06
翌朝、エレノアは父の書斎で橋の修繕に関する書類を広げていた。
南の村で確認した倉庫の件は昨日のうちに片づいたものの、今度は橋の工事を任せている職人から、木材の到着が遅れているとの知らせが届いたのだ。雪の影響で北から来る荷車が予定より遅れているらしい。
「三日ほどなら、工事そのものには影響しないだろう」
父が手紙を読みながら言う。
「でも、また雪が降ったらもっと遅れませんか?」
「その可能性はあるな」
エレノアは机の上に置かれた予定表へ目を落とした。春先には川の水量が増えるため、できればその前に修繕を終えておきたい。父も同じ考えらしく、しばらく予定表を眺めてから手紙を机へ戻した。
「今日のうちに職人さんへ返事を出しますか?」
「ああ。こちらでも木材を用意できないか確認してみよう。エレノアは前回の記録を探してくれるか」
「分かりました」
書斎を出たエレノアは、そのまま資料を保管している部屋へ向かった。以前にも一度探した記憶があるので、どの棚にあるかはおおよそ分かっている。ところが、目当ての年の記録だけが見当たらず、一段ずつ確認して別の棚まで探すことになった。
しばらくして廊下から足音が聞こえ、開けたままにしていた扉の前で止まった。
「何をしている」
振り返ると、アレンが立っていた。
「橋の古い記録を探しているんです」
「また橋か」
「また橋です」
思わず同じ調子で返すと、アレンが部屋の中を覗いた。
「昨日、修繕はまだ終わっていないと言っていたな」
「はい。木材の到着が遅れているらしくて、前に同じようなことがなかったか調べているんです」
「いつの記録だ」
「七年前です。その年も雪が多かったと聞いたので」
アレンは棚に並ぶ帳面を見渡した。
「ここにはないのか」
「あるはずなんですけれど、見つからなくて。別の場所に移したのかもしれません」
エレノアも改めて部屋の中を見回した。普段あまり使われていない古い書類箱がいくつか積まれており、そのうち一つに見覚えのある年号が書かれている。
「あそこかもしれません」
箱はエレノアの頭より少し高い棚に置かれていた。背伸びをすれば届きそうで、エレノアはつま先立ちになって腕を伸ばす。
「やめておけ」
「取れそうですよ」
「箱ごと落とすぞ」
「大丈夫です。あと少しで――」
「昨日、木箱で手を擦ったばかりだろう」
そう言われて、エレノアは伸ばしていた右手を止めた。傷にはまだ薄い布が巻かれている。
「……それとこれとは別です」
「同じだ」
「違います」
「下がっていろ」
有無を言わせない口調に、エレノアは仕方なく棚の前を譲った。アレンは杖を壁際へ立てかけると、棚の上へ手を伸ばす。背の高い彼なら簡単に届くので、そのまま箱を下ろすのかと思ったが、少し手前へずらしたところで、近くを通りかかった使用人を呼び止めた。
「これを下ろしてくれ」
「はい」
使用人が箱を受け取って床へ置くと、アレンは何事もなかったように杖を取り直した。その様子を見ていたエレノアは、つい笑ってしまう。
「何だ」
「いえ。てっきり、ご自分で下ろすのかと思いました」
「医師に見つかれば面倒だからな」
「先生のおっしゃること、ちゃんと聞くようになったんですね」
「……君まで同じことを言うのか」
「良いことだと思いますよ」
エレノアは笑いながら箱の蓋を開けた。中には古い帳面が年代順に重ねられており、上から確認していくと、探していた年号は思ったよりすぐに見つかった。
「ありました」
帳面を取り出した途端、間に挟まっていた紙が何枚か床へ滑り落ちた。二人がほぼ同時に屈みかけたので、今度はエレノアが先にアレンを止める。
「アレン様はそのままでいてください」
「拾うくらいできる」
「先生のおっしゃることを聞くようになったばかりでしょう?」
アレンが黙った。さっき自分が言われた分を少しだけ返せた気がして、エレノアは床の紙を拾いながら笑いをこらえる。
「……何だ」
「いえ、何も」
「笑っているだろう」
「少しだけです」
最後の一枚を拾って立ち上がると、アレンは不満そうではあったものの、それ以上は何も言わなかった。
帳面を机の上で開き、七年前の記録を探す。しばらくページをめくっていると、木材の搬入について書かれた箇所が見つかった。
「ありました。やっぱり同じように遅れています」
「どうしたんだ、そのときは」
「別の村から先に使える木材を運んで、足りない分はあとから届いたものを使ったみたいです」
「近くで調達できるなら、その方が早いだろう」
「ええ。ただ、今も同じ量が用意できるかは分からないので、父に相談してみます」
エレノアが必要な箇所を書き留めている間も、アレンはその場を離れず、開かれた帳面を眺めていた。やがて視線をエレノアへ移し、静かに尋ねる。
「君はこういうことを、いつもしているのか」
「こういうこと?」
「領地の仕事だ」
「ああ。全部ではありませんよ。父が任せてくれることだけです。私では判断できないことも多いですし」
「それでも随分任されている」
「そうでしょうか」
「橋の木材を心配して古い帳面まで探す令嬢は、そう多くないだろう」
言われてみれば、そうなのかもしれない。けれどエレノアにとっては、昔から父の仕事をそばで見て、できることを手伝ってきただけだった。特別なことをしているという感覚はない。
「好きなんです、この領地が」
