08
客間から出てきた医師は、廊下で待っていたエレノアを見ると、どこか満足そうに頷いた。
「ずいぶん良くなりましたよ。もう屋敷の中だけに留めておく必要はなさそうですな」
「本当ですか?」
思わず声が弾み、エレノアは閉じられたばかりの客間の扉へ目を向けた。
アレンがこの屋敷へ運び込まれた夜、窓の外では雪が降っていた。庭も屋根も白く染まり、冷たい風が窓を鳴らしていたことを今でも覚えている。
けれど、いつの間にか庭から雪は消え、木々の枝には小さな芽がつき始めていた。朝晩にはまだ冬の名残を感じるものの、日中なら厚手の外套がなくても外を歩けるほどになっている。
季節が少しずつ冬から春へ移っていくのと同じように、アレンの傷もゆっくりと癒えてきた。初めて客間を出た頃は、廊下の突き当たりまで歩くだけでも時間がかかっていたのに、今では屋敷の中であれば一人で歩くことも珍しくない。
それでも、屋敷の敷地より外へ出ることだけは、これまで医師から許されていなかった。
「もちろん、何をしてもよいというわけではありません。馬車を使い、長く歩かないのであれば、近くまで出ても構わないでしょう」
「では、村へ行くことも?」
「人混みを歩き回るのでなければ。ただし、疲れを感じる前に休ませることです。痛みがなくなったからといって、身体まで元どおりになったわけではありませんからな」
「分かりました。無理はさせません」
真剣に頷くエレノアを見て、医師は安心したようだったが、ふと客間の扉へ視線を向けると、わずかに眉を下げた。
「ご本人も、お嬢様くらい素直に聞いてくださると助かるのですが」
その言い方がおかしくて、エレノアは笑ってしまった。
「また何か仰ったのですか?」
「剣を握れるのはいつか、と。まだ先だと何度申し上げても、診察のたびに聞かれるのです」
「まあ……」
呆れたようにため息をつく医師につられ、エレノアも客間の扉を見た。
あれほど大きな怪我をしたというのに、本人は少し身体が動くようになるたび、その先へ進もうとする。最初の頃から変わらないところだけれど、ここまで来ると感心するより先に呆れてしまう。
「私からも言っておきます」
「ぜひお願いいたします」
医師を玄関まで見送ったあと、エレノアは再び客間へ向かった。
扉を叩けば、すぐに返事がある。
「アレン様、入ってもよろしいですか?」
「ああ」
中へ入ると、アレンは窓辺に立っていた。診察を終えたばかりだというのに休む様子もなく、窓の外を眺めている。
以前は寝台から起き上がることさえ難しかったことを思えば、こうして何気なく立っている姿を見るだけでも、エレノアには嬉しかった。
「先生から伺いました。屋敷の外へ出てもいいそうですね」
「ようやくだな」
「それなら――橋を見に行きますか?」
真っ先に浮かんだのは、数日前に交わした約束だった。
アレンは振り返ると、ほんの一瞬だけ考えるような間を置いてから「ああ」と頷いた。
「約束していたな」
「はい。ようやくお見せできます」
「そうだな」
「アレン様、興味があるのは橋の造りの方だと思っていましたけれど」
「それもある」
「それも?」
聞き返すと、アレンはわずかに視線を逸らした。
「君が見せたいと言っていただろう」
あまりに何気なく返され、今度はエレノアの方が言葉に詰まった。自分が見せたいと言ったからという、たったそれだけの理由が、なぜだか少し嬉しかった。
「……では、明日にでも行きましょう」
「今日でも構わない」
「今日は駄目です。馬車の準備もありますし、明日にしましょう」
「俺は今日でも――」
「明日です」
声を荒らげたわけでもないのに、どうやら譲るつもりがないことは伝わったらしい。アレンはしばらくエレノアを見ていたものの、やがて諦めたように息を吐いた。
「……分かった」
「では、決まりですね」
満足して笑うエレノアを見ながら、アレンはそれ以上何も言わなかった。
明日になれば橋を見せに行ける。そう思った途端、エレノアの頭には補修を終えた橋だけでなく、その先にある水車や村の市場まで浮かんできた。
「……また何か考えているな」
「どうして分かるんですか?」
「顔に出ている」
「そんなにですか?」
即答され、エレノアは思わず頬に手を当てた。
「では、明日は橋だけにします。ほかにもお見せしたい場所はありますけれど、それはまた今度に」
「まだあるのか」
