09
橋へ出かけた翌朝、リナはアレンの客間へ朝食を運び、食べ終えた食器を盆に載せて部屋を出た。
静かに扉を閉め、そのまま廊下を進む。客間から離れ階段へ続く角を曲がったところで、向こうから新しいリネンを抱えたマルタが歩いてきた。
「リナ、朝食は?」
「きれいに召し上がっていました。もう食事はほとんど心配なさそうです」
「そう。よかったわ」
すれ違いざまにそう答えたマルタだったが、リナが何か言いたそうに後ろをついてくるのに気づき、歩調を緩めた。
「どうしたの?」
「いえ。何でもないんですけど……」
リナは少し迷ってから、もう客間の扉が見えないことを確かめるように一度だけ後ろを振り返った。
「アレン様って、お嬢様とお話しされるときは少し違いますよね」
マルタは抱えていたリネンを持ち直しながら、リナを見る。
「違う?」
「私たちといるときより、よくお話しされるというか……」
「そうかしら」
「そうですよ。今朝だって、ちゃんと『ありがとう』って」
「お礼くらい、前から仰っていたでしょう」
「そうでしたっけ?」
「あなたが緊張しすぎて、聞こえていなかったんじゃないの?」
図星だったらしい。リナは言葉に詰まり、気まずそうに視線を逸らした。
アレンがこの屋敷へ運び込まれたばかりの頃、彼女は客間へ入るたびにひどく緊張していた。
この辺りでは滅多に見かけないほど整った顔立ちをしているうえに、背も高い。最初に顔を見たときには、こんな人がどこから来たのだろうと、使用人たちの間でも少しばかり話題になったほどだった。
けれど、実際に本人を前にすると、見惚れているような余裕はなかった。怪我のために機嫌が悪かったわけでも、使用人へ横柄に振る舞ったわけでもない。ただ、必要なこと以外はほとんど口にせず、表情も滅多に変わらないため、視線を向けられるだけで何か粗相をしたのではないかと不安になったものだ。
今でも口数が多いとは言えないし、使用人に対する態度が大きく変わったわけでもない。それでも、以前のように部屋へ入るだけで身構えることはなくなっていた。
「でも、この前はお嬢様とずっとお話しされていましたよ」
「ずっと?」
「……ずっとではないですけど」
マルタが笑うと、リナは少しむっとした顔をする。
「私がお茶をお持ちしたときです。お嬢様が何か仰ると、アレン様もちゃんと返していらして。それに、
お嬢様には時々、言い返されるでしょう?」
「言い返すって……」
聞き覚えのある声が背後からして、二人は揃って振り返った。
別の廊下からこちらへ曲がってきたエレノアが、不思議そうな顔で二人を見ている。どうやら最後のところだけ聞こえたらしい。
「朝から何の話?」
「お、お嬢様」
リナが分かりやすく姿勢を正したため、エレノアはますます怪訝そうに首を傾げた。
「私が何?」
「アレン様のお話をしていたんです」
隠すほどの話でもないと思ったのか、マルタが答える。
「アレン様?」
「リナが、アレン様は以前よりよくお話しになるようになったと」
「ああ」
それなら、とエレノアは納得したように頷いた。
「お元気になられたからじゃない? 最初はお話しするだけでもお辛そうだったもの」
「私もそう思ったんですけど……」
リナが言い淀むのを見て、エレノアは続きを促すように顔を覗き込んだ。
「何?」
「お嬢様といらっしゃるときの方が、よくお話しされている気がします」
エレノアは意外そうに目を瞬いた。
「そうかしら?」
「はい。私たちがお相手するときなんて、必要なことしか仰らないのに」
「それは、あなたたちと長話をするような用事がないからでしょう?」
あまりにももっともな返事に、リナは困った顔をした。
エレノアも少し考えてみたものの、やはり特別なことをしている覚えはない。
確かに、最初の頃と比べれば会話は増えた。以前なら返事ひとつで終わっていたところから話が続くこともあるし、アレンが呆れた顔をする理由も、最近では何となく分かるようになってきた。
