03
アレンが客間の外へ出る許可を得たのは、リーヴェ子爵邸に運び込まれてから三週間ほど経った頃だった。
熱はようやく落ち着き、傷の状態も少しずつ良くなっていた。とはいえ、長く歩けるほど回復したわけではない。医師から許されたのは、付き添いのもとで廊下を少し歩くことだけだった。
「くれぐれも無理はなさらないでください。痛みが出たら、すぐにお戻りいただきます」
医師が念を押すと、アレンは短く頷いた。
「分かっている」
その返事を聞いたエレノアは、思わず彼の顔を見た。
「無理はしない」
「本当ですか? 以前、お一人で立ち上がろうとなさったでしょう」
「……あのときのことを、まだ覚えているのか」
「もちろんです。今度こそ、先生のお言いつけを守ってくださいね」
アレンは反論しかけたが、結局、黙って頷いた。
「それなら安心です」
彼女が真面目な顔で頷くものだから、アレンは返す言葉を失った。
医師が部屋を出ていくと、エレノアは椅子に掛けてあった上着を手に取った。
「お庭はまだ無理ですけれど、廊下の突き当たりに大きな窓があるんです。そこからでしたら、丘がよく見えますよ」
「以前、話していた場所か」
「はい。あの丘です」
「見に行ってみるか」
エレノアは嬉しそうに笑い、上着を彼に差し出した。
アレンは寝台の縁に腰を下ろし、慎重に袖を通した。片腕を上げるだけでも脇腹が引きつる。表情には出
さなかったが、エレノアは彼の動きが止まったことに気づいたらしい。
「お手伝いしましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
「そうですか。では、ゆっくりどうぞ」
急かすことも、無理に手を貸すこともなく、彼女は傍らで待っていた。
ようやく立ち上がると、思っていた以上に足元が頼りなかった。三週間の大半を寝台で過ごした身体は、以前のようには動いてくれない。
アレンが壁に手をつくと、エレノアがそっと椅子を引き寄せた。
「少し、お休みになりますか?」
「……まだ一歩も歩いていない」
「では、一歩歩いてからお休みになります?」
彼は思わず彼女を見た。
エレノアは至って真剣な顔をしていたが、やがて口元に小さな笑みを浮かべた。
「冗談です」
「……君は」
「はい?」
「いや。何でもない」
アレンは壁から手を離し、慎重に一歩を踏み出した。
◇
廊下には、午後の柔らかな光が差し込んでいた。
磨かれた床には窓枠の影が伸び、開け放たれた窓からは春の気配を含んだ風が流れ込んでくる。
アレンはエレノアの歩調に合わせながら、ゆっくりと廊下を進んだ。
「こちらの屋敷は、ずいぶん古いのだな」
壁に飾られた風景画や、使い込まれた木製の手すりを眺めていると、エレノアが頷いた。
「祖父の代よりも前からあるそうです。何度か修繕していますけれど、父は昔の姿を残したいようで」
「手入れが行き届いている」
「ありがとうございます。屋敷の皆が大切にしてくれているんです」
エレノアは誇らしげにそう言った。
廊下の途中でマルタとすれ違うと、エレノアは足を止めて声をかけた。
「マルタ、今朝はありがとう。おかげでお父様も、温かいうちに朝食を召し上がれたわ」
「とんでもございません、お嬢様」
マルタは微笑み、アレンにも一礼して去っていった。
「……使用人の仕事を、よく覚えているのだな」
アレンが言うと、エレノアは不思議そうに首を傾げた。
「毎日、一緒に暮らしているのですもの。誰が何をしてくれたか、自然と覚えますよ」
彼女にとっては、ごく当たり前のことらしい。
アレンはそれ以上何も言わず、再び歩き始めた。
やがて廊下の突き当たりに辿り着くと、エレノアは窓の前に置かれた長椅子を示した。
「こちらで少しお休みになってください」
今度は素直に従い、アレンは腰を下ろした。
窓の向こうには、なだらかな丘が広がっていた。
まだ花の季節には少し早い。それでも、冬を越えた草は淡い緑を取り戻し、丘の斜面には小さな蕾が点々と見える。
その向こうには畑が続き、さらに遠くには村の屋根が寄り添うように並んでいた。
「……いい景色だな」
「でしょう?」
エレノアは窓辺に立ち、嬉しそうに頷いた。
「もう少し暖かくなれば、あの丘が花でいっぱいになるんです。村の子どもたちも、よく遊びに来るんですよ」
「君も行くのか?」
「はい。小さい頃は、毎日のように走り回っていました」
「今は?」
「今も、ときどき」
アレンが目を向けると、彼女は少しだけ気まずそうに笑った。
「……お父様には、もう少し令嬢らしくしなさいと言われますけれど」
「それほど悪いこととも思わないが」
「本当ですか?」
「ああ」
エレノアは、思いがけない味方を得たように笑った。
その表情を見てから、アレンはもう一度、窓の外へ目を向けた。
