第9話 遅すぎる気づき
三国使節会議の翌朝、机の上に二通の手紙が置かれていた。
エスタリア国に渡って、四か月が経っていた。
季節は、初夏に差しかかっている。エスタリアの夏は、母国のそれよりも乾いていた。窓を開け放しても、湿り気が室内に残らない。書類の上に開いたままのインクが、半日もすれば自然に乾く。アルベリオン王宮の書斎ではあり得ないことだった。私は、その乾きの中で、毎日少しずつ呼吸を整えてきた。
外交顧問補としての日々は、最初の月こそ忙しかったが、二か月目以降は私の手の届く範囲に収まった。両国の通常書簡の校閲、古典語の文書の通訳、そして時折開かれる国際会議への進行同席。三日前に終わったばかりの三国使節会議では、南方のレヴェンナ商業連合からのご一行を迎え、両国とレヴェンナの三言語の進行を、私が一人で務めた。
会議の最後で、レヴェンナの首席使節の方が、ハーゼ伯爵閣下にお礼を述べてくださった。
「貴国のご令嬢のお仕事のおかげで、合意の文言が一語も揺らがずに済みました」
ハーゼ伯爵閣下は、それを国王陛下にご報告なさった。陛下は、私に直接お言葉をくださった。
「我が国の通訳官は、長らくこの方を求めておりました」
謁見の式でいただいた言葉と、同じご表現だった。違ったのは、お声の重みである。あの日はご挨拶のお言葉だったが、三日前のお言葉は、四か月の私の仕事を踏まえたお言葉だった。
その翌朝に届いたのが、机の上の二通の手紙である。
一通は、ヴァレリウス公爵家からの、母の筆跡。
もう一通は、私が見覚えのない封蝋だった。グランツ家の紋章ではあったが、ダミアン様のご署名のものとは別の手の蝋印。封を切る前から、私にはどなたからのお手紙か分かった。
ヘルミーナ様の筆跡を、私は数年ぶりに見ていた。
書斎の窓辺で、私は先にヘルミーナ様のお手紙を開いた。母からのお手紙は、後にいただこうと思った。
「クラウディア嬢
ご機嫌、いかがでいらっしゃいますか。
私は、長く筆を取れずにおりました。お許しくださいませ。
今日、お伝えしたいことがございまして、ようやく書いております。
夫と相談いたしました結果、息子の宰相補佐の職を辞させることに、いたしました。手続きはすでに済んでおります。息子は、家督の継承権はそのままに、グランツ家の領地で経営の修練を始めることになります。期間は、定めておりません。私と夫が、息子に求めるものを息子が身につけるまでです。
夜会へのお招きも、夫の判断で、当面はお受けしないことにいたしました。我が家を整え直す時間が必要でございます。
ミレイユのことも、お知らせいたします。あの子は、ヴェルナー男爵家にお返しいたしました。実家での暮らしに戻ることになります。我が家での生活が、あの子のためにならなかったことを、私は今ようやく認めております。
家を出る朝、あの子は私の前で『ご迷惑をおかけしました』とだけ申しました。それ以上の言葉は、最後まで申しませんでした。長く家で育てた者として、私はあの子の最後のひと言を、これからも長く思い返すことになるでしょう。
息子のことも、ミレイユのことも、誰かの責ではございません。私の指導が、長く至らなかった結果でございます。
クラウディア嬢、最後に一つだけ申し上げます。
あなたを娘と呼べないことを、私は今も悔いております。これは、息子の判断ではなく、私の指導が至らなかった結果でございます。
エスタリアでのお仕事のご活躍を、噂で伺っております。
どうか、お体を大切にお過ごしください。
ヘルミーナ・フォン・グランツ」
私は、便箋を読み終えてから、しばらく窓の外を見ていた。
エスタリア王宮の中庭に、若い庭師が一人、夏の日差しの中で生垣の手入れをしているのが見えた。剪定鋏の音は、ここまでは届かなかった。半年前に宰相府の廊下で聞いた剪定鋏の音と、その動作は同じだった。
ヘルミーナ様のお手紙を、私は畳んで、机の引き出しに納めた。
それから、母からのお手紙を開いた。
母のお便りは、いつもの通り簡潔だった。アルベリオンの公爵家の様子、お父様のお身体、領地のこと。そして、結びにこう書かれていた。
「宰相府で『あのご令嬢が支えていらしたのです』と、おっしゃる方が増えてきたそうです。お父様が、お笑いになっていました」
私は、便箋を畳む手を、一度だけ止めた。
宰相府で、私のことを公然と口にする方が増えてきたという報告だった。ダミアン様が補佐職を退かれた後、宰相府の外交業務がどれほど滞っているのか、母はそこまではお書きにならなかった。ただ、お父様がお笑いになった、というその結びだけが、いつもの母のお便りには似合わない強さを持っていた。
