05
天気のいい日は、昼前に庭へ出るのがアレンの日課になりつつあった。
まだ長く歩くことは許されていなかったが、屋敷の中では杖を使わずに歩けることも増えている。医師からは一人で無理をしないよう念を押されていたものの、客間からほとんど出られなかった頃に比べれば、
ずいぶん自由に動けるようになった。
その日も朝の診察を終えると、アレンは玄関から庭へ出た。朝からよく晴れていたため、通路の端に残っていた雪が少しずつ解け、軒先から落ちる雫が陽の光を受けている。
以前エレノアと歩いた場所まで来ると、トーマスが植え込みの手入れをしていた。アレンに気づいたトーマスは作業の手を止め、軽く頭を下げた。
「今日は暖かくてよかったですな」
「ああ」
「このまま雪が減ってくれれば、仕事もしやすくなるんですがね」
トーマスはそう言いながら、切り落とした枝をまとめていく。アレンは少し離れたところからその様子を
眺めていたが、ふと周囲へ目を向けた。
前にここへ来たときは、エレノアもいた。
別に約束をしていたわけではないし、彼女には彼女の用事がある。庭にいないことの方が自然なのだが、そのまま歩き出そうとしたところで背後からトーマスの声が飛んできた。
「お嬢様なら、今日は朝から南の村ですよ」
アレンは足を止めた。
「……聞いていないが」
「そうでしたか」
トーマスは何事もなかったように枝へ鋏を入れる。なぜわざわざ教えられたのか分からないまま、アレンもそれ以上は何も言わず、庭の奥へ向かった。
◇
エレノアが屋敷へ戻ったのは、昼をずいぶん過ぎてからだった。
父に頼まれて村の倉庫を確認しに行ったものの、帳簿と実際の数が合わず、思っていたより時間がかかってしまった。ようやく馬車を降りた頃には空腹で、リナと二人、まず何か食べようと話しながら玄関へ入る。
「お嬢様、手にお傷が」
リナに言われて見れば、右手の甲に細い傷ができていた。倉庫で古い木箱を動かしたときに擦ったらしい。
「これくらい平気よ」
「またそういうこと言って。マルタさんに見つかったら私まで怒られます」
「どうしてリナまで?」
「私が一緒にいたからです」
もっともらしく言われて、エレノアは笑った。
「じゃあ、あとで洗っておくわ」
「あとでじゃなくて今です」
「お腹が空いてるの」
そんなことを言い合いながら廊下を進んでいると、向こうからアレンが歩いてきた。杖は持っているものの、以前のように一歩ごとに体重を預けている様子はない。
「アレン様」
声をかけると、アレンもこちらに気づいて足を止めた。
「戻ったのか」
「はい。先ほど」
答えてから、エレノアは少しだけ首を傾げた。
「私が出かけていたこと、ご存じだったんですか?」
「トマスから聞いた」
「そうだったんですね」
それなら不思議ではない。エレノアがそのまま通り過ぎようとすると、アレンの視線が手元へ落ちた。
「手をどうした」
アレンの視線を追って、エレノアは右手を持ち上げた。
「ああ、倉庫で少し擦っただけです。大した傷ではありません」
「血が出ている」
「もう止まっていますよ」
「洗ったのか」
「これからです」
「ちゃんと洗っておけ」
思ってもいなかった言葉に、エレノアは少しだけ目を瞬いた。最初に会った頃なら、他人の手の傷など気にもしなさそうな人だと思っていたけれど、それは自分が勝手に抱いていた印象にすぎない。考えてみれば、彼がどんな人なのか、まだほとんど知らないのだ。
「……そうします」
隣でリナが大きく頷いた。
「ほら、お嬢様。アレン様もそうおっしゃってます」
「リナはどちらの味方なの?」
「傷を洗う方の味方です」
「いつもこうなのか」
アレンがわずかに眉を寄せると、リナは待ってましたとばかりに頷いた。
「そうなんです。お嬢様、自分のことになると結構適当なんですよ」
「リナ」
「本当のことじゃないですか」
エレノアが止めても、リナは悪びれる様子がない。アレンは二人を見比べてから、もう一度エレノアの手に目をやった。
「早く行け」
「はいはい」
「返事は一度でいい」
「……はい」
思わず言い直すと、リナが隣で笑いをこらえている。その顔を見たらエレノアまで笑いそうになったが、アレンだけは真面目な顔をしたままだった。
「では、今度こそ洗ってきますね」
「ああ」
