第7話 受理と訪問
儀礼長からの書状は、夜明け前に届いた。
私は寝ていなかった。窓の外がまだ青い時刻に、玄関で家令の声がした。書状を受け取りに出てくださったのは、お父様だった。蝋燭の火を一つだけ灯して、書斎の机の前でゆっくりと封を切られた。私は廊下の戸口に立って、その手元を見ていた。
「クラウディア」
「はい、お父様」
「受理された」
それだけだった。
お父様が机の上に書状を広げてくださると、王宮儀礼長閣下の署名と、王家の公印が紙の下半分にあった。文面は短かった。父の申請を本日付で受理し、グランツ侯爵閣下からは異議申し立てがなかった旨が、簡潔に記されていた。
異議は、なかった。
私は、その一文を二度、目で追った。グランツ侯爵閣下は、宰相職にある方である。息子の婚約解消の通知を受けて、夜明け前までに異議の有無を判断なさったということだった。
「お父様」
「うん」
「ありがとうございました」
お父様は、書状を畳まれた。
「お前の決断だ。私は、最後の手続きを整えただけだ」
書斎の蝋燭の火が、ゆっくりと風に揺れていた。窓の外が、少しずつ白んでいた。お父様は、私を書斎から下がらせる前に、もう一言だけ付け加えられた。
「グランツ家からの使者があれば、私が出る」
「ありがとうございます」
その日の朝食の席で、母は普段と変わらないお顔をなさっていた。私には、それが何より有難かった。
書状が届いてから四日後の昼下がりに、ダミアン様は公爵邸の門にいらした。
正規の使者を立てずに、お一人で、馬車に乗っていらした。供は御者と、グランツ家の若い文官の方が一人だけ。文官の方は、玄関の前まで降りずに、馬車の脇でお待ちになった。来訪の予告も、書面でのお伺いもなかった。
家令が玄関で対応した。私は、二階の書斎の窓から、その様子を見ていた。
家令は、ダミアン様を玄関の中までお通しした。ただし、応接間ではない。玄関ホールである。家令の指示で、ダミアン様の外套も預からなかった。客として迎えていない、という形式である。
少しして、お父様が玄関ホールに降りてこられた。
私は、書斎の窓を細く開けて、廊下の方へ耳を傾けた。声は、二階まで届かなかった。けれど、お父様が玄関ホールの大理石の床に立たれたまま、座らずに応対なさっているのは、二階の窓から見える影の動きで分かった。
ダミアン様は、玄関ホールで頭を下げていらした。
何を申し上げているのか、私には聞こえなかった。お父様も、ずっと立ったままだった。やがて、お父様が一言、お返事をなさるのが分かった。低い、短いお声だった。
それきり、玄関ホールの動きは止まった。
私が窓辺から下がったあと、家令が二階の書斎まで上がってきた。
「お嬢様、グランツ家のダミアン様が、お引き取りになりました」
「ありがとう」
「旦那様から、お言葉をお伝えするように、と」
「どうぞ」
家令は、私の机の前で姿勢を正した。
「ダミアン殿は、『君なら分かってくれる』と、おっしゃろうとなさいました。その先のお言葉は、最後まで申されませんでした。以上でございます」
家令は、深く一礼して退出していった。
私は、机の上に開いたままだった本の頁を、しばらく見ていた。エスタリア北方の詩人の詩集の一節だった。三年前から、私が夜更けに繰り返し読んできた一冊である。装丁の刺繍は、母が大使館の卓の上でご覧になった本に、よく似ていた。
夕方、お父様が書斎にいらして、私に短くお伝えになった。
「『もう公爵家が支えるべきものではありません』と、申し上げた」
それで、ダミアン様との一切は終わったのだった。
ダミアン様の単独訪問から三日後、母がエスタリア大使館にお出かけになった。
朝、馬車に乗られる前、母は私に短くおっしゃった。
「お前のことではなく、私への、礼儀のお伺いです」
「お母様」
「先様からのお招きを、お受けするだけです。あなたは家に居なさい」
母は、夜会用ではなく、午前の訪問用の落ち着いた色のドレスをお召しになっていた。手には、私の知らない包みを一つお持ちだった。私が、目で問うのを察された母は、馬車に乗られる前に振り返って、軽く首を傾けられた。
「先様に、お貸しするものですよ」
「お貸し、ですか」