二通の手紙を読み終える頃には、書斎の窓の光は、午前の角度を越えていた。
私は、執務机の前に座り直し、その日の通常業務に取りかかった。三国使節会議の議事録を、古典語の文書として清書する作業である。手の動きが、いつもより少しだけ軽かった。それは、自分でも気づかないくらいの軽さだった。
夕方、執務室の扉が、軽く叩かれた。
「ヴァレリウス嬢」
「殿下、お入りください」
アリスター殿下は、執務用のお姿で入ってこられた。お一人だった。両手には何もお持ちでなかったが、扉を閉められる前に、廊下の侍従の方に短く何かをお伝えになった。執務上の取り次ぎでは、お入りにならなかった。私的な訪問だった。
「お仕事の途中に申し訳ございません」
「いえ、ちょうど一段落いたしました」
殿下は、私の執務机の前の椅子に腰を下ろされた。窓辺の光が、ちょうどお顔の半分を切り取る角度だった。お疲れには見えなかったが、いつもより少しだけお声が低かった。
「明日、両国の合意調印がございます」
「はい、伺っております」
「謁見の間で、午前のうちに。アルベリオン側からは、貴国の特使と、ヴァレリウス公爵閣下が、本日午後に国境をお越えになるご予定です」
私は、すぐにはお返事できなかった。
お父様が、エスタリアまでお越しになる。母からのお便りには、そのご予定は書かれていなかった。今日のお便りを書かれた時には、まだお決まりでなかったのかもしれない。あるいは、私を驚かせたくないと母がお考えになったのかもしれない。
「合意の内容は、両国の通商と、外交人材の交流に関するものでございます」
「承知しております」
「もう一つ、明日、お伝えしたいことがございます」
殿下は、執務机の上で、ご自身の指を一度組み直された。
「合意の調印が済みましたら、別の場所で、私からお伝えしたいことがございます。今日は、その予告だけお伝えさせていただきます」
「殿下」
「あなたのお返事を、今夜は求めません」
殿下は、ご自身の声が低くなりすぎないように、丁寧に区切ってお話しになった。
「明日まで、お一人でお考えいただきたいのです。お考えになった上で、お返事をくださいませ。お受けくださっても、お断りくださっても、私はあなたのご判断を支えます」
「殿下、私は」
「お返事は、明日で構いません」
殿下は、立ち上がられた。
執務机の前で頭を下げてくださると、扉まで歩いていかれた。扉の前で、一度だけお振り返りになった。
「ヴァレリウス嬢、明日の朝、お父上にお会いになる時に、私からのお話を、もし差し支えなければ、お伝えくださっても構いません」
「お父様に」
「私は、すでにご報告を済ませております。アルベリオン側の特使を通じて、書状でお伝えいたしました。お父上は、ご承知の上で国境をお越しになります」
私は、立ち上がる前に、自分の手元を見た。
執務机の上に、三国使節会議の議事録の清書が、半分だけ残っていた。インクの色は、すでに乾き始めていた。エスタリアの夏の乾きの中では、私の手は思ったよりも早く、その清書を仕上げてしまうだろう。
「ありがとうございます」
私は、殿下に深く頭を下げた。
「明日、お目にかかります」
殿下は、もう一度頷かれ、扉を出て行かれた。靴音が、廊下の奥へ静かに消えていった。
執務室に一人になってから、私は窓辺に立った。
エスタリア王宮の中庭で、庭師の方は、生垣の手入れをまだ続けていらした。剪定鋏の音は、窓を細く開けると、ようやく届くようになった。乾いた音だった。アルベリオンの宰相府の廊下で聞いた音とは、湿り気の量が違った。
机の引き出しに納めたヘルミーナ様のお手紙の一文を、私はもう一度だけ思い浮かべた。
「あなたを娘と呼べないことを、私は今も悔いております」
ヘルミーナ様には、いつかお返事を差し上げよう。今ではなく、もう少し先で。お返事の文を、何度も書き直しながら、ご自分の本当のお言葉を見つけてくださった方への、こちらからの礼として。
明日、両国の合意がございます。
合意の調印の後、私には、もう一つの返事が待っていた。お父様がご承知の上で、国境をお越しになる。それは、私が一人で考えて答えるべき問いだが、お父様も母も、すでに私の答えを支える準備を整えていらっしゃるということだった。
骨が一本曲がったままの扇は、エスタリアまで持ってきていた。
新しい扇に替えるのは、明日の合意の調印が済んでからでもよい。私は、そう決めた。