「もちろんです」
楽しそうに答えるエレノアを見て、アレンはほんのわずかに口元を緩めた。
♢
翌日は朝からよく晴れていた。
昼食を終える頃には日差しも暖かくなり、玄関の扉を開けても、冬のように身を縮める必要はない。庭の隅には小さな花が咲き始め、土の匂いを含んだ風が、冬の終わりを静かに知らせていた。
玄関前には、すでに馬車が用意されている。
先に外へ出たエレノアが御者と言葉を交わしていると、背後で扉の開く音がした。振り返れば、いつもの落ち着いた色の服の上に薄手の外套を羽織ったアレンが、こちらへ歩いてくる。
その姿を見て、エレノアはふと思い出した。
「アレン様。そのまま行かれるおつもりですか?」
アレンは一度自分の服装を見下ろし、怪訝そうに眉を寄せた。
「おかしいか?」
「服装ではなくて……お顔です」
「顔?」
「いえ、お顔がおかしいという意味ではありませんよ」
「分かっている」
「でしたら、そんな顔をなさらないでください」
エレノアは笑いながら、少しだけ声を落とした。
アレンがこの屋敷に滞在していることを知る者は多くない。詳しい事情は知らなくとも、人目を避ける必要があることくらいは分かっている。
「村の方にお会いするかもしれませんから、念のため、お顔が分かりにくいようにしておいた方がいいと思います」
アレンもすぐに意味を理解したらしく、外套についていたフードを被った。額にかかる髪も整った顔立ちも影に隠れ、少し離れれば顔まではっきりとは分からない。
エレノアは数歩下がって眺めてみたが、それでもどこか目立つ。
「……どうした」
「いえ。顔を隠しても、あまり目立たなくはならないんですね」
「どうしろと言うんだ」
「背が高いので、もう少し小さくなれないでしょうか」
「・・・無理なことを言うな」
「ですよね」
思わず笑うと、アレンは呆れたようにエレノアを見た。
御者が馬車の扉を開ける。
エレノアはいつものように自分で乗り込もうとしたが、一歩踏み出すより先にアレンが隣へ立ち、ごく自然な動作で片手を差し出した。
その所作には迷いがなく、あまりにも当然のように行われたため、エレノアは一瞬、それが自分に向けられたものだと気づかなかった。
顔を上げると、アレンが何も言わずに待っている。
エレノアは少し戸惑いながら、その手に自分の手を重ねた。
触れた瞬間、思っていたよりも大きな手だと思った。長い指に支えられると、自分の手がすっぽりと収まってしまう。
アレンもまた、重ねられた手へ一瞬だけ視線を落とした。エレノアの手は思っていた以上に小さく、こうして触れてみて初めて、彼女が自分よりずっと華奢な女性なのだと意識する。
けれど、それを表情に出すことはなく、アレンは何事もなかったように彼女の足元を確かめ、馬車へ乗り込むのを支えた。
「ありがとうございます」
座席へ腰を下ろしたエレノアが礼を言うと、アレンは短く頷いて手を離し、自分も向かいの席へ座った。
ほんのわずかな時間だったはずなのに、手のひらにはまだ彼の手の大きさが残っているような気がして、エレノアは無意識に指先を握る。
あまりにも淀みのない所作だった。
どのような家で育てば、あれほど自然にできるのだろう。
ふと浮かんだ疑問を、エレノアは口にはしなかった。
窓の外へ目を向けたアレンもまた何も言わなかったが、馬車が動き出す直前、一度だけ自分の手へ視線を落とした。
♢
屋敷を離れるにつれ、景色は少しずつ開けていった。
この土地へ来たときのアレンには、周囲の景色を眺める余裕などなかったはずだ。重傷を負い、意識も定かではない状態で屋敷へ運び込まれてから、ほとんどの時間を療養に費やしてきた。
窓の外を静かに眺める横顔を見て、エレノアは、彼がこうしてリーヴェの景色を見るのは初めてなのかもしれないと思った。
「何もないところでしょう?」
「そうでもない」
予想していなかった答えに、エレノアは少し嬉しくなる。
「あちらは小麦畑です。その向こうには豆を作っている畑があります。もう少し暖かくなると、一面がもっと緑になるんですよ」
アレンも彼女の指先を追うように窓の外へ目を向けた。
「去年の収穫は?」
「小麦はあまりよくありませんでした。雨が少なかったので。ただ、今年は今のところ順調みたいです」
「橋が使えるようになったなら、収穫後の運搬も楽になるな」
「そうなんです。川向こうの村から市場へ運ぶには、あの橋が一番近いので」