アレンと別れてリナと廊下を進み、角を曲がったところで、隣から小さな声が聞こえてきた。
「アレン様、最初より話しやすくなりましたね」
「そうね」
それはエレノアも感じていた。初めて会った日は、何を尋ねても壁に向かって話しているような人で、ずいぶん無愛想な人だと思ったものだ。それが今ではこちらの話を聞くだけでなく、ときには自分から尋ねてくる。
「まだ少し怖いですけど」
「そう?」
「お嬢様は慣れすぎなんですよ」
そう言われると、確かにそうなのかもしれない。エレノアは右手の傷に目を落としながら、「そうかもしれないわね」と笑った。
◇
傷を洗い、遅い昼食を済ませたあと、エレノアは父の書斎へ向かった。
南の村で確認してきた帳簿を渡し、倉庫の在庫について報告する。数が合わなかった原因は記入漏れだったようで、父は書類を確認しながら「明日こちらでも見ておこう」と頷いた。
用事を終えて書斎を出ると、窓の外はもう夕方の色になり始めていた。自室へ戻ろうとしたところで、廊下の先にある小さな談話室の扉が開いているのが見える。
中にはアレンがいた。
窓際の椅子に座り、膝の上に本を開いている。声をかけずに通り過ぎようとしたが、先に向こうが顔を上げた。
「エレノア」
「はい?」
名前を呼ばれ、エレノアは扉の前で足を止めた。
「手は」
一瞬何のことか分からず、すぐに右手を見た。
「ちゃんと洗いましたよ」
小さな傷には薄い布が巻かれている。それを見せると、アレンは一度だけ頷いた。
「そうか」
「ご心配いただき、ありがとうございます」
「大した傷でなくてよかった」
思いがけず素直な言葉が返ってきて、エレノアは少し目を瞬いた。
「はい。もう痛くもありません」
そのまま立ち去るつもりだったエレノアは、彼の膝に開かれた本に見覚えがあることに気づいた。以前、客間へ運んだ中の一冊だ。
「まだ読んでくださっていたんですね」
「暇だからな」
「面白くありませんでした?」
「そうは言っていない」
「なら、よかったです」
エレノアは扉のそばに立ったまま、本の表紙を見る。領内の地形や古い街道についてまとめられた本で、物語のように気軽に読めるものではない。
「その本、橋のことも載っているんですよ」
「前に話していた橋か」
「はい。今の橋が造られる前のことも少しだけ書いてあります。昔は春になると川が増水して、向こう側の村へ渡れないこともあったそうです」
「今は?」
「大雨でもなければ大丈夫です。だから、あの橋はこの辺りではとても大事なんです」
話しながら、エレノアは以前アレンに橋の修繕記録を見せたことを思い出した。あのときは尋ねられたことに答えただけだったが、今は彼の方から本を読んでいる。
「アレン様、こういうお話がお好きなんですか?」
「嫌いではない」
「意外です」
「何がだ」
「もっと別の本を読まれるのかと思っていました」
「別の本とは?」
聞き返され、エレノアは困った。彼が普段何を読むのか知らないのだから、具体的に思い浮かぶものもない。
「……難しそうな本です」
「十分難しいだろう、これは」
「そうですけれど」
アレンの口元がわずかに緩んだように見えた。
見間違いかと思っているうちに、彼は本を閉じて机の上へ置く。
「橋の修繕は、もう終わったのか」
「まだです。雪が解ける頃までには終わる予定ですけれど、今年は少し遅れるかもしれません」
「そうか」
「終わったら、きっと父が見に行きます。私も一緒に行くつもりです」
アレンは少し考えるように黙ったあと、エレノアを見た。
「君も行くのか」
「もちろんです。最初から関わっていますから」
「……そうだったな」
エレノアはそこで、窓の外がさらに暗くなっていることに気づいた。
「そろそろ戻りますね。夕食の前に、まだ少しやることがあるので」
「ああ」
「では、また」
エレノアがそう告げると、アレンは閉じていた本を手にしたまま彼女を見た。
「明日も村へ行くのか」
「いいえ。明日は屋敷にいる予定ですけれど」
「そうか」
何か用事があるのかと思い、エレノアはしばらくその場で待ってみた。しかし、アレンはそれ以上何かを話す様子もなく、再び本へ手を伸ばしている。
「……何かありました?」
「いや」
「そうですか」
何のために明日の予定を聞かれたのか分からないまま、エレノアは少し不思議に思いつつ談話室をあとにした。




