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もう、あなたの隣には座りません 〜乳姉妹を「特別」と呼ぶ婚約者へ、最後の挨拶を〜  作者: 九葉(くずは)


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第5話 君とは違う

ダミアン様の執務室の扉は、半年前より少しだけ重く感じられた。


宰相府の中央廊下を歩く途中、私が抱える書類の束は、いつもとほぼ同じ厚さだった。来春の使節団に関する外交準備の控えである。本来であれば、宰相補佐の役職にある方が、ご自身の補佐官と整えるべき書類だった。けれど、二日前にダミアン様から「君なら一目見れば分かるだろう」とご相談をいただき、私は今朝、登庁に同行することを承知してしまった。


茶会の日から、三週間が経っていた。


季節は晩秋を越え、宰相府の窓辺に並ぶ植木鉢の葉は、半分が落ちていた。庭師が剪定の手を入れている最中なのか、廊下の隅に剪定鋏の音が時折届く。それ以外に、廊下を進む音は、私の靴音だけだった。


すれ違う文官の方々は、私に会釈をなさる。返礼を返すたびに、相手が一拍だけ視線を伏せる。三年前は、こうではなかった。私が宰相府を歩くと、文官の方々は明るく挨拶をしてくださったものだった。婚約者の補佐としてではなく、来賓として迎えていただいていた。今は違う。私が抱える書類の厚みを見て、皆様、何かを察していらっしゃるのが分かった。


ダミアン様の執務室の前で、書記の若い文官の方が一礼してくださった。


「ヴァレリウス嬢、お待ち申し上げておりました」


「お邪魔いたします」


扉が開かれた。


執務室は、私が知っている部屋とは少しだけ違って見えた。机の上に書類が積み重なり、その一番上に、書きかけのまま放置された手紙が一通あった。署名の途中で筆が止まっていた。インクが乾いている。手紙の宛先は、隣国の文官にあてた書簡のようだった。


「クラウディア」


ダミアン様は、私が机の前に立つよりも先に、笑顔で立ち上がってくださった。三年前と同じ笑顔である。


「来てくれて助かった」


「あらかじめお預かりした書類の控えを、お持ちしました。ここで照らし合わせれば、来春の使節団の手筈は、整います」


「やはり、君なら一目で分かる」


私は、机の上に書類を並べた。来賓名簿、席次表の下書き、贈答品の目録、通訳官の選定案。ダミアン様の手元の書類と並べて、どこに齟齬があるのかを確かめていく。三十分も経たないうちに、来賓名簿の中に二つ、贈答品の目録の中に一つ、誤りが見つかった。隣国の侯爵夫人のお名前の綴りが、二か所で違っていた。


「やはり君が見れば、すぐ分かる」


「綴りは、来賓名簿の方を訂正してください。先方の宮廷の登録では、こちらが正式です」


「ああ。助かった」


私は、もう一度、贈答品の目録を確認しようとペンを取った。


その時、執務室の扉が、軽く叩かれた。


「ダミアン様、よろしいかしら」


その声を、私は知っていた。


「入って」


ダミアン様が、書類の上から目を上げずにおっしゃった。扉が開き、ミレイユ様が入ってこられた。今日は薄い灰色のドレスで、髪は緩く一つにまとめていらした。お一人だった。執務室まで、お一人で歩いていらしたのだろうか。それとも、廊下のどこかで道案内を頼んだのだろうか。


「足が痛くて、ね」


ミレイユ様が、机の前まで歩み寄ってこられた。私の隣を通り過ぎる時、ドレスの裾が私の足元をかすった。


「途中まで侍女に支えてもらったのだけれど、もう一人で歩けるようになったから、こちらまで連れてきてもらったの」


「座って」


ダミアン様が、執務室の応接用の椅子を指された。


それは、私が今、書類を広げているのと同じ卓の、向かい側だった。


ミレイユ様が、椅子に腰を下ろされた。一拍だけ間が空いてから、私と目が合った。困ったように、ほんの少し首を傾けられる。私が、机の上の書類を片側へ寄せようとしていることに、お気づきになったらしい。


「ごめんなさい、クラウディア様。お仕事の途中なのに」


「いえ」


私は、書類の角を揃え直した。


それから、ダミアン様の方に向き直って、お尋ねした。


「席を、譲りましょうか」


ダミアン様は、私を見られた。


「君なら分かってくれると思っていた」


その目に浮かんでいたのは、申し訳なさではなかった。三年見てきた、いつものお顔である。


「ミレイユは、特別なんだ。君とは違う」


執務室の空気が、わずかに沈んだ。


書記の若い文官の方が、扉の脇で書きかけの帳面に視線を落とされていた。書く手は、止まっていた。ペン先のインクが、紙の上で小さく滲んでいるのが、私のところからも見えた。


