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冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


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04



アレンが庭を歩く許可を得たのは、廊下の突き当たりまで歩いた日から、さらに十日ほど経った頃だった。


傷の痛みはまだ残っているものの、熱がぶり返すことはなくなり、短い距離であれば休まずに歩けるようになっていた。医師は診察を終えると、窓の外を見やった。


「今日は暖かいですし、少しなら外へ出てもよいでしょう。ただし、庭を一周しようなどとは考えないでください」


「……そこまで無茶はしない」


「そのお言葉を信じることにしましょう」


医師が淡々と返すと、傍らにいたエレノアが口元を押さえた。

アレンは二人を交互に見たが、反論はしなかった。


「痛みや息苦しさが出たら、すぐに戻ること。よろしいですな?」


「ああ」


医師が退出すると、エレノアは窓辺へ歩み寄った。


「今日は本当にいいお天気ですよ。庭師も朝から張り切っていました」


「庭師が?」


「はい。春の花を植える場所を決めるそうです」


アレンは窓の外に目を向けた。

庭には、冬の名残を残す木々と、芽吹き始めた草花が見える。数日前よりも緑が増えたように思えた。


「……少し、見てみるか」


「では、上着をお持ちしますね」


エレノアは嬉しそうにそう言って、椅子に掛けられた上着を手に取った。



     ◇



屋敷の外へ出ると、柔らかな日差しが二人を迎えた。


アレンは玄関先で足を止め、ゆっくりと息を吸った。室内とは違う、土と草の匂いがする。遠くからは、庭師が土を掘り返す音も聞こえていた。


「寒くはありませんか?」


「問題ない」


「それなら、あちらへ行きましょう。東屋があるんです」


エレノアが示したのは、庭の奥にある白い東屋だった。細い柱には蔓植物が絡み、屋根の下には腰を下ろせる場所が設けられている。


アレンは彼女と並んで歩き始めた。以前より足取りは安定していたが、エレノアは急がず、彼の歩調に合わせている。


道の脇には、小さな花の蕾がいくつも顔を出していた。


「これは?」


アレンが尋ねると、エレノアは足を止めた。


「春になると咲く花です。白や薄紫の花が咲くんですよ」


「名前は?」


「……あら」


彼女は困ったように笑った。


「名前を聞かれるとは思っていませんでした。毎年見ているのに、きちんと覚えていなくて」


「そうか」


「あとで庭師に聞いておきますね」


「そこまでしなくていい」


「私も知りたくなりましたから」


そう言って微笑むと、エレノアは再び歩き始めた。

東屋に辿り着く頃には、アレンの呼吸が少し速くなっていた。


「こちらで休みましょう」


エレノアが東屋の中へ案内すると、アレンは屋根の下に設けられた腰掛けに座った。彼女も少し離れた場所に腰を下ろす。


しばらく、二人は黙って庭を眺めていた。


蔓の葉が風に揺れ、足元の草が小さく波打つ。


戦場では、静けさが必ずしも安らぎを意味するわけではなかった。物音が途絶えたときほど、次に何が起こるか分からない。


けれど、この庭の静けさには、そうした緊張がない。

アレンは柱の向こうに広がる景色を眺め、ゆっくりと息を吐いた。


「……いい場所だな」


エレノアが隣で微笑んだ。


「私も、ここが好きです」



     ◇



「お嬢様!」


庭の向こうから声がした。


顔を上げると、作業着姿の年配の男がこちらへ歩いてくるところだった。手には小さな木箱を抱えている。


「トマス。どうしたの?」


「村から苗が届きましてね。今年は少し早く植えられそうです」


「まあ、よかった!」


エレノアは東屋を出て、木箱の中を覗き込んだ。

アレンも視線を向けると、そこには土のついた小さな苗がいくつも並んでいた。


「去年は雨が続いて、育てるのに苦労したでしょう?」


「ええ。今年こそ、立派に咲かせてみせますよ」


庭師は胸を張った。


エレノアは笑いながら頷き、苗の一つをそっと指さした。


「これは、丘にも咲く花かしら?」


「そうです。村の者が分けてくれましてね。お嬢様がお好きだと聞いて、ぜひ庭にも、と」


「そんな……。今度、お礼を伝えなくては」


庭師は嬉しそうに笑ったあと、東屋に座るアレンへ目を向けた。


「おや。こちらが、お嬢様がお世話をなさっているお客様ですかな」


「ええ。アレン様よ」


エレノアが紹介すると、庭師は帽子を取って頭を下げた。


「トマスと申します。お身体の具合はいかがですか?」


「……少しずつ良くなっている」


「それは何よりです。うちのお嬢様は、昔から怪我人を放っておけないお方ですからな」


「トマス!」


エレノアが慌てて声を上げると、庭師は愉快そうに笑った。


「いやいや、悪いことではありませんよ。昔から、誰かが怪我をしたと聞けば、真っ先に駆けつけるお方

でしたから」


「もう、そのお話は結構です」


彼女が頬を赤らめるのを見て、アレンはわずかに眉を上げた。


「……昔から?」


「ええ。子どもの頃など、庭で転んだ使用人に、自分のハンカチを全部渡してしまったこともありまして」


「トマス!」


今度こそエレノアが困り果てた顔をすると、庭師は声を立てて笑った。


