表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もう、あなたの隣には座りません 〜乳姉妹を「特別」と呼ぶ婚約者へ、最後の挨拶を〜  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/10

第4話 茶会の席順

母と二人で受けた招待は、思えば三年ぶりのことだった。


婚約してからの三年、私は公爵令嬢として、また婚約者として、夜会と茶会の場に立ち続けてきた。母と並んで馬車に乗ることはあっても、招待状が母娘二人宛だったことは、しばらくなかった。


エスタリア大使館の門は、王宮よりも静かに開いた。


馬車を降りる時、母は私の手を一度だけ取り直してくださった。手袋の上から、軽く。それだけだった。私は、母が何をおっしゃろうとして言わなかったのかを、考えるのをやめた。


呼称ミスの一件から七日が経っていた。あの日以来、グランツ家からの連絡は、月例茶会の準備に関する事務的なものだけだった。ダミアン様からのお手紙は届かなかった。


大使館の応接間ではなく、案内されたのは庭園だった。


季節は、晩秋に差しかかっている。アルベリオン王国の庭園では、もう薔薇の盛りは過ぎている頃合いだが、エスタリア大使館の庭にはまだ秋の薔薇が咲いていた。深い赤に近い色で、母がそれを見て小さく息を呑まれた。


「色が、違うのね」


「エスタリアの薔薇は、季節を一つ越えるたびに色を深くするのだと、伺ったことがございます」


「あなたから聞いたことかしら」


「いいえ。どなたから伺ったのか、覚えていないのです」


母は、それきり何もおっしゃらなかった。庭園の奥に、白い卓と五脚の椅子が用意されていた。卓の上には、銀の茶器と、いくつかの薄い書物。書物の背の文字が、エスタリア風の細い活字で書かれているのが、遠目にも分かった。


「ヴァレリウス公爵夫人、クラウディア嬢。お越しいただき感謝いたします」


迎えてくださったのは、アリスター殿下と、エスタリアの在留貴族が三名だった。皆様、年齢は三十代から五十代といったところで、夜会の場よりもよほど静かな表情をなさっていた。殿下は、私に対して一度、母に対して一度、丁寧なお辞儀を取って下さった。


私が席に着くと、椅子の脚が床にこすれる音が、いつもより小さく聞こえた。


席は、奥から見て卓の右側だった。母は私の隣、左に。殿下は私の向かい。在留貴族の方々は、その両側に二人ずつ。私の右手の位置に、自然と書物と、何枚かの白紙が置かれていた。ペンが、私が腕を伸ばせば取れる角度に立てられていた。


私が右利きだと、どなたかが知っていらした。


席を整えてくださった方は、最後まで名乗りを上げなかった。給仕の方々は、私の卓の右側を空けたままにして、紅茶を左側から注いでくださった。書物の頁をめくる手元の邪魔にならないように、という配慮だった。


「先日の夜会の通訳記録を、拝見いたしました」


茶会が始まって少しした頃、殿下が静かに切り出された。


「我が国の通訳官にも見せましたが、古典語の同時通訳をこの精度で行える者は、両国合わせても数人しかおりません」


私は、すぐにはお返事できなかった。


通訳記録は、私が書いたものではない。夜会の進行表と、王宮儀礼部の書記が記録した議定書である。私自身は、その記録を改めて読み返すことはほとんどなかった。間違いがあれば耳に入る。それで十分だった。


「恐れ入ります」


「特に、最後の議定書の語尾の選択は、ご見識の高さを示すものでした」


在留貴族のお一人――最年長と見える方が、頷かれた。


「我が国では、ヴァレリウス嬢のお名前は、外交席で長く存じ上げております」


「両国の外交席に立たれた方の通訳で、私はこちらの嬢の他をお見かけしたことがありません」


「アルベリオン側の女性のご令嬢でいらして、この水準のお仕事をなさる方は、もうおりませんでしょう」


私は、お言葉の一つ一つに、すぐにはお返事をしなかった。


代わりに、紅茶のカップに目を落とした。今日は湯気が立っている。注がれたばかりの紅茶が、ゆっくりと色を深めていく。三年、こうした時間がなかったことに、私はようやく気づいた。