けれど、それは互いに慣れたからだと思っていた。アレンが何を好み、何を嫌がるのかも少しずつ分かるようになったし、彼もまた、エレノアが多少言ったところで簡単には引かないことを知っている。
「やっぱり、元気になられたからじゃないかしら」
そう結論づけると、エレノアはそれ以上気にする様子もなく、もともと向かっていた廊下の先へ歩き出した。ところが数歩進んだところで、何かを思い出したように振り返る。
「それとリナ。言い返しているつもりはないわ」
「えっ」
「普通にお話ししているだけよ」
そう言い残して去っていくエレノアの背中を見送り、リナはしばらく黙っていたが、やがて隣に立つマルタへそっと顔を寄せた。
「……普通、なんでしょうか」
「さあ」
「マルタさんも、違うと思っていますよね?」
問い詰めるようなリナの視線を受けても、マルタは答えなかった。ただ、どこか楽しそうに口元を緩めると、抱えていたリネンをリナの腕にも半分載せた。
「ほら。お喋りはそのくらいにして、仕事へ戻るわよ」
「誤魔化しましたね」
「手を動かしなさい」
リナはまだ何か言いたそうだったが、結局は素直にマルタのあとを追った。
♢
午後、アレンの客間を訪れたのはエレノアではなく、リーヴェ子爵だった。
昼を過ぎて暖かくなった室内では、窓がわずかに開けられている。冬の間は冷たい風を防ぐため固く閉ざされていた窓も、近頃はこうして開けておける時間が増えた。
窓辺に立って外を眺めていたアレンは、子爵が入ってくるとゆっくり振り返った。
「具合はいかがですか」
「問題ない。昨日も思っていたより歩けた」
「橋まで行かれたとか」
「ああ。エレノアに案内してもらった」
娘の名があまりに自然に出てきたことに、子爵はわずかに目を細めたものの、何も言わず向かいの椅子へ腰を下ろした。アレンも窓辺を離れ、テーブルを挟んだ席につく。
「橋の修繕について、エレノアから少し聞いた」
「そうでしたか」
「思っていた以上に重要な道らしいな。村から街道へ出るには、あそこを通るのが一番早いと」
「ええ。遠回りをすれば別の道もありますが、荷車ではかなりの時間を取られます。収穫期に使えなくなると厄介な橋です」
子爵の説明を聞きながら、アレンは昨日見た川と橋を思い返しているようだった。
「あの補修なら当面は問題ないだろう。ただ、川上側の岸は少し気になった。次に水が増えれば、また削られる可能性がある」
その言葉に、子爵の表情がわずかに変わる。
「同じことを、橋を直した職人も申しておりました。春のうちに補強する予定です」
「それがいい」
短いやり取りを終え、子爵は改めて目の前の青年を見た。
この屋敷ではアレンと名乗り、療養する一人の客人として過ごしている。使用人たちにとっても、エレノアにとっても、それ以上の存在ではない。
しかし本来なら、これほど長くリーヴェのような小さな領地に留まるはずのない人物だ。幼い頃から領地を治めるための教育を受けてきた彼にとって、橋ひとつを見ても、その構造だけでなく、その先にある道や村、人や荷の流れまで目を向けることは、すでに身についた習慣なのだろう。
昨日一度見ただけの橋について職人と同じ箇所を指摘したことにも、子爵は驚きながらどこか納得していた
「昨日、エレノアから橋の話を聞かされまして」
話題を変えるように子爵が言うと、アレンが視線を向けた。
「随分と嬉しそうでした。ようやく約束を果たせたと」
「……そんなことまで話したのか」
「ええ。あの子は昔から、嬉しいことがあるとよく話すのです。昨日も橋のことだけではありませんでした。水車がどうだ、丘の花がどうだと。次にお見せしたい場所まで、もう決めているようです」
それを聞いたアレンは一瞬黙り、昨日、橋の上でエレノアから聞いた言葉を思い出していた。
