07
橋の修繕が終わったという知らせが届いたのは、それからしばらく経った日のことだった。
予定より遅れていた木材は、七年前の記録を参考に近隣の村から一部を調達することで間に合わせることができた。残りの資材も数日遅れで無事に届き、心配していた雪もそれ以上ひどくはならなかったらしい。
昼前、父からその知らせを聞いたエレノアは、午後には橋を見に行くことにした。工事を任せていた職人への礼も伝えたかったし、春になる前に一度、自分の目で確かめておきたかった。
玄関へ向かう途中、ちょうど廊下の向こうからアレンが歩いてくる。
少し前まで手放せなかった杖は、今では屋敷の中なら使わずに歩けることも増えていた。まだ歩みはゆっくりとしているものの、最初に廊下へ出た頃と比べれば随分しっかりしている。こうして廊下ですれ違うことも、最近では珍しくなくなっていた。
「どこかへ行くのか」
外套を持っていたからだろう。すれ違う前に、アレンの方から声をかけてきた。
「橋を見に行くんです。修繕が終わったそうなので」
「終わったのか」
「はい。昨日、最後の作業が終わったそうです」
何度も話題にしていた橋がようやく直ったのが嬉しくて、エレノアの声も自然と明るくなる。木材の到着が遅れたと聞いたときには、春までに間に合わないのではないかと心配したが、これでひとまず安心できそうだった。
「前に探した記録も役に立ったんですよ。近くの村から木材を分けてもらえて、遅れていた分もそのあと無事に届きました。これで春になって川の水が増えても大丈夫だと思います」
「そうか。よかったな」
その一言が思いのほか素直に聞こえて、エレノアは一瞬だけアレンを見た。彼も何度か橋のことを尋ねていたから、気にしてくれていたのだろう。
「はい」
答えながら笑うと、アレンはなぜか少しだけ視線を逸らした。
玄関ではリナが待っているはずだった。あまり待たせても悪いと思い、エレノアは外套を抱え直す。
「では、行ってきます」
「ああ」
数歩進んだところで、エレノアはふと思いついて振り返った。
「アレン様にも、お見せしたかったです」
アレンが足を止める。
「橋を?」
「はい。ずっとお話ししていたでしょう? 古い記録まで一緒に探していただきましたし」
「私はほとんど何もしていない」
「またそれをおっしゃるんですか?」
エレノアは思わず笑った。確かに記録を見つけたのも、そこから方法を決めたのも自分たちだが、アレンも一緒になって帳面を探し、話を聞いてくれた。エレノアにとっては、それだけで十分だった。
「でも、今はまだ遠くまで歩けませんものね」
橋までは馬車で行けるとはいえ、周辺を歩くことを考えれば、今のアレンにはまだ早い。医師からも屋敷の庭を越えて出歩く許可は出ていなかった。
残念ではあるが仕方がない。橋は逃げるわけではないのだから、いつか機会があれば見てもらえばいい。そう考えていたところで、アレンが口を開いた。
「傷が治ったら、案内してくれるか」
エレノアは目を瞬いた。
「橋へ、ですか?」
「ああ」
アレンはごく普通のことを尋ねるような顔をしていたが、エレノアには少し意外だった。これまでの彼は、何かを勧めても興味がなければはっきり断るし、自分からどこかへ行きたいと言うこともほとんどなかったからだ。
「もちろんです」
答えたあとで、橋だけでは少し味気ない気がした。せっかく屋敷の外まで出られるようになったのなら、ほかにも見てもらいたい場所はいくつもある。
「せっかくなら、その先までご案内しますよ。橋を渡ったところから少し行くと、小さな丘があるんです。春になると花がたくさん咲いて、とても綺麗なんですよ」
以前、廊下の窓から領地を眺めながら話した場所だ。アレンも思い出したらしく、わずかに目を細めた。
「前に話していた丘か」
「はい。もう少し暖かくなれば咲き始めます。橋の近くにも市場がありますし、時間があれば村にも寄れますよ」
「ずいぶん増えたな」
「せっかくご案内するんですから」
橋だけ見て帰るつもりはない。市場なら領地で採れたものが並んでいるし、村へ行けばこの辺りで暮らす人たちの様子も分かる。どこから案内しようかと考え始めると、ほかにもいくつか候補が浮かんできた。
アレンはそんなエレノアをしばらく見ていたが、やがて小さく息をついた。
「……そうだな、案内してくれ」
「本当ですか?」
「ああ。君の好きな場所を、見せてくれればいい」
あまりに自然に言われて、エレノアはすぐに返事ができなかった。
アレンは自分から何かを望むことが少ない。食事も本も、何を持っていっても大抵は「何でもいい」と言うし、行きたい場所があると聞いたこともなかった。
その彼が、傷が治ったあとの話をしている。しかも、自分に案内してほしいと言っている。
「……では、たくさん考えておきますね」
ようやくそう答えると、アレンの口元がわずかに緩んだ。
「ほどほどにしてくれ」
「もう遅いです。今ので、いくつか思いつきました」
「橋だけでもよかったんだが」
「せっかくですから」
「それはさっき聞いた」