母が、ほんの少しだけ、私の隣で身じろぎなさった。


「殿下」


母が、初めてお声をかけられた。


「お声をかけていただき、ありがとうございます」


「いえ、こちらこそ、お忙しいところを」


「娘の仕事を、私はあまり知らずに過ごしてまいりました。日々、何をどう務めているのかを、本人は申しません」


殿下は、静かに頷かれた。


「申されない方が、本物でいらっしゃいます」


母は、それで一度だけ目を伏せられた。それから、卓の上の薄い書物を一冊取り上げられた。背の文字を指でなぞられる。


「これは、こちらの言葉でいうと、何になりますの」


「詩集でございます。エスタリアの北方の詩人のものを、近年まとめ直したものです」


「クラウディアが」


母は、私の方をご覧にならずに続けられた。


「娘が、夜更けに何度も読み返している本があるのです。題名を私は存じ上げないのですが、装丁が、こちらの本によく似ております」


私は、紅茶のカップから手を放した。


母は、私の蔵書のことを、私が思っていたよりずっと正確にご存じだった。私が三年前から繰り返し読んできた一冊は、確かにエスタリアの北方の詩人のものだった。装丁の色も、表紙の刺繍の意匠も、卓の上の本によく似ていた。


殿下は、母のお話に頷かれた。何もおっしゃらなかった。詩人の名前も、お書きにならなかった。ただ、卓の上の本の背を、もう一度ご覧になっただけだった。


茶会の話題は、その後、来年の春の使節団の話に移った。


私は通訳としてではなく、ただの招待客として、その話に耳を傾けた。途中、宰相府の名前が出た。在留貴族のお一人が、控えめに微笑まれた。


「先日、宰相府からの公式書簡で、隣国の大使の名を取り違えていらしたとの話を、聞きました」


「あら」


別の在留貴族の方が、目を丸くなさった。


「珍しいことでございますね」


「お若い補佐官の方の責でしょうか。それとも」


殿下が、その話題を引き取られた。


「公的な失誤は、こうした場で追及するものではございません」


その一言で、宰相府の話は終わった。私はカップに目を落としたまま、何も申し上げなかった。


ダミアン様のお名前は、出なかった。


それでも、お名前を出すまでもなく、私には誰のことを話していらっしゃるのかが分かった。隣国の大使の名前を取り違える書簡を出す補佐官は、宰相府には数人しかいない。その中で、外交席に出る役職を持つ補佐官は、もっと少ない。


茶会が終わりに近づいた頃、私と母は、殿下と少しだけ庭園を歩く時間をいただいた。


晩秋の薔薇は、夕方の光の中で、よりいっそう色が深く見えた。母が薔薇の一本をご覧になっている間、私は殿下と並んで小道を歩いた。歩幅を合わせてくださっているのに、その合わせ方が私に気づかれないようになっていた。


「今日は」


私は、自分でも何を申し上げるつもりだったのか、分からないまま口を開いた。


「今日は、疲れたと、申し上げてもよいのでしょうか」


殿下は、すぐにはお返事をなさらなかった。一歩、私より先に進まれて、振り返られた。


「疲れたと申し上げられる場所が、ここにはあります」


私の足が、半歩遅れた。


殿下は、それ以上踏み込んでこられなかった。視線を一度だけ庭園の奥――母が薔薇をご覧になっている方角――に流され、それから再び小道の前を向かれた。


私たちは、母のところまで黙って歩いた。


馬車に乗り込む直前、殿下が母に短く何かをお伝えになった。私の耳には届かなかった。母は微笑まれて頷かれた。それだけだった。


馬車が大使館の門を出てから、母はずっと窓の外をご覧になっていた。私も、何もお話しできなかった。


「あの方は」


家に着く少し前に、母がぽつりとおっしゃった。


「よく、聞いてくださる方ね」


「はい」


「人の話を聞ける方は、少なくなりました」


母はそれだけおっしゃると、また窓の外をご覧になった。私は、骨が一本曲がったままの扇を、膝の上で握っていた。


私は、戻らなくてもよいのでしょうか。


問いの形にしてみても、答えはどこにもなかった。ただ、窓の外で、エスタリア大使館の庭園とは違う色の街路樹が、後ろへ流れていくのが見えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