第6話 静かな降車
父の筆跡で書かれた申請書は、思ったよりも軽かった。
その朝、お父様は書斎で署名を済まされ、私の懐に納める形で渡してくださった。封蝋は、ヴァレリウス家の紋。中身は、王宮儀礼長に宛てた婚約解消の正式申請書。文面はすべて、お父様ご自身の筆である。家令も家政長も、その文面を見ていない。
二週間が経っていた。
宰相府を退出した日から数えて十四日。ダミアン様からのお手紙はその間に三通届いた。私は、お返事を一度もお出ししなかった。三通目の手紙には、来週の王宮夜会で「もう一度、二人で話したい」と書かれていた。私は、それを書斎の机に伏せて置いたまま、申請書の支度を進めた。
今日が、その王宮夜会だった。
公爵家から王宮までの馬車は、母と二人で乗った。お父様は別の馬車で、後から到着なさる手筈になっている。母は、いつもより少し色の濃い夜会用のドレスをお召しになっていた。婚約者の母としてではなく、公爵夫人として臨んでくださるのが、その色から伝わった。
「クラウディア」
馬車が王宮の門をくぐる前、母が静かに声をかけてくださった。
「今夜、何があっても、お前が決めたことを私は支えます」
「ありがとうございます、お母様」
「申請書は、扇の中ですか」
「いえ、外套の内側にございます」
母は頷かれた。それきり、何もおっしゃらなかった。
王宮の大広間は、冬の夜会らしい白い装花が壁面に飾られていた。エスタリア使節を迎える夜の華やかさとは違う、控えめな冬の色合いである。来賓は王都の貴族家の主だった方々ばかり。外交席ではないため、私が通訳に立つ必要はない。三年ぶりに、ただの招待客として夜会に立つ夜だった。
入場の挨拶を済ませ、案内係に席を指し示された。
席次表に書かれた私の名は、ダミアン様の隣だった。
「ヴァレリウス公爵令嬢、こちらでございます」
案内係の若い男が、椅子の背に手を添えて待ってくれていた。
その時、私の数歩先で、ダミアン様の声がした。
「クラウディア、ようやく来てくれたか」
ダミアン様は、すでに席に着いていらした。
その隣に、ミレイユ様がいらした。
今夜の薄紅のドレスは、夜会用に新調されたものだった。胸元に、私の知らない首飾りが下がっていた。粒の大きい青の宝石が、燭台の光を強く跳ね返した。
「足が痛くて、ね」
ミレイユ様は、私の方をご覧になると、いつもの困ったような微笑みを浮かべられた。
「席を温めておいたから、すぐに座って」
席は二つあった。一つは、ダミアン様の右、私のために用意された婚約者の席。もう一つは、私が立っている位置の少し奥にあった、来賓のための予備席である。ミレイユ様は、私の席に腰を下ろされていた。
案内係の若い男が、椅子の背から手を引いた。
引き方が、ほんの一瞬だけ遅れた。三年前から、私が王宮夜会で席に着く時、この案内係はいつも背筋を伸ばしていた。今夜、背筋は伸びていなかった。私は、彼の指がほんの少しだけ震えているのを、見た。
大広間の入口側で、夫人方の扇が止まった。
私は、自分の扇を膝の前で握り直した。骨が一本、相変わらず曲がっている。グランツ邸で握り直してから、私は一度もこの扇を替えていない。今日は、これでよかった、と思った。
私は扇を閉じた。
骨の曲がった一本が、閉じる時にわずかに引っかかった。それでも、音は一つだった。乾いた、はっきりとした音である。大広間の天井までは届かなかったかもしれないが、私の周囲三歩までの空気は、その音で確実に変わった。
「もう、あなたの隣には座りません」
私の声は、震えなかった。
ダミアン様が、私を見られた。
「クラウディア、待ってくれ。話せば分かる」
「今夜の席は、お譲り済みでいらっしゃいます。私は、別の席へ参ります」
「クラウディア」
ミレイユ様が、私の名を呼ばれた。
「ごめんなさい、私のせいで」
「ミレイユ様」
私は、ミレイユ様の方に視線を流した。
「謝らないでくださいませ。お席を取られたのは、私の婚約者でいらっしゃいます」
ミレイユ様は、ご返事をなさらなかった。
大広間の中央で、夫人方の扇の動きが、一斉に同じ方向に揺れた。誰かが小さく息を吐き、別の誰かが扇の影で何かをささやいた。詳しい言葉は、私の耳には届かなかった。届く必要もなかった。
私は、入場した時の入口の方角ではなく、王宮儀礼長室へ続く奥の扉へ向かった。