口にしてから、少し大げさだったかと思ったが、アレンは笑わなかった。
「そうか」
「ここで暮らしている人たちも好きですし、村へ行くのも好きです。橋が直れば皆が困らなくなるので、それなら私にもできることがあれば、と思っているだけです」
アレンはしばらく何も言わなかった。けれど、興味がないわけではないことをエレノアはもう知っている。彼はもともと口数が多い方ではないが、こちらが話したことを適当に聞き流すことはなく、時折こうして思いがけないことを尋ねてくる。
初めの頃は何を考えているのか分からない人だと思っていたのに、最近ではアレンと話していると、つい余計なことまで話したくなるようになっていた。
「でも、私も領地のことばかり考えているわけではありませんよ」
「というと?」
「今年は父と王都へ行く予定なんです。初めてなので、楽しみにしているんですよ」
「王都?」
初めて聞いたらしく、アレンがこちらを見た。
「行ったことはないのか」
「ありません。一度も」
「意外だな」
「何度か行く話はあったんですけれど、そのたびに都合が合わなかったんです。リーヴェからは遠いですし、母が病気だった頃は長く家を空けることもできませんでしたから。そうしているうちに、結局一度も行かないままで」
「そうだったのか」
王都のことは、これまで話に聞いたり本で読んだりするばかりだった。それだけに、初めて自分の目で見られると思うと楽しみで、行ってみたい場所はいくつもある。
「大きな舞踏会も見てみたいですし、お店もたくさんあるんですよね。リナはドレスを見るのを楽しみにしています」
「君は?」
「私は大きな書店に行ってみたいです」
アレンがわずかに眉を上げた。
「書店?」
「そんな顔をしなくても。舞踏会も楽しみですよ。でも、こちらでは手に入らない本もたくさんあるでしょう?」
「あるだろうな」
「やっぱり」
その返事に嬉しくなり、エレノアはアレンの方へ少し身を乗り出した。
「アレン様は王都へ行かれたことがあるんですか?」
問いかけてから、しまったと思った。彼は自分のことをほとんど話さない。どこから来たのかさえ聞かずにいたのに、つい尋ねてしまった。
「すみません。答えたくなければ――」
「ある」
予想していなかった返事に、エレノアは目を瞬いた。
「何度も?」
「ああ」
「では、大きな書店もご存じですか?」
「いくつかは」
「本当ですか? どこが一番大きいんでしょう。リナと調べようと言っていたんですけれど、こちらでは王都の店のことまではよく分からなくて」
先ほどまで橋の帳面を見ていたことも忘れ、エレノアはすっかりアレンの方へ向き直っていた。
「中央広場から東へ二本入った通りにある店が大きい。専門書も多い」
「専門書も?」
「ああ。二階まで全部本だ」
「二階まで?」
思わず聞き返すと、アレンがわずかに笑った。
「そんなに珍しいか」
「珍しいです。こちらの書店は一階しかありませんもの」
どんな場所なのだろう。想像するだけで楽しくなり、ほかにはどんな店があるのか聞こうとしたところで、エレノアはふと思いついて笑った。
「では、もし私が王都へ行けたら、アレン様が街を案内してくださいますか?」
もちろん冗談だった。王都に詳しいらしい彼を少しからかうつもりで尋ねただけで、本当に案内してもらえるとは思っていない。
けれど、アレンは少しも困った顔をしなかった。
「いいだろう」
「……本当に?」
思わず聞き返したエレノアを見て、今度はアレンが怪訝そうな顔をする。
「君が言ったんだろう」
「そうですけれど……冗談のつもりでした」
「なら、断った方がよかったか?」
「いいえ」
慌てて首を振ってから、自分でもおかしくなって笑ってしまった。
「では、書店もお願いしますね」
「ああ」
ほんの冗談から始まった話なのに、約束になってしまった。王都へ行くことはもともと楽しみにしていたはずなのに、アレンが案内してくれるかもしれないと思うと、まだ先の予定が少しだけ待ち遠しく感じられる。
その理由までは深く考えないまま、エレノアはもう一度、王都の大きな書店を思い浮かべた。
そのとき、廊下から父に呼ばれた。
「あ、いけない。これを持っていくところでした」
エレノアは帳面と書き留めた紙をまとめて立ち上がった。
「ありがとうございました。アレン様のおかげで見つかりました」
「私は何もしていない」
「箱を見つけるのを手伝ってくださったでしょう?」
「君が先に見つけた」
「では、一緒に見つけたということにしておきます」
アレンは否定しなかった。
帳面を抱えて扉へ向かったエレノアは、部屋を出る前に振り返る。
「王都のお話、また聞かせてくださいね」
「ああ」
「約束ですよ」
今度こそ父の書斎へ向かおうとしたところで、ふと足を止めた。
「そういえば、アレン様」
「何だ」
「今日はどうして、この部屋に?」
何かを探しに来たのだと思っていたが、考えてみればアレンは部屋へ入ってから一度も棚を見ていない。
アレンはわずかに間を置いた。
「……通りかかっただけだ」
「そうでしたか」
エレノアはそれ以上気に留めず、「では、また」と部屋を出た。
一人残ったアレンは、開いたままの書類箱へ目を落とした。本当に通りかかっただけで、ここに用事があったわけではない。
ただ、扉の向こうにエレノアの姿が見えたから、足を止めた。
それだけだった。