「失礼しました。では、私は仕事に戻ります」


庭師が去っていくと、エレノアは東屋へ戻り、恥ずかしそうに俯いた。


「……余計なことばかり話すんですから」


「悪い話ではなかった」


「そうでしょうか」


「ああ」


アレンは庭師の背中を見送った。


あの男の口ぶりには、主人の娘に対する遠慮のなさがあった。それでいて、彼女を大切に思っていることも伝わってくる。


エレノアもまた、その親しさを当たり前のように受け入れていた。


「……長く仕えているのか?」


「トマスですか? はい。私が生まれる前からです」


「そうか」


「お庭のことなら、何でも知っているんですよ。私よりずっと」


彼女は先ほどの苗を思い出したのか、楽しそうに笑った。


「丘の花が咲く頃には、きっと庭も綺麗になりますね」


アレンは、木箱を抱えて遠ざかる庭師をもう一度見た。



     ◇



しばらくすると、屋敷の門の方から荷馬車の音が聞こえてきた。


アレンが目を向けると、門の前に一台の荷馬車が止まり、御者台から若い男が降りてくる。使用人と何か

話していた男は、やがて東屋にいるエレノアに気づくと、大きく手を振った。


「エレノア様!」


「あら、ルカ!」


エレノアが手を振り返すと、ルカは荷馬車から小さな包みを取り出し、そのまま庭へ駆け寄ってきた。


「母が、これをお届けするようにと」


「まあ、何かしら?」


「焼き菓子です。先日、妹の具合が悪かったときに薬を届けてくださったでしょう? そのお礼だそうです」


「そんな、お礼なんてよかったのに。妹さんはもう元気?」


「ええ。昨日から、外で遊びたがって困ってます」


「それなら、よかったわ」


ほっとしたように笑うエレノアへ包みを渡したところで、ルカは東屋にいるアレンの存在に気づいた。


「あ……お客様がいらしたんですね。失礼しました」


「構わない」


アレンが答えると、ルカは少し緊張した様子で背筋を伸ばした。


「では、俺はこれで。まだ配達が残っているので」


「気をつけてね。お母様にも、よろしく伝えて」


「はい!」


一礼したルカが足早に門へ戻っていく。その姿を見送ったエレノアは、受け取った包みを大切そうに抱えた。


「村のパン屋さんの焼き菓子なんです。とても美味しいんですよ」


「……村の者とは、昔から親しいのか?」


「はい。小さな頃から知っている方も多いですから。ルカも、昔はよく丘で一緒に遊んだんですよ。今で

はすっかり立派になって、配達のお仕事を手伝っているんです」


「そうか」


門の向こうへ遠ざかっていく荷馬車を眺めながら、アレンはこの屋敷へ来てからのことを思い返していた。


使用人も、庭師も、今の村の若者も、誰もが当たり前のようにエレノアへ声をかける。そして彼女もまた、一人ひとりの名前だけでなく、その家族のことまで覚えている。


「……君は、忙しいのだな」


思わず口にすると、エレノアは不思議そうに彼を見た。


「私が、ですか?」


「ああ。屋敷のことだけではないらしい」


彼女は少し考え、それから首を傾げた。


「忙しいというほどではありませんよ。皆さんが、いろいろと教えてくださるだけです」


そう言って、包みを大切そうに抱え直した。


アレンはそれ以上何も言わなかった。


ただ、彼女がこの土地の人々と築いてきた時間の長さを、少しだけ知った気がした。



     ◇



客間へ戻る頃には、アレンの足取りも重くなっていた。

エ

レノアは彼の様子を見ながら歩調を緩め、途中で一度、休憩を挟んだ。


「今日は、少し長く外にいすぎたかもしれませんね」


「……そうだな」


「でも、いい気分転換になりましたか?」


「ああ」


短い返事だったが、エレノアは嬉しそうに微笑んだ。


部屋へ戻ると、彼女は先ほどの包みを卓上に置いた。


「こちら、あとでお茶と一緒にお持ちしますね。先生に確認してからになりますけれど」


「分かった」


「では、少しお休みください」


エレノアが扉へ向かうと、アレンは窓の外へ目を向けた。


庭では、トマスが先ほどの苗を植えている。

門の向こうには、ルカの荷馬車が走っていった道が続いていた。


「……エレノア」


呼び止めると、彼女が振り返った。


「はい?」


「君は、ここを離れたいと思ったことはないのか?」


エレノアは少し驚いたように目を瞬かせた。


「リーヴェを、ですか?」


「ああ」


彼女はしばらく考えてから、窓の外へ視線を向けた。


「行ってみたい場所はあります。王都には、素敵なお店や大きな書店があると聞きますし」


そこで、彼女は小さく笑った。


「でも、どこへ行っても、きっとリーヴェのことは気になると思います」


「……なぜ?」


「大切な人たちが、たくさんいますから」


迷いのない答えに、アレンは何も言わずに彼女を見つめた。


エレノアは少し照れたように微笑むと、一礼して部屋を出ていった。


扉が閉まったあと、アレンは再び窓の外へ目を向けた。今日会った庭師や村の若者だけではない。彼女がこの土地について話すとき、いつもそこには誰かの姿があった。


彼女にとって、リーヴェはただ生まれ育った土地というだけではないのだろう。

庭の片隅では、植えられたばかりの小さな苗が、春の風に揺れていた。










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