第10話 隣に座る人
今日の席次表は、私自身が確認したものだった。
両国の合意調印は、エスタリア王宮の謁見の間で、午前のうちに執り行われる予定だった。席次は、両国の儀礼長の方々が事前に整えてくださっていたが、最終確認は、外交顧問補である私の役目である。朝一番に、私は執務室で席次表を広げ、両国の貴族のお名前を一つずつ照らし合わせた。
私自身の席は、国王陛下の右手の二席目だった。三国使節会議の時と同じ席である。古典語の文書を扱う席として、私はこの位置に着き続けてきた。
席次表の私の名前の隣には、王弟殿下のお名前があった。
「アリスター」
それだけが、書かれていた。
両国の合意文書の調印者として、王弟殿下のご署名がいただける場所である。隣席にお互いの名前があるのは、調印者と通訳官として並ぶためだった。それ以上の意味は、席次表の上では何もなかった。
それでも、私は、隣の名前の上を一度だけ指でなぞった。
朝の支度を整えてくださった侍女の方が、私のドレスの後ろの留め具を確かめながら、控えめに尋ねてこられた。
「お嬢様、扇はいかがなさいますか」
「いつものものを」
「骨の曲がったままのものを、でいらっしゃいますか」
「ええ」
侍女の方は、何もおっしゃらず、机の上の扇をお取りになって、私の手の中に渡してくださった。骨が一本、相変わらず曲がっていた。今日も、これでよかった。
エスタリア王宮の謁見の間に入る前、控えの間でお父様にお目にかかった。
お父様は、昨夜のうちにご到着なさって、迎賓館で母とご一緒にお泊まりになっていた。今朝、王宮の控えの間で初めてお会いした母は、いつもより少しだけ表情が柔らかく見えた。
「クラウディア」
お父様が、私の正面に立たれた。
「お父様。お越しくださり、ありがとうございます」
「無事に役目を果たしているか」
「はい」
「結構」
それで、ほぼ全部だった。お父様は、いつものお父様だった。それから、私の方を一度だけご覧になって、付け加えられた。
「アリスター殿下から、書状を受け取った」
「はい」
「お前が決めればよい。私は、お前の決断を支える」
母が、お父様の隣でほんの少し頷かれた。それから、控えの間の扉の方をご覧になった。
扉の向こうの、別の控えの間にヘルミーナ様がいらした。
エスタリアまで、ヘルミーナ様もお越しくださったということだった。グランツ家の代表として、立会人として、ヴァレリウス公爵家の同意のご確認のために、両国の合意の場に立ち会うのが侯爵夫人として正式な役回りだった。ご自身でお越しになるとは、お手紙にもお書きにならなかった。今朝、控えの間に到着なさってから、お父様と母にだけ短くご挨拶をなさったのだという。
「お母様」
「お前から、ヘルミーナ様にご挨拶なさい。今日でなくとも、合意の式が済んだ後で」
「はい」
謁見の間の式は、滞りなく進んだ。
両国の貴族のお名前を、私は一人ずつ古典語と両国語で読み上げた。声の調子を、ハーゼ伯爵閣下が同伴の式典官にお渡しになった時の調子に揃えた。来賓席のご夫人方の扇は、誰も動かさなかった。私が読み上げる名前の一つ一つを、皆様、お耳を傾けていらした。
合意文書の調印は、国王陛下のご名のあと、王弟殿下のご名、それから両国の特使のご名と続いた。私の役目は、文書の文面を最終確認し、調印の前に古典語の決まり文句を読み上げることである。
私が決まり文句を読み終えた時、アリスター殿下が私の方を一度だけご覧になった。
それまでの式の中で、殿下は一度もこちらをご覧にならなかった。公的な式の場で、王族の方が外交顧問補に視線を流される機会はない。ただ、調印の直前のあの一瞬だけ、殿下は確かに、私の方をご覧になった。視線は、すぐに合意文書に戻られた。
調印は、それで成立した。
謁見の間から退出する時、来賓席の最年長のご夫人が、私に礼を返してくださった。半年前、エスタリア入りした日と同じ角度の礼だった。違うのは、今日のご夫人のお顔に、ほんの少しの微笑みが浮かんでいたことだった。
謁見の間の外で、ハーゼ伯爵閣下が私にお声をかけてくださった。
「合意の式の後、王弟殿下から、ヴァレリウス嬢にご案内したい場所があると伺っております。控えの間で外套を整えられたら、東の庭園へお越しくださいませ」
「東の庭園、でいらっしゃいますか」
「はい。殿下が、お一人でお待ちでございます」
控えの間で、私は外套を肩にかけた。母は、私の隣で何もおっしゃらなかった。お父様は、控えの間の窓辺で、私が出かけるのを待っていらした。お二人とも、何もおっしゃらないことが、最も大きな励ましだった。
東の庭園は、迎賓館の庭よりも広かった。