橋の補修について話したときもそうだった。
アレンはただ相槌を打つだけではなく、こちらが話したことを覚えている。自分には関係のない土地の話なのに、どこを直せば何が変わるのかまで、ごく自然に考えているようだった。
「アレン様は、こういうことにお詳しいんですね」
「そうか?」
「以前も橋の幅や荷馬車のことを気にしていらしたでしょう。こういうことがお好きなんですか?」
ほんのわずかに間が空いたあと、アレンは窓の外へ視線を戻した。
「旅をしていれば、自然と目に入る」
「なるほど」
少しだけ腑に落ちない気もしたが、エレノアはそれ以上考えず、次に見えてきた畑について話し始めた。
アレンはそんな彼女を一度だけ見たあと、再び窓の外へ視線を戻した。
馬車が村へ近づくにつれ、道を行き交う人の姿が増えていった。畑仕事を終えて戻る者や荷車を引く者が、馬車に気づいて道の端へ寄る。
やがて窓越しにエレノアの姿を見つけた一人の女性が、ぱっと顔を明るくした。
「エレノアお嬢様!」
御者が馬車を止める。
「こんにちは、アンナさん」
エレノアが窓を開けると、女性は手にしていた籠を抱え直しながら近づいてきた。
「先日はありがとうございました。橋が直ってから、本当に助かっておりますよ」
「それならよかったです。荷車でも問題なく渡れていますか?」
「ええ。前よりずっと安心です。主人も喜んでおりました」
「よかった。もし何か気になるところがあったら、遠慮なく父に伝えてくださいね」
女性は何度も頷き、それから馬車の奥へ何気なく目を向けた。
「あら、お客様でしたか」
「はい。父のお客様なんです。今日は橋をご覧になりたいと仰ったので」
それ以上の説明はせず、女性も深く尋ねることはなかった。しばらく他愛のない話を交わしたあと、「それでは、ごゆっくり」と頭を下げて離れていく。
馬車が再び動き始めても、アレンはしばらく女性が去った方を見ていた。
「知り合いか?」
「村に住んでいる方です。ご主人が橋の補修を手伝ってくださったんですよ」
「名前まで覚えているのか」
「もちろんです。小さい頃から知っていますから」
エレノアにとっては何でもないことらしく、そう答えると、すぐに窓の外へ視線を戻した。
アレンが知っているのは、屋敷の中にいる彼女ばかりだった。毎日のように客間へ顔を出し、頼んでもいないのに世話を焼き、よく笑い、ときには驚くほどはっきりと物を言う。
けれど、先ほど村の女と話していた姿は少し違った。親しげに言葉を交わしながらも相手の話をきちんと聞き、橋のことも村の暮らしも、自分に関わることとして受け止めている。
屋敷の中にいるだけでは、知らなかった一面だった。
そう思いながら横顔を眺めていると、視線に気づいたのか、エレノアがこちらを向いた。
「どうかしました?」
「いや」
短く答えると、エレノアは不思議そうにしたものの、すぐに前方へ目を向けた。
「あ、もうすぐ見えてきますよ」
その声には、隠しきれない弾みがあった。
♢
橋の近くで馬車を降りると、川から吹いてくる風がエレノアの髪を揺らした。
補修を終えた橋は、以前よりもしっかりとした姿で川の両岸をつないでいる。新しく取り替えた木材にはまだ明るい色が残り、古い部分との違いが遠目にも分かった。
「こちらです」
エレノアは少し得意げに橋を示した。
「どうですか?」
「どう、と言われてもな」
「ずっと気にしてくださっていたでしょう?」
「ああ」
アレンは橋へ近づくと、補強された欄干や足元へ視線を向けた。
「思っていたより幅があるな」
「荷馬車が通りますから。ただ、二台がすれ違うのは難しいです」
「増水したときは?」
「去年はここまで水が上がりました」
エレノアが橋脚の一部を指さすと、アレンは少し身を屈めるようにして確認した。
「なら、今回補強したのは正解だな。次に同じくらい増えても、前よりは持つだろう」
「やっぱりお詳しいじゃないですか」
少し得意そうに言うと、アレンは「そうか?」とだけ返して橋の先へ歩いていく。
エレノアもその隣へ並んだが、しばらくして彼の歩調が思ったより速いことに気づいた。
「アレン様。先生から、長く歩かないようにと言われたばかりでしょう」
「橋を渡るくらいなら問題ない」
「その台詞、今度先生の前でも仰ってくださいね」
アレンは答えなかった。
