第4話 茶会の席順
母と二人で受けた招待は、思えば三年ぶりのことだった。
婚約してからの三年、私は公爵令嬢として、また婚約者として、夜会と茶会の場に立ち続けてきた。母と並んで馬車に乗ることはあっても、招待状が母娘二人宛だったことは、しばらくなかった。
エスタリア大使館の門は、王宮よりも静かに開いた。
馬車を降りる時、母は私の手を一度だけ取り直してくださった。手袋の上から、軽く。それだけだった。私は、母が何をおっしゃろうとして言わなかったのかを、考えるのをやめた。
呼称ミスの一件から七日が経っていた。あの日以来、グランツ家からの連絡は、月例茶会の準備に関する事務的なものだけだった。ダミアン様からのお手紙は届かなかった。
大使館の応接間ではなく、案内されたのは庭園だった。
季節は、晩秋に差しかかっている。アルベリオン王国の庭園では、もう薔薇の盛りは過ぎている頃合いだが、エスタリア大使館の庭にはまだ秋の薔薇が咲いていた。深い赤に近い色で、母がそれを見て小さく息を呑まれた。
「色が、違うのね」
「エスタリアの薔薇は、季節を一つ越えるたびに色を深くするのだと、伺ったことがございます」
「あなたから聞いたことかしら」
「いいえ。どなたから伺ったのか、覚えていないのです」
母は、それきり何もおっしゃらなかった。庭園の奥に、白い卓と五脚の椅子が用意されていた。卓の上には、銀の茶器と、いくつかの薄い書物。書物の背の文字が、エスタリア風の細い活字で書かれているのが、遠目にも分かった。
「ヴァレリウス公爵夫人、クラウディア嬢。お越しいただき感謝いたします」
迎えてくださったのは、アリスター殿下と、エスタリアの在留貴族が三名だった。皆様、年齢は三十代から五十代といったところで、夜会の場よりもよほど静かな表情をなさっていた。殿下は、私に対して一度、母に対して一度、丁寧なお辞儀を取って下さった。
私が席に着くと、椅子の脚が床にこすれる音が、いつもより小さく聞こえた。
席は、奥から見て卓の右側だった。母は私の隣、左に。殿下は私の向かい。在留貴族の方々は、その両側に二人ずつ。私の右手の位置に、自然と書物と、何枚かの白紙が置かれていた。ペンが、私が腕を伸ばせば取れる角度に立てられていた。
私が右利きだと、どなたかが知っていらした。
席を整えてくださった方は、最後まで名乗りを上げなかった。給仕の方々は、私の卓の右側を空けたままにして、紅茶を左側から注いでくださった。書物の頁をめくる手元の邪魔にならないように、という配慮だった。
「先日の夜会の通訳記録を、拝見いたしました」
茶会が始まって少しした頃、殿下が静かに切り出された。
「我が国の通訳官にも見せましたが、古典語の同時通訳をこの精度で行える者は、両国合わせても数人しかおりません」
私は、すぐにはお返事できなかった。
通訳記録は、私が書いたものではない。夜会の進行表と、王宮儀礼部の書記が記録した議定書である。私自身は、その記録を改めて読み返すことはほとんどなかった。間違いがあれば耳に入る。それで十分だった。
「恐れ入ります」
「特に、最後の議定書の語尾の選択は、ご見識の高さを示すものでした」
在留貴族のお一人――最年長と見える方が、頷かれた。
「我が国では、ヴァレリウス嬢のお名前は、外交席で長く存じ上げております」
「両国の外交席に立たれた方の通訳で、私はこちらの嬢の他をお見かけしたことがありません」
「アルベリオン側の女性のご令嬢でいらして、この水準のお仕事をなさる方は、もうおりませんでしょう」
私は、お言葉の一つ一つに、すぐにはお返事をしなかった。
代わりに、紅茶のカップに目を落とした。今日は湯気が立っている。注がれたばかりの紅茶が、ゆっくりと色を深めていく。三年、こうした時間がなかったことに、私はようやく気づいた。
母が、ほんの少しだけ、私の隣で身じろぎなさった。
「殿下」
母が、初めてお声をかけられた。