外套を控え室に預けたまま、申請書だけを胸元から取り出した。封蝋のヴァレリウス家の紋が、燭台の光の下で深い赤を見せた。儀礼長室の扉の前で、当直の侍従が一礼してくれた。
「ヴァレリウス公爵令嬢、儀礼長閣下はお仕事中でいらっしゃいます」
「失礼いたします。お時間を、いただきたく」
「内容を、伺ってもよろしいでしょうか」
「婚約解消の正式申請でございます。父、ヴァレリウス公爵レオポルトの署名がございます」
侍従の方が、一拍だけ間を置かれた。それから一礼して、扉の中へ入っていかれた。
しばらくして、扉が開いた。儀礼長閣下は、白いものが多く混じった髪を整えていらっしゃる五十代の男性である。書類仕事の途中だったらしく、片袖をまくり上げていらした。私を見ると、すぐに袖を直された。
「ヴァレリウス公爵令嬢」
「夜分に申し訳ございません。父よりの申請書を、お持ちいたしました」
私は、封蝋の封を切らずに、申請書を儀礼長閣下の机の上に置いた。
儀礼長閣下は、すぐには手を伸ばされなかった。書類の表書きを確認するように、一度、視線を流された。
「公爵家の正式の申請として、お預かりいたします」
「ありがとうございます」
「ただし、婚約解消は両家のご意思の確認が必要でございます。今夜中に受理の判断は致しかねます。グランツ侯爵閣下に通知を回し、異議の有無を伺った上で、明日以降にご返答を差し上げます」
「承知いたしました」
「クラウディア嬢」
儀礼長閣下が、私を呼び止められた。
「公爵家として、この申請を取り下げる意思は、おありでしょうか」
「ございません」
「分かりました」
それだけだった。儀礼長閣下は、申請書を机の中央に納め、当直の侍従に控え室への案内をお命じになった。私が儀礼長室を出る時、閣下は新たに一礼してくださった。私は、それを公爵家への礼として受け取った。
控え室は、儀礼長室の隣にあった。
普段は儀礼長閣下の補佐官の方が使われている部屋だが、今夜は申請書類の控えとして急遽用意されたらしい。卓と椅子、書き物机が一脚。茶器が用意されてはいたが、まだ茶は注がれていなかった。卓上が、わずかに冷えていた。
侍従の方が「ただ今、お茶のご用意を」と申されかけた時、別の足音が廊下に響いた。
「失礼します」
その声を、私は知っていた。
控え室の扉の前に、アリスター殿下が立っていらした。今夜は夜会用の正装ではなく、執務用の落ち着いた装いをお召しだった。エスタリア外交担当としての、王宮への正式な公務での滞在らしかった。手には、書きかけの書類を一束。それを、廊下の侍従の方に渡される最中だったらしい。
「アリスター殿下」
「ヴァレリウス嬢」
殿下は、私の顔を一度だけご覧になった。それから、控え室の卓上に目を流された。茶器が冷えたままになっていることに、お気づきになったらしい。
「失礼ながら、こちらの茶器のお取り換えを」
殿下が、廊下の侍従にお命じになった。
「冷えたものはお下げして、新しいものを。少し熱めにお淹れください」
侍従の方が、一礼して下がった。
殿下は、控え室には入って来られなかった。扉の前で、私から二歩離れた位置に立っていらした。
「お一人で、よろしいですか」
「はい。手続きの控えで、こちらに案内をいただきました」
「申請書は、お預けになりましたか」
「お預けいたしました」
殿下は、それ以上は何もお尋ねにならなかった。私の事情を察しておいでだったのか、儀礼長閣下からのお声を聞かれたのか、私には分からなかった。ただ、殿下が「公爵家の手続きに、外国の人間として口を出すべきではない」とお考えになっていることは、その距離の取り方から伝わった。
「では、私はこれで」
「殿下」
私は、お声をおかけしてしまった。
「ありがとうございます」
殿下は、ほんの少しだけ目を伏せられた。
「冷めた茶は、お一人で召し上がるものではございません」
その言葉だけを残されて、殿下は廊下の奥へお戻りになった。靴音は、私の方角へは一度も振り返らなかった。
少しして、新しい茶器が運ばれてきた。
注がれた紅茶は、湯気が立っていた。立ち上る湯気は、控え室の窓辺の冷たい空気の中で、ゆっくりと上へ流れていった。私は、しばらくそれをただ見ていた。
申請が、明日には受理されるはずでした。
それは、まだ「予定」だった。ヴァレリウス家の申請を、グランツ侯爵閣下がどうお受けになるか。すべてはこれからだった。
それでも、湯気は、確かに立っていた。