水車や、春になれば白い花が咲く丘、市が立つ日には賑わうという町。どれも、話している本人がそこへ行くことを楽しみにしているのが分かるほど、嬉しそうに語っていた場所だった。
「……あれは、いつもああなのか」
「と申しますと?」
「領内のことになると、よく喋る」
思いがけない尋ね方に、子爵は思わず笑った。
「ええ。幼い頃からです。子どもの頃は、目を離すとすぐ村の方へ行ってしまいましてね。農家の畑を覗いていたかと思えば、今度は水車小屋にいる。夕方になって帰ってくる頃には、靴も裾も泥だらけです」
昨日、村人たちと当たり前のように言葉を交わしていたエレノアの姿が、アレンの中で幼い少女の姿と重なった。
領民の名を覚えているのも、橋が傷んだと聞けば自ら村へ向かうのも、彼女にとっては特別なことではないのだろう。幼い頃から見てきたものを今も変わらず気にかけているだけなのだと知れば、昨日目にした姿にも納得がいく。
「昔から変わらないんだな」
「困ったことに幼少の頃より、あまり変わっておりません」
「想像はつく」
あまりに迷いのない返事だったため、子爵は小さく笑った。
「エレノアとは、よく話をされるのですね」
何気なく口にした言葉だったが、アレンはすぐには答えなかった。ほんのわずかな間を置いてから、椅子の背へ身体を預ける。
「……この屋敷で一番よく顔を合わせているからな」
それだけ言って窓の外へ視線を移したアレンに、子爵はそれ以上何も尋ねなかった。
♢
その後も二人は、橋の補強や領内の道、これから始まる春の農作業についてしばらく話した。
リーヴェは戦場から離れており、今のところ領内が直接戦禍に巻き込まれてはいない。それでも戦が長引くにつれて、以前とまったく同じ暮らしを続けられるわけではなくなっていた。遠方から運ばれてくる資材の値は少しずつ上がり、人手の確保にも以前より時間がかかる。街道を行き交う荷にも変化があり、子爵は戦況がさらに長引けば、いずれ収穫や領民の暮らしにも影響が及ぶのではないかと懸念していた。
「今年の春はまだ問題ないでしょう。ただ、このまま戦が長引けば、資材の確保はさらに難しくなるかもしれません」
子爵の話を聞きながら、アレンはテーブルに広げられた領内の地図へ目を落とした。
「必要な補修は、できるうちに済ませておいた方がいいだろうな」
「私もそう考えております。橋の川岸についても、職人の手配がつき次第取りかかるつもりです」
「あそこが使えなくなれば、困るのは村だけではない。収穫したものを運ぶ時期までに終わらせておくべきだ」
子爵は頷きながら、改めて目の前の青年を見た。
この屋敷で療養する時間が長くなるにつれ、ここでは彼を「アレン」として見ることに慣れつつあった。けれど、こうして領地や人の流れについて話していると、普段は表に出ることのない本来の立場が、ふとした言葉の端に現れる。
「ご助言、ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではない。この屋敷には随分世話になっているからな」
アレンはそう答えたあと、地図に記された橋の位置へもう一度目を向けた。
「それに、エレノアが随分気にしているようだからな」
子爵はその言葉にわずかに視線を上げたものの、アレン自身は特別なことを口にしたつもりはないらしく、先ほどまでと変わらない表情で地図を見ている。
そのため子爵も何も言わず、再び地図へ視線を戻した。ただ、今日この部屋へ入ってから娘の名を聞くのは、これで何度目だっただろうと、ふと思った。
♢
夕刻、父の執務室へ入ったエレノアは、机の上に見慣れない紙が広げられていることに気づいた。窓から差し込む夕方の光の中で、父はその紙にいくつか印をつけている。
「お父様、これは?」
「橋の周辺の地図だよ」
「また何か問題が?」