初夏の薔薇が、咲き始めている小道を進むと、庭園の奥に小さな東屋が見えた。白い柱の四阿で、卓と椅子が二脚。卓の上には、銀の茶器と、薄い書物が二冊置かれていた。
書物の装丁は、私の蔵書と同じ刺繍の意匠だった。
母が大使館でお貸しになった、二冊。
アリスター殿下は、東屋の手前に立っていらした。お一人で。式典用の正装ではなく、私が四か月前に、迎賓館の応接間の扉でお目にかかった時と同じ落ち着いた装いをお召しだった。
「ヴァレリウス嬢」
「アリスター殿下」
「謁見の間ではなく、こちらへお越しくださり、ありがとうございます」
殿下は、東屋の中までは私を案内なさらなかった。庭園の小道の途中で、立ち止まられた。
「私からのお話を、こちらで申し上げます。謁見の間で、両国の合意のついでに申し上げるべきお話ではないと考えました」
「殿下」
「あなたを、私の妻に迎えたく存じます」
殿下は、一度区切られた。
「外交顧問補としてではなく、私の隣に来てくださいませんか」
私の手の中で、扇の骨が、わずかに鳴った。
「私は、あなたに役目を増やすために――いえ、お話の順序が逆ですね。失礼いたしました」
殿下は、一度だけ目を伏せられた。それから、もう一度顔を上げられた。
「あなたが、すでにお持ちのご能力に、あなたご自身の生活と、ご自身でお選びになる場所を、添えたいのです。役目を増やすために申し上げているのではございません」
殿下は、お言葉を続けられた。
「お受けくださっても、お断りくださっても、私はあなたのお仕事を支えます。外交顧問補としての契約は、二年延長されます。ヴァレリウス公爵家のご同意も、すでに伺っております。あなたが、どちらをお選びになっても、私の支えは変わりません」
「殿下」
「お返事を、伺ってもよろしいでしょうか」
私は、扇を膝の前で握り直した。
骨が一本曲がった扇である。三年間、私が婚約者として磨いてきた角度を、すべて受け止めてきた扇だった。新しいものに替えなかったのは、これが、私の三年そのものだからだった。捨てるのではなく、ここまで連れてきた。
私は、扇を開いた。
骨の曲がった一本が、開く時に引っかかった。開いた扇は、骨の歪みの分だけ、わずかに不揃いな広がりを持っていた。それでも、開いた。風がなくとも、その扇は確かに広がった。
「今度こそ、私はこの隣に座ります」
私の声は、震えなかった。
殿下は、ご自身の指を一度組み直された。それから、私の前に二歩、足を進められた。私と殿下の間の距離が、四か月の間で初めて、二歩より近くなった。
「ありがとうございます」
殿下は、それだけおっしゃった。
東屋の卓の上の二冊の本を、殿下は私に差し出された。
「お返ししそびれていたものを、お返しいたします」
「お母様にお渡しした二冊でいらっしゃいますか」
「はい。それから、もう一冊、私の蔵書からあなたに、お贈りしたいものがございます。今日でなく、また別の日に」
私は、二冊の本を受け取った。
頁の角に、軽く折り目を入れた痕が、何か所もついていた。お読みになった方の指の癖が、私の蔵書の折り目と同じ角度で残っていた。
庭園の入口の方から、足音が三つ聞こえた。
振り返ると、母とお父様、それからヘルミーナ様が、薔薇の小道の手前で立っていらした。三方の方々とも、こちらへお越しになる気配はなかった。ただ、見ていらした。母は、扇を口元に当てていらした。ヘルミーナ様は、ご自分の手袋の片方を、もう片方の手の中で握っていらした。お父様は、両手を後ろで組んでいらした。三方の姿勢は、それぞれ違っていたが、お顔の角度は同じだった。
殿下が、三方の方々に頭を下げてくださった。三方からも、丁寧に礼が返された。それで、両国合意による婚約の正式な見届けは、終わったのだった。
馬車に乗る前、私は扇を一度だけ閉じた。
骨の曲がった一本が、閉じる時にもわずかに引っかかった。それも、いつもと同じだった。私は扇を、今までと同じように、ドレスの脇に納めた。
新しい扇に替えるのは、いつかでもよかった。
東の庭園の薔薇は、夕方の光の中で、咲き始めの色を一段深くしていた。三年前から繰り返し読んできたエスタリアの北方の詩人は、薔薇の色を「季節を一つ越えるたびに深くなる」と書いていた。私は、まだ、その一節の本当の意味を知る途中だった。
知り終えるのは、これからの季節を一つ越える頃でも、間に合うはずだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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