「お読みになりたい本があるそうなの。私の蔵書から、二冊だけ」
馬車が門を出て行く時、母は窓越しに私の方をご覧になった。それから、何もおっしゃらずに、馬車の影が見えなくなるまで手袋の指で軽く窓辺をなぞられていた。
母がお戻りになったのは、夕方だった。
包みは、母の手の中にはもうなかった。代わりに、エスタリア風の封筒が一通、母の手にあった。封蝋は、エスタリア国の深い青である。
「お母様」
「あちらでお茶をいただいてきました」
「アリスター殿下は、いらしたのですか」
「いらっしゃいました。お一人で、入口までお迎えに出てくださいました」
母は、書斎の机に封筒を置かれた。
「あの方は、よく聞いてくださる方ね、と、先日も申し上げました。今日も、同じことを思いました」
「お母様、本の話を」
「お読みになりたい本のことは、先様からはお尋ねになりませんでした」
私は、母の顔を見上げた。
「私から、お話ししたのです。娘が三年前から繰り返し読んでいる詩人がいると。装丁の刺繍が、先日のお茶で拝見した本と似ていると。それで、お貸しできるものを二冊だけお持ちした、と」
「殿下は」
「お受け取りになる時に、ほんの少し、首をお傾げになりました。それだけです。お礼を、丁寧に申されました」
母は、それ以上はおっしゃらなかった。机の上の封筒を、私の方に押し出された。封筒の表書きは、私宛だった。エスタリア大使館の名で、私の正式な呼称と、住所が書かれていた。
「お母様、これは」
「お読みなさい。私からは何も申し上げません」
封筒は、その夜、私は開けなかった。
開封したのは、翌朝の書斎だった。
中身は、二通の書状だった。一通は、エスタリア国王陛下の御名と御印の入った公式の招聘状。もう一通は、アリスター殿下のご署名のある添え状。
公式の招聘状は、私を「両国の外交における通訳官、ならびに外交顧問補」として、エスタリア国王宮へ正式にお招きする旨が記されていた。任期は二年、延長可能。報酬条件、住居、待遇、護衛、すべての項目が具体的に書かれていた。準備期間は、最大で二か月。両国王の認可と、ヴァレリウス公爵家のご同意が、招聘の条件である。
添え状は、短かった。
「貴嬢のお仕事を、我が国は長く拝見しておりました。今回のお招きは、我が国の長年の願いでもございます。ただ一つ、私からお伝えしたいことがございます。あなたのご能力に、私の国は値しないかもしれません。それでも、お招きしたいと存じます。アリスター・フォン・エスタリア」
私は、添え状を畳まずに、机の上に開いたまま置いた。
書斎の窓から、冬の朝の光が机に落ちていた。光の中で、エスタリアの細い活字が、はっきりとした影を作っていた。一文字ずつ、ゆっくりと読み返した。お読みになる相手のことを、よくお考えになった文だった。「あなたの能力に値しない」と書く方は、本心ではご自分の国の格をよくご存じの方である。お引き受けすれば、ヴァレリウス公爵家からも、お父様の同意が必要になる。両国の王の認可も。それから、私自身の、最後の決断も。
書斎の扉が、軽く叩かれた。
「クラウディア」
お父様だった。
「殿下からの招聘状を、見せてもらっても」
「はい、お父様」
お父様は、机の前にお座りになった。公式の招聘状と添え状を、順にお読みになった。読み終えて、しばらくお考えになった。それから、私の方をご覧になった。
「お前は、どうしたい」
「お父様」
「答えを今すぐに、と急いではいない。ただ、お前がもう一度、自分の手で席を選び直すなら、私は止めない」
お父様は、書状を机の中央に戻された。鍵を回す音はしなかった。鍵はかけずに、机の上にそのままにしておいてよい、ということだった。
私は、お父様が書斎を出て行かれてからも、机の前から動かなかった。
冬の朝の光が、窓越しに少しずつ角度を変えていく。
私は、隣国へ参ります。
声に出して言ったわけではなかった。それでも、書斎の中に確かにその言葉は落ちた。机の上の招聘状の文字が、その言葉を受け止めるように、わずかに動いた気がした。気のせいだったかもしれない。
私の蔵書から、母がお貸しになった詩集の頁を、私はもう一度だけ思い浮かべた。母は、お読みになる相手のことを、よくお考えになる方である。