私は、ペンを取らなかった。


代わりに、机の上に広げていた書類の束を、もとの順に揃え直した。来賓名簿、席次表の下書き、贈答品の目録、通訳官の選定案。三十分かけて並べた書類を、五分もかけずに重ね直した。


それを、机の中央に、静かに置いた。


「では、私の役目は、ここまでといたします」


私の声は、自分でも驚くほど普通だった。怒鳴ってもいなければ、震えてもいなかった。怒っているのではなかった。ただ、申し上げただけだった。


「クラウディア」


「失礼いたします」


私は、書記の文官の方に一礼して、執務室の扉を出た。


廊下を歩く途中、剪定鋏の音が止まったのが分かった。何人かの文官の方が、私を見送ってくださっていた。視線を直接合わせない方が多かったが、お一人だけ、深く頭を下げてくださった方がいらした。お名前は存じ上げない。


馬車の中で、私はもう何も考えなかった。


ヴァレリウス家の玄関で、お父様が私を待っていらした。


これは、いつものことではない。お父様は普段、宰相府の用件で私が登庁した日にも、書斎にこもっていらっしゃることが多い。今日は、玄関ホールの脇の椅子に座って、新聞を膝に置いていらした。


「お帰り」


「ただいま戻りました、お父様」


「書斎に来なさい」


書斎の扉が閉まる時、お父様は私から目を逸らさずに、いつもの椅子を勧めてくださった。私は、何もない手のひらを膝の上で重ねて、椅子に座った。


「ダミアン殿の執務室で、何があった」


私は、何もお話ししていない。


「家政長から、報告を受けていた」


お父様は、新聞を脇に置かれた。


「ヴァレリウス家の家政長は、三年前から、グランツ家の家政長と月に一度、互いの家の様子をやりとりしている。私の指示ではない。家政長同士の、長年の付き合いだ。報告は、私に上がってくる」


「お父様」


「お前が婚約してから三年、私は幾度も報告を受けた。隣席のこと。贈り物のこと。茶会の席のこと。先日の夜会のこと。一度たりとも、お前は自分から訴えてこなかった。だから、私も口を出さなかった」


お父様は、書斎の机の引き出しを開けられた。中から、何枚かの便箋を取り出された。文字は、私が知っている家政長の筆跡だった。


「私は、お前から言い出すまで待っていた」


「お父様」


「今日、何があった」


私は、お父様の前で、初めて声が震えた。


「席を譲るように、と」


「誰のために」


「ミレイユ様のために、です」


「それから」


「『ミレイユは特別なんだ。君とは違う』と、おっしゃいました」


書斎の窓から、夕方の光が机の角に落ちていた。お父様は、しばらく何もおっしゃらなかった。机の上で、家政長の便箋を整える音だけが小さく続いた。


「クラウディア」


「はい」


「お前がそう決めたなら、私は止めない」


私は、両手を膝の上で握り合わせていた。指の感覚が、ようやく戻り始めていた。


「グランツ家との婚約は、政略のために結んだものだ。お前を守るためでも、お前を縛るためでもなかった。お前が自分を守れないと判断した時点で、もう保つ意味のないものだ」


「ありがとうございます」


「次の機会に、どうする」


「次の機会に、私は席を降ります」


お父様は、それで一度だけ頷かれた。便箋を引き出しに戻された。鍵を回す音が、書斎の中で乾いて響いた。


書斎を出る時、お父様は最後に一言だけお付け加えになった。


「アリスター殿下からの茶会のお誘いは、まだ続いているか」


「はい」


「次の機会にも、お前は招かれているか」


「お招きいただいております」


「そうか」


それきり、お父様は何もおっしゃらなかった。


自室に戻る途中、廊下の窓から、ヴァレリウス家の庭が見えた。剪定の済んだ庭木が、晩秋の風に静かに揺れていた。私の家の庭師は、毎年同じ時期に剪定をする。それを、私は子どもの頃から知っていた。家のものを、私はこれまで一人で支えなければならないと思ったことがなかった。


骨が一本曲がった扇は、今日もまだ替えていなかった。


次の機会に、私は席を降ります。


今度は、問いの形ではなかった。

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