は君の願いを神が聞き入れたからこそ、ああして冥界まで足を運んでくれたんだ。このことは公にはできないだろう?」
「そうね。そんなことを知れば、平気で冥界へ行こうとする者まで出かねないもの」
「ああ。だからこそ、採掘者たちにはもっと慎重になってもらわなければならない。野崎さんとも話を詰める必要があるな」
死に戻りという仕組みがある迷宮だからこそ、生じた問題だった。
本来なら、死はそれで終わる。だが終わりが先延ばしにされることで、人はどこかそれを軽く見てしまう。
「エロスが悪いのよ!」
「モナミ。資源を欲しているのは我々の側だ。エロスはそれを、少しばかり面白くしたつもりなのだろう。彼には、人間が死に抱く恐怖が分からない。ただ、あまりにあっけなく終わるのは退屈だから、死に戻りを加えた。それだけだ」
「死の猶予の回数……やっぱり、遊ばれているみたいで嫌だわ」
「……それは私も思っている。結局のところ、退屈した神の世界に彩りを添える玩具にされているのかもしれないな」