そんなやり取りをしていると、玄関の方からリナが顔を覗かせた。
「お嬢様、そろそろ出ないと帰りが遅くなりますよ」
「あ、ごめんなさい。今行くわ」
返事をしてから、エレノアはもう一度アレンを見る。ほんの少し話すつもりだったのに、気づけば随分とリナを待たせてしまった。
「では、今度こそ行ってきます」
「ああ。気をつけて」
その言葉に、また少しだけ足が止まりそうになった。以前のアレンなら、ただ「ああ」と返して終わっていた気がする。けれど、それを口に出せば本人はきっと否定するだろう。
「はい。行ってきます」
今度はそのまま玄関へ向かった。
◇
橋へ着いたとき、最初にエレノアの目に入ったのは新しくなった欄干だった。
傷んでいた木材はきれいに取り替えられ、補強された箇所も思っていた以上にしっかりしている。馬車を降りて近づくと、まだ新しい木の色が残っていて、古い部分との違いがよく分かった。
「お嬢様、足元にお気をつけくださいね」
後ろからリナに言われ、エレノアは「分かってるわ」と答えながら橋へ上がった。
工事を任せていた職人から作業の説明を聞き、欄干や橋板を一つずつ確認する。途中で木材が足りなくなったときはどうなることかと思ったが、七年前と同じ方法が使えたことで、予定から大きく遅れずに済んだらしい。
話している間にも、向こうから荷車が一台やってきた。御者がエレノアたちに気づいて軽く頭を下げ、そのまま橋を渡っていく。車輪の音を響かせながら荷車が無事に反対側へ着くのを見て、エレノアはようやく肩の力を抜いた。
橋は見栄えのためにあるものではない。村から市場へ向かう者も、荷を運ぶ者も、皆が毎日のようにここを通る。きちんと直って、またいつも通り使われている。その様子を見られただけで、わざわざ来た甲斐があったと思えた。
「よかったですね、お嬢様」
隣でリナが言った。
「うん。本当によかった」
そのあと職人たちへ改めて礼を伝え、せっかくここまで来たのだからと近くの村にも少しだけ立ち寄った。
◇
夕方、エレノアが屋敷へ戻る頃には、空が薄い橙色に染まり始めていた。
予定より少し遅くなったものの、橋の状態を自分の目で確認できたことも、村の様子を見られたことも嬉しかった。外套を脱いで使用人へ預けながら、エレノアはリナと今日のことを話していた。
「春までに終わってよかったですね」
「本当に。あとは雪解けの頃に一度見てもらえば大丈夫だと思う」
「お嬢様、ずっと嬉しそうでしたものね」
「だって、ずっと気になっていたんだもの」
話しながら廊下へ入ったところで、向こうからマルタが歩いてきた。
「お帰りなさいませ。橋はいかがでしたか?」
「綺麗に直っていたわ。職人さんたちにもお礼を伝えてきた」
「それは何よりでございます」
マルタは安心したように笑い、それから思い出したように続けた。
「そういえば、アレン様も気にしていらっしゃいましたよ。お嬢様はまだ戻られないのか、と」
「私が?」
「ええ。今日は橋を見に行かれることはご存じでしたので、お戻りが少し遅れることをお伝えしておきました」
エレノアは少し意外に思いながらも、「そう」と頷いた。ここ数日、何度も橋の話をしていたのだから、アレンが結果を気にすること自体は不思議ではない。
「夕食のときにでも、どうだったかお話ししようかな」
「それがよろしいかと」
答えたマルタの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……何、その顔」
「何も申しておりませんよ」
「今、笑ったでしょう」
「気のせいではございませんか?」
明らかに気のせいではない。けれどマルタは涼しい顔をしたまま、夕食の準備を見てくると言って歩いていってしまった。
エレノアがその背中を見送っていると、隣から小さく笑う声がした。
「リナまで何?」
「何でもありません」
「二人とも絶対何か思ってるでしょう」
「私は何も言ってませんよ」
そう言いながら笑っているのだから、まったく説得力がない。エレノアがじっと見ると、リナは「着替えのお手伝いをしますね」と話を切り上げ、先に階段へ向かってしまった。
「もう……」
仕方なくそのあとを追いながら、エレノアは朝の会話を思い出した。
───傷が治ったら、案内してくれるか。
そのときは何気なく答えたけれど、アレンと屋敷の外へ出ることを考えると、どこへ連れていこうかと
次々に思いつく。橋を渡って、市場を見て、その先の丘へ行くのもいい。春になれば、あの辺りには花も
咲き始める。
階段を上がりながら、エレノアは前を歩くリナに声をかけた。
「ねえ、リナ。丘の花って、今年はいつ頃咲くと思う?」
「急にどうしたんですか?」
振り返ったリナに尋ねられ、エレノアは少し考えてから、「ちょっと気になっただけ」と答えた。
「ふうん」
その返事とともに、リナの口元が楽しそうに緩む。
「……何よ」
「何でもありません」
そう言いながら笑っているのだから、何でもないはずがない。エレノアは少しむっとしてリナの横を追い越したものの、頭の中ではもう、春になった丘に咲く花のことを考えていた。