「いや。春のうちに川岸を補強しておこうと思ってね」
エレノアは父の隣へ回り込み、机の上の地図を覗き込んだ。橋より少し川上の岸に印がつけられており、そこから川の流れに沿って細い線が引かれている。
「職人さんから?」
「それもあるが、アレン殿にも同じところを指摘された」
エレノアは地図から顔を上げた。
「アレン様が?」
「ああ。昨日、一度見ただけで気づいたそうだ」
しばらく印のついた場所を見つめたあと、エレノアは感心したように呟いた。
「……やっぱり、お詳しいのね」
「何か言っていたのかい?」
「昨日も橋の造りや川のことを色々聞かれたんです。旅をしていれば見ることもある、と仰っていましたけれど」
子爵は返事をせず、地図の上に置いていた筆を静かに脇へ置いた。
旅をしていれば自然と身につく程度の知識ではないことを、彼は知っている。けれど、娘にそれを伝えることはできなかった。アレンが何者なのか、なぜ重傷を負い、身分を伏せてこの屋敷にいるのか。それを明かすべき時を決めるのは、自分ではない。
「お父様?」
黙り込んだ父を不思議に思ったのか、エレノアが顔を覗き込む。
「いや。よく見ている方なのだろう」
「そうですね」
エレノアは素直に頷き、もう一度地図へ視線を戻した。少ししてから、何気ない様子で口を開く。
「今日、アレン様とお話しされたんですね」
「ああ」
「何のお話を?」
「領地のことを少し。橋のことから始まって、今年の農作業や資材のこともな」
「そうですか……」
エレノアはどこか意外そうだった。
父とアレンが二人きりで話している姿を、これまでほとんど見たことがない。どちらも自分から多くを話す方ではないだけに、二人で何を話したのか、少しだけ気になった。
「アレン様、何か変わったことは仰っていました?」
子爵は娘を見る。その問いに深い意味はなく、ただ、自分の知らないところで父とアレンが話していたから、その内容を知りたいだけなのだろう。
「いや」
そう答えてから、子爵はほんの少し考えた。
「お前の話を少ししたよ」
「私の?」
エレノアが目を丸くする。
「どうしてですか?」
「橋の話をしていて、自然とそうなったんだ」
「……そうですか」
エレノアはそれ以上尋ねなかったものの、先ほどまで見ていた地図へすぐには視線を戻さなかった。
自分のいないところで、父とアレンが自分の話をしていた。それ自体は何もおかしなことではない。それでも、どんな話をしていたのだろうと考えているうちに、朝、リナから言われたことまで思い出した。
――お嬢様といらっしゃるときの方が、よくお話しされている気がします。
そのときは、ただ元気になったからだと思ったし、今もその考えが変わったわけではない。
けれど、自分のいないところでアレンが自分の名を口にしていたと知ったことは、なぜかいつまでも頭に残った。
♢
同じ頃、客間ではアレンが一人、窓の外に広がる庭を眺めながら、昼間に子爵から聞いた話を思い返していた。
幼い頃のエレノアは、目を離せば村へ出かけ、農家の畑を覗いたかと思えば水車小屋へ行き、夕方には靴も裾も泥だらけにして帰ってきたという。
昨日、自分の隣を歩きながら領内のことを次々と話していた姿を思えば、幼い頃の様子も容易に想像できた。領民の名をよく覚えていることも、橋の修繕を自分のことのように喜んでいたことも、今日聞いた話を知ればどこか納得できる。
これまでアレンが知っていたのは、この屋敷で出会ってからのエレノアだけだった。けれど、子爵と話したことで、彼女がどういう場所で育ち、なぜ領内のことをあれほど大切にしているのかを、ほんの少し知ることができた気がする。
アレンはもう一度、昨日エレノアが話していた水車や丘のことを思い返した。
次にそこへ行けば、今日までとはまた違うものが見えるのかもしれないと思いながら、しばらく庭を眺めていた。