けれど、それまでより少しだけ歩調が緩んだことに気づき、エレノアは何も言わずに笑った。
橋の中央まで来ると、視界が大きく開けた。
川面には春の日差しが反射し、その向こうには村の家々が並んでいる。少し離れた場所では水車がゆっくりと回り、さらに先にはなだらかな丘が見えた。
二人はしばらく何も言わず、並んでその景色を眺める。
川を渡る風はまだ少し冷たかったが、真冬の刺すような冷たさとは違う。水の流れる音に混じって、遠くから水車の回る音が聞こえてくる。
「あれが、この前お話しした水車です」
やがてエレノアが指さすと、アレンもそちらへ視線を向けた。
「あれか」
「今日はここまでですけれど、次は近くまで行けるかもしれませんね。その頃には、もう少し歩けるようになっているでしょうし」
その向こうに見える丘にも、もう少し暖かくなれば白い花が咲く。子どもの頃にはよくマルタに連れていってもらった場所で、頂上まで登れば領地の大部分を見渡すことができた。
そんな話をしているうちに、橋を見せられれば満足すると思っていたはずなのに、次々と見せたい場所が浮かんでくる。
「そんなに一度に話されても覚えきれない」
「では、ひとつずつご案内します」
当然のように答えたエレノアは、そこで少し笑った。
「そのためにも、早く元気になってくださいね」
水車も、丘も、その先の市場も。エレノアの口からは、まだ見せたい場所が次々と出てくる。
アレンはそれを聞きながら、いつの間にか彼女が話す景色を思い浮かべていた。
「……努力しよう」
「そこは『分かった』ではないんですね」
「傷が治る速さまで命令されても困る」
「それはそうですね」
素直に認めて笑うエレノアにつられたのか、アレンの口元にもほんのわずかに笑みが浮かんだ。
初めて会った頃には、こんな表情をする人だとは思わなかった。
いつも険しい顔をして、必要なこと以外はほとんど話さず、何を考えているのかも分からない。それが今では、不機嫌そうに眉を寄せる顔も、呆れたように息を吐く癖も、こうしてわずかに笑う瞬間も知っている。
それでも今日、まだ知らなかったアレンをいくつも見つけた。
何気なく差し出された手も、領地のことを尋ねる鋭い視点も、時折見せる隙のない立ち居振る舞いも、屋敷の中だけでは気づかなかったものばかりだった。
知っているつもりでいても、知らないことの方がずっと多いのだろう。
エレノアは隣に立つアレンを見上げたあと、何も言わず、もう一度川の向こうへ視線を戻した。
♢
帰る頃には、日が少し傾き始めていた。
馬車の前まで戻ると、御者が扉を開けるのとほとんど同時に、隣から手が差し出された。
今度のエレノアは驚かなかった。
行きとは違い、迷うことなくその手に自分の手を重ねる。アレンも何も言わず、彼女が馬車へ乗り込むまで静かに支えた。
それだけのことが、行きよりもずっと自然に思えた。
アレンの視線が、重ねられた二人の手へほんの一瞬だけ落ちる。
けれど、エレノアは気づかなかった。
帰りの馬車では、行きよりも会話が少なかった。
しばらく窓の外を眺めていたエレノアは、向かいに座るアレンが目を閉じていることに気づいた。顔色が悪いわけではないものの、久しぶりに屋敷の外へ出て、いつもより長く身体を動かしたのだから、多少疲れるのは当然なのだろう。
「……少し、歩きすぎましたか?」
声を落として尋ねると、アレンは目を開けて首を横に振った。
「いや。久しぶりに外へ出たからだ。屋敷の中を歩くのとは違う」
「そうですよね。帰ったら、ゆっくり休んでくださいね」
「ああ」
それ以上は言わず、エレノアも座席へ身体を預けた。
馬車の揺れに身を任せながら窓の外を眺めていると、行きに見た畑や村の家々が、今度は反対方向へゆっくりと流れていく。
「今日は、どうでしたか?」
何気なく尋ねると、少し間を置いて返事があった。
「悪くなかった」
「それなら、よかったです」
エレノアは満足して、また窓の外へ目を向けた。
屋敷が近づくにつれ、冬を越えた木々の淡い緑が見えてくる。
次は水車へ行こう。その頃には、丘にも花が咲き始めているかもしれない。
そんなことを考えているうちに、エレノアの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
これから先の予定を思い描くとき、その景色の中には、いつの間にか当たり前のようにアレンがいた。




