第8話 国境を越えて
国境の風は、母国のそれよりもわずかに乾いていた。
馬車を降りた瞬間、私はそれをまず感じた。アルベリオン王国の冬の終わりは、湿り気を残した風が頬を撫でる。けれど、ここエスタリア国の南境では、同じ午後の風が乾いて高かった。耳の奥まで届く軽さがあった。私が三年前から繰り返し読んできた詩集の中で、エスタリア北方の詩人は、自国の風をこの「乾いた高さ」と表現していた。私はようやく、その一節の意味を体で知った。
招聘状を受け取ってから、二か月が経っていた。
二か月の間に、決めるべきことはすべて決まった。両国王の認可、ヴァレリウス公爵家からのご同意、エスタリア国王陛下への正式な受諾書状、王宮儀礼長閣下からの送り出しの書類。一つ一つを、お父様と母が整えてくださった。私の仕事は、最後の受諾書状に、自分の名を書くことだけだった。
国境の関所で、私を迎えてくださったのは、エスタリア国王陛下のご使者の高官お一人と、護衛の騎士四名、それから侍女が二名。アルベリオン側の通行手続きが済むと、エスタリア側の馬車に乗り換える形式だった。新しい馬車には、エスタリア国の徽章と、それからもう一つ、見覚えのない紋章が並んでいた。
「ヴァレリウス公爵令嬢、エスタリア王国へようこそお越しくださいました」
高官の方は、白髪の混じった六十代の男性で、外交席で長くお仕事をなさってきたお姿だった。私への礼の角度が、王族の方が公爵令嬢に取る礼として、ほぼ完璧だった。
「アルバン・フォン・ハーゼ伯爵と申します。今夜のお宿までと、明日の謁見まで、私がご案内を務めさせていただきます」
「ハーゼ伯爵閣下、お出迎えに感謝いたします」
私は、エスタリア語で挨拶を返した。
ハーゼ伯爵閣下は、目元をほんのわずかに緩められた。それで十分だった。三年外交席に立てば、最初のひとことの発音だけで、相手がどれほどの通訳ができるかは伝わる。
馬車が動き出すと、私は懐に納めた母からの手紙にそっと触れた。出立の朝に、母が私の旅装の内側に縫い付けてくださったものである。中身は読んでいない。母は「お困りになった時にだけ、お開きなさい」とおっしゃった。私は、まだ困っていなかった。
ハーゼ伯爵閣下が、車中でいくつかのことをお話しくださった。
「明日、宮廷の謁見の間で、国王陛下からのご紹介がございます。ヴァレリウス公爵令嬢としてではなく、外交顧問補として、両国の貴族にお披露目される形でございます」
「承知いたしました」
「席次は、国王陛下の右手の二席目です」
「二席目、でいらっしゃいますか」
「はい。一席目はアリスター王弟殿下、二席目はあなた様。古典語の文書を回す者が、これ以下の席に着くことは、我が国では失礼にあたります」
私は、すぐにはお返事をしなかった。古典語の文書を扱う席として、国王陛下の右手の二席目。アルベリオン王宮でも、王弟殿下と並ぶ席に女性が着くことは、まずない。お父様と母が、この席次の意味をどこまでご存じだったのか、私には分からなかった。けれど、お父様は受諾の書状に、迷わず署名なさった。
エスタリア王宮の謁見の間は、私が想像していた以上に静かだった。
天井は高く、白い大理石。窓は南向きで、午後の光が床の半分を切り取っていた。来賓席には、エスタリア国の主要な貴族とご夫人方が並んでいらした。アルベリオンから先に到着していたヴァレリウス公爵家の使者の方が、私の入場を確認して一礼してくださった。
国王陛下は、四十代後半の、堅実なお姿の男性でいらした。アリスター殿下より背が低く、より柔らかい印象をお持ちだった。ご兄弟と言われればそう見えるが、お顔立ちはずいぶん違った。
私の正式紹介は、ハーゼ伯爵閣下が読み上げてくださった。
「アルベリオン王国、ヴァレリウス公爵令嬢、クラウディア。本日付で、我が国の外交顧問補にご就任くださいます」
来賓席のどなたも、お話しを途中で遮らなかった。
「ヴァレリウス公爵令嬢は、両国語、ならびに外交古典語の同時通訳をお務めになる、極めて稀な能力をお持ちでいらっしゃいます。我が国の通訳官は、長らくこの方を求めておりました」
国王陛下が、はっきりとした声で繰り返してくださった。
「長らく、求めておりました」
私は、腰の高さまで頭を下げた。礼の角度を、深すぎず、浅すぎず。三年磨いてきた角度だった。
来賓席のご夫人方の扇は、誰も動かさなかった。
それは、ヴァレリウス家のことではなくて、私の能力を見極めようとなさるご視線だった。私が何を申し上げ、どう返すかを、皆様、お待ちになっていた。
私は、エスタリア語で短く受諾の口上を申し上げた。それから、古典語の決まり文句を一節だけ、お礼の中に織り込んだ。読み上げの呼吸を、ハーゼ伯爵閣下がお読みになった時の調子に揃えた。
謁見の間に、ほんの一拍だけ間が空いた。
来賓席のご夫人方の扇が、一斉に、ほんのわずかだけ動いた。動きの方向は、皆様、同じだった。
「ヴァレリウス公爵令嬢、ようこそお越しくださいました」
