第3話 未来の奥様
招待状が二通、同じ朝に届いた。
一通は、月例の茶会の打ち合わせのため、グランツ侯爵夫人ヘルミーナ様から私宛に。もう一通は、エスタリア大使館の名で、母宛に届いていた。
母宛の方は、書斎の机に並べられていた。封蝋の色がエスタリア国の深い青で、私は一目でどちらの封筒が何のものか分かった。母は私に何もおっしゃらず、ただご自身の封筒だけを手に取って、書斎を出て行かれた。少しして、戻ってきた母が私の前に便箋を一枚置いた。
「先様から、私に伺いたいことがあるそうよ」
「お母様に、ですか」
「エスタリア大使館に、近いうちに伺うことになりそう。お前のことではなく、私への、礼儀の挨拶として」
私は、すぐには何も申し上げなかった。エスタリア王弟アリスター殿下のお名前を、母も口にはなさらなかった。ただ、便箋に書かれた招待の文字を、私はもう一度だけ目で追った。
夜会から五日が経っていた。
その日の午後、私はグランツ侯爵邸に伺った。
月例の茶会の打ち合わせは、半年前から私が任されている仕事である。招待客の選定、席順、菓子、給仕の手配、贈答品の確認。形式の整った仕事ばかりだが、貴婦人方の組み合わせを誤れば、その一日で家の評判が傾くこともある。
ヘルミーナ様は、サロンの窓辺の椅子で私を迎えてくださった。
「クラウディア嬢、いつもありがとうございます」
「お招きいただき、ありがとうございます、ヘルミーナ様」
「いつも、と申し上げました。一度きりのお礼ではありません」
ヘルミーナ様は、白いものが少し混じった髪を結い上げ、控えめな耳飾りをつけていらした。茶器を取られる手の動きが、いつもより少しだけ早かった。
「先日の夜会のこと、夫から聞きました」
私は、紅茶のカップを置いた。
「ミレイユのことを、です」
「ヘルミーナ様」
「いいえ、お聞きください。あの子をこの家で育てた者として、私は一度きちんと申し上げておきたいのです。私の息子は、あの子を可愛がりすぎております。それを、私はもう少し早く正すべきでした」
ヘルミーナ様は、ご自身のカップに目を落とされた。砂糖を入れる手の動きが止まり、しばらくしてから、結局そのまま脇に置かれた。
「今日の打ち合わせの中で、もう一度家中の者にも申し伝えるつもりです」
「私が口を出すことではございません」
「あなたが口を出さないからこそ、私が出すのです」
サロンの空気が、わずかに固くなった。私は何も申し上げなかった。ヘルミーナ様も、それ以上はおっしゃらなかった。話題はすぐに来月の茶会の招待客の選定へ移った。
打ち合わせが一段落した頃、サロンの扉の外で、廊下を進む足音と、運ばれる茶器の触れ合う音が小さく響いた。
茶器を運んでいたのは、私の知らない若いメイドだった。
おそらく、新しく入った者である。盆を抱える手元はまだ慣れていなかった。彼女が向かった先は、サロンの隣の小客間の扉だった。小客間には、ミレイユ様がいらした。打ち合わせの間、別室でお待ちになっているのが、いつもの取り決めである。
扉の前で、メイドが声をかけた。
「未来の奥様、紅茶でございます」
廊下の音が、その一言で止まった。
サロンの中で、ヘルミーナ様が茶器の音を立てずにカップを置かれた。私は扇を膝の上で握っていた手のひらが、わずかに冷たくなったのを覚えている。立ち上がって、サロンの扉まで歩いた。廊下に出ると、メイドはまだ盆を抱えたまま、小客間の扉の前に立っていた。
「あの」
私が声をかけると、メイドが振り返った。
「私はまだ婚約者です。ミレイユ様は、男爵家のお嬢様にあたります」
私の声は、自分でも驚くほど普通だった。怒鳴ってもいなければ、震えてもいなかった。ただ、事実を申し上げただけだった。
メイドの顔色が、見ているうちに変わった。
「し、失礼いたしました、ご婚約者様」
