第2話 冷めた紅茶
外套の重みが、思ったよりも肩に来た。
控えの間の鏡の前で、侍女が裾を直す手元を見ながら、私はようやく息が一段落ちたことに気づいた。エスタリアの使節を見送るまでが今夜の務めだったが、進行表は儀礼部に預け、書類は使節団の補佐官の手に渡った。婚約者の隣ではない場所から退くことに、形式上の不備はない。それでも、廊下に出るたびに足音が自分のものではないように響いた。
「お嬢様、馬車のご用意が整っております」
「ありがとう」
侍女が私の耳の高さで何かを言いかけ、結局そのまま唇を閉じた。先ほど私が尋ねた殿方の名前のことだと、私には分かっていた。エスタリア王国の王弟殿下。アリスター・フォン・エスタリア。三年外交の場に立ってきて、その名を耳にしなかった夜は数えるほどしかない。それなのに、お姿を拝見したのは今夜が初めてだった。
玄関ホールへ続く回廊は、夜半の風が一筋通っていた。
途中、柱の手前で、私は足を止めた。
そこに、先ほどの殿方が立っていらした。
正装の上に、夜会用の薄手の外套を羽織っていらっしゃる。お一人だった。私の足音に気づかれたのか、こちらをご覧になると、ほんの少し、お辞儀の角度を取って下さった。王族の方が公爵令嬢に取る角度としては、丁寧すぎるくらいだった。
「ヴァレリウス公爵令嬢、でいらっしゃいますか」
「はい。お初にお目にかかります」
私は礼を返した。深すぎず、浅すぎず。三年磨いてきた角度である。
「アリスター・フォン・エスタリアと申します。お引き止めして申し訳ありません」
その声は、夜会の喧騒の名残を一切まとっていなかった。低く、抑制された声だった。私が顔を上げると、殿下は一度だけ、私の背後の――先ほど私が歩いてきた方角に視線を流された。大広間の方角である。
「先ほどの通訳は、正確でした」
私は、お言葉の意味をすぐには受け取れなかった。
通訳が正確かどうかを、私の隣で確かめてくださった方は、これまで一人もいなかった。間違えていないかを気にかけたのは、いつも私自身だった。古典語の語尾を一語ずらせば、合意の文言が脅迫に転ぶ。だから磨いた。誰にも気づかれずに済むように。
「……恐れ入ります」
「特に、終わりの方の議定書の一節は」
殿下は、項目の番号まで正確におっしゃった。私が両国語と古典語の三角を回しながら、最後に通した一文である。
「あの一節は、語尾の選び方で大きく意味が変わります」
「存じ上げております」
「だからこそ、正確であった、と申し上げました」
私の喉の奥が、ほんの一拍だけ詰まった。
殿下は、それ以上踏み込んでこられなかった。視線をわずかに落とされ、外套の合わせを直された。指の動きが少なかった。袖口の刺繍だけが、燭台の光を細く拾った。
「もう一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「はい」
「あなたの紅茶は、冷めたままでしたね」
それは、お訊ねではなかった。確かめでもなかった。ただ、見ていらした、と告げる声だった。
私は、すぐにはお返事できなかった。
返事を探す代わりに、私は自分の手元を見た。扇は閉じたまま、左の手のひらに収まっていた。骨が一本だけ、わずかに曲がっている。先ほど閉じた時に、力が一方に偏ったのかもしれない。
「……お見苦しいところを、お見せいたしました」
「いいえ」
殿下は短くおっしゃった。それ以上のことは何もおっしゃらなかった。会釈を返して下さると、回廊を逆方向へ歩いて行かれた。靴音は、私の方向へは一度も振り返らなかった。
馬車に乗り込むと、革の座席の冷たさが、外套越しに膝に届いた。
侍女は、私が話しかけるのを待っているようだったが、私から話すことは何もなかった。窓の外を、夜の街灯が一つずつ後ろへ流れていく。胸の中で、殿下のお声の調子と、紅茶の湯気が消えていった卓のことが、別々に動いていた。
公爵邸に着いた頃には、夜半をとうに過ぎていた。
母は、玄関に立っていらした。私が外套を脱ぐより先に、私の顔をじっとご覧になり、何かをおっしゃろうとして、結局おっしゃらなかった。
「今夜は、もう休みなさい」
「お父様には」
「明日でいい。今夜は、お前は何もしなくていい」
母は、それだけおっしゃると、ご自身の寝室へ戻られた。階段を上る足音が、いつもよりも遅かった。
私は自室で湯を使い、髪を拭く間も、扇の骨が一本だけ曲がっていることを思い出していた。
翌朝の書斎は、静かだった。
私が机に向かって、儀礼部に返却すべき控えの書類を整えていると、扉の外で随行侍女が声をかけた。昨夜、王宮で私の傍に控えていた者である。
「お嬢様、少しだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
侍女は入ってきて、机の前で姿勢を正した。普段、報告の前にこのように一拍置く人ではない。
「昨夜のことで、申し上げておきたいことがございます」
「何かしら」
「給仕の少年から聞いたことです。あの少年に、エスタリアの王弟殿下が、お声をかけておいででした」
私はペンを置いた。
「殿下は、私が拝見した限り、お一人で給仕の少年に三度お声をかけられました。最初は、私のお嬢様の卓へ、紅茶をお運びした少年です。殿下は、お嬢様のお代わりを少年がお伺いした回数を、確かめておいででした」
「……回数」
「お嬢様がお断りになった回数を、です。三度、と少年がお答えしたところで、殿下はそれ以上は何もお尋ねになりませんでした。ただ、少年に礼を申されて、お立ち去りになりました」
侍女は、そこで言葉を切った。私が何か返すのを待っていた。
私は、何も言わなかった。返事のための言葉が、口の中で形にならなかった。
机の隅に、昨夜の進行表の写しが一枚だけ残っていた。私は無意識に、その紙の角を指先で揃えていた。揃え終わってから、なぜそんなことをしているのかが分からなかった。
「下がってよろしい」
侍女が一礼して退出する間も、私は机を見つめていた。
冷めた紅茶のことを、私は誰にも申し上げなかった。卓の上で湯気が消えていたことも、給仕の少年が三度目に黙ってカップを下げていったことも、私の中だけで終わっていたはずだった。
そうではなかった、ということを、今知った。
殿下は、何をご覧になっていらしたのでしょう。
問いの形にしてみても、答えはどこにもなかった。書斎の窓から、朝の光が机の端に落ちていた。光の中に、揃えたばかりの進行表の写しが、白く浮かんでいた。