国王陛下が、もう一度、はっきりとおっしゃった。
謁見の式は、それで終わった。私が控えの間へ下がる時、来賓席のお一人――最年長のご夫人――が、お席を立たれて、私に礼を返してくださった。それは、新任への礼ではなく、お仕事に対する礼の角度だった。
控えの間で、ハーゼ伯爵閣下がお茶を勧めてくださった。
「今夜のお宿は、宮廷からほど近い迎賓館でございます。馬車はもう前に用意してございます」
「ありがとうございます」
「アリスター殿下が、明日午後にお越しになるご予定でございます。今夜は、お休みください」
私は、頷いた。
控えの間を出てから、護衛の方々と侍女がついてくださった。馬車までの石畳の道は、宮廷の中庭を抜ける形で続いていた。私が乗り込むはずの馬車は、エスタリアの徽章と、それから先ほど見覚えのない紋章が並んでいる方だった。
馬車に乗り込もうとして、私はふと座席に目を落とした。
座席の上に、薄い書物が一冊、置かれていた。
エスタリア風の細い活字。装丁は、母が大使館でお貸しした二冊のうちの一冊と、同じ意匠だった。表紙には、私が三年前から繰り返し読んできた詩人の名前があった。北方の詩人、と母が大使館でおっしゃった、あの方の名前である。
私は、すぐには手を伸ばさなかった。
詩集を置いたのは、どなたなのか。私には、すぐには分からなかった。エスタリア国側の方が、新任の外交顧問補へのお祝いとして用意なさったのかもしれない。あるいは、宮廷の侍女の方が、私の好みを聞き及んでお気遣いくださったのかもしれない。
それでも、頁の角に目をやった時に、私の手が止まった。
頁の角に、どなたかが軽く折り目を入れた痕があった。
折り目は、雑なものではなかった。読みかけを示すための丁寧な折り目だった。読み手の指の癖が出る角度で、ほんの少しだけ斜めに折られていた。私自身の蔵書にも、同じ角度の折り目がついている頁が何箇所もある。
私は、詩集を膝の上に乗せて、馬車に乗り込んだ。
迎賓館の応接間は、夕方の光がちょうど良い角度で差し込む部屋だった。
ハーゼ伯爵閣下は、私を応接間まで案内なさると、丁寧に一礼して下がっていかれた。侍女の方々が湯の支度を整える間、私は応接間の長椅子に腰を下ろし、膝の上の詩集に手を置いていた。湯から立ち上る匂いは、母国のそれとは違っていた。エスタリアの石鹸は、薔薇よりも木に近い香りがする。慣れるまでに、少し時間が要りそうだった。
「ヴァレリウス嬢」
控えめなお声がした。
応接間の入口に、アリスター殿下が立っていらした。今夜は夜会用ではなく、宮廷の執務を終えられたままのお姿だった。お一人で、入口に立っていらしたのは、迎賓館の侍従の方も誰もお連れにならなかったということだった。
「アリスター殿下」
「お一人で失礼いたします。明日の予定では、午後にお目にかかる手筈になっておりましたが、今夜のうちに、一言だけお伝えしたいことがございまして」
「どうぞ」
殿下は、応接間の中までは入って来られなかった。入口から二歩、足を進められただけで、立ち止まられた。私と殿下の間には、長椅子三脚分の距離があった。
「謁見の口上、見事でいらっしゃいました」
「恐れ入ります」
「古典語の決まり文句を、お礼の中に織り込まれたのは、本日が初めての方では難しい技でいらっしゃいます」
殿下のご視線が、私の膝の上に流れた。詩集に、すぐにお気づきになった。私は、立ち上がろうとして、結局そのまま座っていた。礼の角度を取る前に、お先にお話を伺うべきだと思った。
「詩集を」
私は、膝の上の本に、両手を添えた。
「お置きくださったのは、殿下でいらっしゃいますか」
殿下は、すぐにはお返事をなさらなかった。
ほんの少し、目元を緩められた。それから、応接間の窓の方に視線を一度だけ流された。
「あなたが詩集をお好きだと、先日、ご母堂から伺いました」
「お母様から」
「お貸しくださった二冊を、私は預かったままでおります。お返しするのは、もう少し先で、と勝手に決めました」
殿下は、お話しの中で、一度も「私が選んだ」とも、「私からの贈り物」ともおっしゃらなかった。詩集を置いたのは、宮廷の侍女の方かもしれない。馬車を整えた者かもしれない。それでも、頁の角の折り目の意味を、ご存じである方は、お一人しかいなかった。
「ありがとうございます」
「お休みください。明日、お目にかかります」
殿下は、丁寧に頭を下げてくださると、応接間を出て行かれた。靴音が、廊下の奥へゆっくり消えていった。
私は、膝の上の詩集を、もう一度開いた。
頁の角の折り目は、私が三年前から繰り返し読んできた頁と、同じ場所にあった。私が好きな一節の頁である。エスタリア北方の詩人が、自国の風を「乾いた高さ」と書いた、あの一節だった。
ここでは、私を呼ぶ声が違うのです。
声に出して言ったわけではなかった。それでも、応接間の中に確かにその言葉は落ちた。夕方の光が、窓辺の白い壁にゆっくりと色を変えていった。
私は、もう、戻る場所を間違えなかった。