「お声をかけていただき、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、お忙しいところを」
「娘の仕事を、私はあまり知らずに過ごしてまいりました。日々、何をどう務めているのかを、本人は申しません」
殿下は、静かに頷かれた。
「申されない方が、本物でいらっしゃいます」
母は、それで一度だけ目を伏せられた。それから、卓の上の薄い書物を一冊取り上げられた。背の文字を指でなぞられる。
「これは、こちらの言葉でいうと、何になりますの」
「詩集でございます。エスタリアの北方の詩人のものを、近年まとめ直したものです」
「クラウディアが」
母は、私の方をご覧にならずに続けられた。
「娘が、夜更けに何度も読み返している本があるのです。題名を私は存じ上げないのですが、装丁が、こちらの本によく似ております」
私は、紅茶のカップから手を放した。
母は、私の蔵書のことを、私が思っていたよりずっと正確にご存じだった。私が三年前から繰り返し読んできた一冊は、確かにエスタリアの北方の詩人のものだった。装丁の色も、表紙の刺繍の意匠も、卓の上の本によく似ていた。
殿下は、母のお話に頷かれた。何もおっしゃらなかった。詩人の名前も、お書きにならなかった。ただ、卓の上の本の背を、もう一度ご覧になっただけだった。
茶会の話題は、その後、来年の春の使節団の話に移った。
私は通訳としてではなく、ただの招待客として、その話に耳を傾けた。途中、宰相府の名前が出た。在留貴族のお一人が、控えめに微笑まれた。
「先日、宰相府からの公式書簡で、隣国の大使の名を取り違えていらしたとの話を、聞きました」
「あら」
別の在留貴族の方が、目を丸くなさった。
「珍しいことでございますね」
「お若い補佐官の方の責でしょうか。それとも」
殿下が、その話題を引き取られた。
「公的な失誤は、こうした場で追及するものではございません」
その一言で、宰相府の話は終わった。私はカップに目を落としたまま、何も申し上げなかった。
ダミアン様のお名前は、出なかった。
それでも、お名前を出すまでもなく、私には誰のことを話していらっしゃるのかが分かった。隣国の大使の名前を取り違える書簡を出す補佐官は、宰相府には数人しかいない。その中で、外交席に出る役職を持つ補佐官は、もっと少ない。
茶会が終わりに近づいた頃、私と母は、殿下と少しだけ庭園を歩く時間をいただいた。
晩秋の薔薇は、夕方の光の中で、よりいっそう色が深く見えた。母が薔薇の一本をご覧になっている間、私は殿下と並んで小道を歩いた。歩幅を合わせてくださっているのに、その合わせ方が私に気づかれないようになっていた。
「今日は」
私は、自分でも何を申し上げるつもりだったのか、分からないまま口を開いた。
「今日は、疲れたと、申し上げてもよいのでしょうか」
殿下は、すぐにはお返事をなさらなかった。一歩、私より先に進まれて、振り返られた。
「疲れたと申し上げられる場所が、ここにはあります」
私の足が、半歩遅れた。
殿下は、それ以上踏み込んでこられなかった。視線を一度だけ庭園の奥――母が薔薇をご覧になっている方角――に流され、それから再び小道の前を向かれた。
私たちは、母のところまで黙って歩いた。
馬車に乗り込む直前、殿下が母に短く何かをお伝えになった。私の耳には届かなかった。母は微笑まれて頷かれた。それだけだった。
馬車が大使館の門を出てから、母はずっと窓の外をご覧になっていた。私も、何もお話しできなかった。
「あの方は」
家に着く少し前に、母がぽつりとおっしゃった。
「よく、聞いてくださる方ね」
「はい」
「人の話を聞ける方は、少なくなりました」
母はそれだけおっしゃると、また窓の外をご覧になった。私は、骨が一本曲がったままの扇を、膝の上で握っていた。
私は、戻らなくてもよいのでしょうか。
問いの形にしてみても、答えはどこにもなかった。ただ、窓の外で、エスタリア大使館の庭園とは違う色の街路樹が、後ろへ流れていくのが見えていた。