◇
「リーヴェは、農業が盛んな土地なのか?」
しばらく景色を眺めていたアレンが尋ねると、エレノアは頷いた。
「穀物や果物がよく育つんです。それから、街道を通って隣の領地へ品物を運ぶ商人の方も多いですよ」
彼女は窓の向こうを指さした。
「あの丘の先に、大きな街道があるんです。ここからは見えませんけれど、荷馬車が行き来していて、春になると市場も賑わいます」
「街道の管理は子爵が?」
「そうです。お父様が橋や道の修繕を手配しています。雨が続くと、ぬかるんで通れなくなる場所もありますから」
エレノアの口調は、庭の花について話していたときよりも少し真剣になった。
「去年は橋の一部が傷んでしまって、しばらく遠回りをしなければならなかったんです。村の方々も商人の方々も困ってしまって……」
「修繕は終わったのか?」
「はい。お父様が職人さんたちと相談して、冬になる前に直してくださいました」
「そうか」
「私は何もできませんでしたけれど、せめて工事の間だけでもと思って、作業に来てくださる方々へ温かい食事を届けていたんです」
アレンは彼女を見た。
「毎日か?」
「できる日は、です。料理人や侍女たちにも手伝ってもらいました」
エレノアは少し照れたように笑った。
「大したことではありません。私にできるのは、そのくらいでしたから」
アレンは窓の外へ視線を戻した。
街道が滞れば、商人だけでなく、作物を売る農家や市場で働く人々にも影響が及ぶ。子爵が冬までに橋を直した判断は、領地の暮らしを守るために必要なものだったのだろう。
そして、目の前の令嬢もまた、自分にできる形でその仕事を支えていた。
「……君は、この土地が好きなのだな」
エレノアは、少し驚いたように彼を見た。
「はい」
答えは、迷いのないものだった。
「とても、大切な場所です」
彼女は再び窓の外へ目を向けた。
「ここに暮らす方々は、皆、よくしてくださるんです。私が小さい頃、転んで泣いていたら、畑仕事の帰りだった方が家まで送ってくださったこともありますし、誕生日には村のお菓子屋さんが焼き菓子を届けてくださったこともあって……」
思い出すうちに楽しくなったのか、彼女の言葉は少しずつ弾んでいった。
「だから、私も何かお返しができたらと思うんです。私にできることは、まだ少ないのですけれど」
アレンは黙って耳を傾けた。
彼女が語るのは、華やかな舞踏会でも、宝石でもない。橋を直す職人や畑で働く人々、村の小さな菓子屋の話ばかりだった。
だが、そのどれもが彼女にとって大切なのだと、言葉の端々から伝わってくる。
「……十分、役に立っているのではないか」
そう告げると、エレノアは目を瞬かせた。
「私が、ですか?」
「ああ。少なくとも、食事を届けられた者は助かっただろう」
彼女は少し考え、それから柔らかく笑った。
「そうだと、嬉しいです」
その笑顔を見て、アレンは自分がいつの間にか、彼女の話の続きを待っていたことに気づいた。
◇
帰り道、アレンの歩調は行きよりも遅くなっていた。
長椅子で休んだとはいえ、久しぶりに身体を動かした疲れが出始めている。脇腹にも鈍い痛みが戻り、額には薄く汗が滲んでいた。
エレノアはそれに気づくと、すぐに足を止めた。
「少し、お休みになりましょうか」
「部屋までは、もうすぐだ」
「はい。ですから、ここで少し休めば、最後まで歩けますね」
そう言って、彼女は廊下の壁際に置かれた椅子を示した。
アレンは一瞬だけ迷ったものの、結局、腰を下ろした。
「……君の言うとおりだな」
「今日は素直でいらっしゃいますね」
アレンが目を向けると、エレノアは楽しそうに笑った。
「でも、今日はちゃんとお約束を守ってくださいました」
アレンは小さく息を吐いた。
「子ども扱いされている気がする」
「あら。そんなつもりはありませんでした」
アレンは、それ以上は何も言わなかった。
少し休んでから客間へ戻ると、エレノアは彼が寝台に横になるのを見届け、水差しを手の届く場所へ置いた。
「お疲れさまでした。今日は、ゆっくりお休みくださいね」
「ああ」
彼女が扉へ向かう。
アレンは窓の外に目をやり、ふと思い出したように声をかけた。
「エレノア」
「はい?」
「丘の花が咲いたら、教えてくれ」
彼女は驚いたように振り返ったが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「はい。もちろんです」
扉が閉まったあと、アレンは窓辺に置かれた白い花を見つめた。
春になれば、あの丘も花で埋まるのだという。
それを見られる頃、自分の傷はどこまで癒えているだろうか。
戻るべき場所があることは、変わらない。
それでも今は、丘に花が咲く日を、少しだけ待ち遠しく思った。