「次から、お気をつけて」
その時、小客間の扉が中から開いた。
ミレイユ様がお顔を覗かせ、廊下の様子をご覧になった。私とメイドを見比べて、それから少しだけ困ったように微笑んだ。
「クラウディア様、いいのよ」
「何が、でしょうか」
「気にしないで。私、そう呼ばれるのに慣れているの。この家では、皆さん前からそうおっしゃるから」
廊下の奥で、別の使用人の足音が止まった。盆を運んでいた家政担当の女性が、こちらをご覧になる前に視線を伏せられた。その動きは、初めて見るものではなかった。これまでも何度か、同じ角度で目を伏せた使用人が、この家にはいた。
「ミレイユ様」
私は申し上げた。
「私の方が、困ります」
ミレイユ様は、その言葉を聞き返さなかった。
サロンの方から、ヘルミーナ様がお出ましになった。廊下を歩む足音は、いつもの月例茶会の段取りを確認なさる時と同じ静けさだった。ただ、メイドの前で立ち止まられた時、サロンの空気を一段下げる音だけが、確かに廊下に落ちた。
「家政長を呼んでちょうだい」
ヘルミーナ様は、メイドではなく、廊下の奥の家政担当の女性に向かっておっしゃった。
「奥様、ただ今お呼びいたします」
家政担当の女性が立ち去ると、ヘルミーナ様は私に小さく頷かれ、それから新しいメイドの方をご覧になった。
「あなたの名前は」
「マーシャと、申します」
「マーシャ、この家で何度、その呼び方をしたことがありますか」
「……今日が、初めてでございます」
「そう。であれば、今日のうちに、訂正の機会があるということです」
ヘルミーナ様の声は、終始穏やかだった。
家政長が玄関広間に着いた頃、ヘルミーナ様は私に一言、「クラウディア嬢もご一緒くださいますか」と尋ねられた。私は頷いた。
玄関広間には、家政長の指示で、家中の主だった使用人が集められていた。執事、家政長、料理長、上級メイド、若いメイドたち。新しく入った者から、長く仕えている者まで、全員が並んでいた。先ほどのマーシャは、家政長の隣で目を伏せていた。
ヘルミーナ様は、広間の中央に立たれた。
「皆さんに、改めて申し上げます」
声を張り上げてはいらっしゃらなかった。だが、広間の高い天井に、その言葉は確かに届いた。
「呼称は、家の格に関わります。我が家にお越しになるお客様を、誰一人として、その身分にふさわしくない呼び方でお呼びすることはなりません」
広間に、足音は一つもなかった。
「我が家には、未婚のご令嬢を奥様とお呼びする習慣はありません。クラウディア嬢は、まだご婚約者でいらっしゃいます。ミレイユ嬢は、男爵家のお嬢様でいらっしゃいます。それぞれにふさわしいお呼び方を、もう一度、家政長から徹底してください」
ヘルミーナ様は、家政長に頷かれた。家政長が一礼した。
「これは、私の家の問題です。誰か一人のせいではなく、私の指導が至らなかった結果です」
ヘルミーナ様は、最後にそう付け加えられた。
広間の使用人たちは、誰一人として顔を上げなかった。
私は、その光景を、扇を握ったまま見ていた。骨が一本だけ曲がっている扇である。先日の夜会で、力が一方に偏った時に折れたものだった。新しい扇に取り替えるべきだと侍女に勧められていたが、私はまだ替えていなかった。
退出の挨拶を済ませて、馬車に乗り込む頃には、日が傾いていた。
ヘルミーナ様は、玄関までお見送りに出てくださった。馬車の扉が閉まる直前、私の手にそっとご自身の手を重ねられ、何もおっしゃらなかった。
馬車の中で、私はようやく扇を膝の上で開いた。骨が一本、わずかに曲がっている。指で押し戻そうとしたが、戻らなかった。
家の中まで、もう、私の席はないのかしら。
問いの形にしてみても、答えはどこにもなかった。ただ、馬車の窓の外を、夕方の光が後ろへ流れていくのが見えていた。




