↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/54

02



アレンが目を覚ましてから五日ほどが経った。


熱は下がり、食事も少しずつ取れるようになったと聞いている。とはいえ傷はまだ深く、医師からはしばらくベッドを離れないよう言い渡されていた。


エレノアはあれから毎日アレンの部屋へ通っていた――というわけではない。


もともと彼女には彼女の仕事がある。父から任されている領内の記録に目を通したり、冬のあいだに必要になる物資を確認したり、マルタと屋敷の用事を片づけたりしていれば、一日は思いのほか早く過ぎていく。


アレンの世話も、基本的には使用人たちに任せていた。ただ、廊下でマルタと会えば様子を聞くことはあったし、食事が取れるようになったと聞けば安心もした。あれほどの怪我をして運び込まれた人なのだから、気になるのは当然だと思っている。


その日の午後、エレノアは父に頼まれた書類を届けるため、一階へ下りていた。用事を済ませて自室へ戻ろうとしたところで、廊下の先から何かが床へ落ちたような鈍い音が聞こえ、足を止める。

音がしたのは、アレンが使っている客間のあたりだった。少し迷ってから扉の前まで行き、声をかけてみたものの返事はない。もう一度声をかけようとしたところで、中から何かを引きずるような音がした。


「入りますよ」


扉を開けたエレノアは、そこで動きを止めた。


アレンがベッドから降りていた。正確には、降りようとして失敗したところらしい。片手をベッドの縁につき、もう片方の手で脇腹を押さえながら、どうにか立ち上がろうとしている。床には水差しが倒れていた。


「……何をなさっているんですか」


五日前にも同じようなことを言った気がする。


アレンが顔を上げた。


「また君か」


「ええ。また私です」


エレノアが部屋へ入ると、アレンはそれ以上立ち上がろうとはせず、ベッドの縁へ腰を下ろした。顔色は以前よりずっといいが、額には薄く汗が滲んでいる。


「先生から、もう歩いてもいいと言われたんですか?」


アレンは答えず、わずかに視線を逸らした。


…どうやら、そうではないらしい。


エレノアは何も言わず、床に倒れていた水差しを拾った。中身がこぼれ、足元まで水が広がっている。


「布を持ってきますね」


アレンは何も答えなかった。


ちょうど廊下を通りかかったリナに声をかけて事情を話すと、すぐに布を持ってきてくれた。二人で部屋へ戻ったときには、アレンはきちんとベッドに腰掛けている。

リナが濡れた床を拭いている間、エレノアは窓際の椅子へ腰を下ろした。すぐに立ち去ってもよかったが、先ほどの様子が少し気になった。


「何か必要なものがあったんですか?」


「いや」


「では、どうして……」


そこまで言って、エレノアは口を閉じた。答えたくないことなら、無理に聞く必要もない。

やがて床を拭き終えたリナが立ち上がった。


「終わりました、お嬢様」


「ありがとう。ごめんなさいね」


「これくらい大丈夫ですよ」


リナはそう言って笑うと、水差しを元の場所へ戻し、アレンへ一礼して部屋を出ていった。


エレノアもそろそろ戻ろうかと思ったが、ベッドに座ったアレンは脇腹に手を添えたまま、どこか落ち着かない様子だった。怪我をしているのだから、早く動けるようになりたいと思うのは不思議ではない。ただ、彼の場合は退屈だからというだけではなさそうに見える。


「そんなに早く、ここを出たいのですか?」


アレンはすぐには答えなかった。やがて視線を落とし、短く息を吐く。


「……戻らなければならない」


「どちらへ?」


問いかけてから、エレノアは父の言葉を思い出した。


「すみません。今のは忘れてください」


アレンが顔を上げる。


「聞かないのか」


「お話しできないのでしょう?」


少しの間を置いて、アレンが「ああ」と答えた。


「でしたら、聞きません」


それだけ言うと、エレノアはそれ以上尋ねなかった。


アレンはしばらく黙っていた。話せないことを無理に聞かないのは、エレノアにとっては当然のことだったが、彼はなぜか考え込むようにこちらを見ている。


やがて、その視線が窓の外へ向いた。


「……待っている者がいる」


エレノアは少し驚いてアレンを見た。


それ以上の説明はなかった。けれど、先ほど無理に立とうとしていた理由は、少しだけ分かった気がした。ここへ来たときのアレンは、命を落としていてもおかしくないほどの怪我をしていた。それでも目を覚まして数日で立とうとするほど、戻りたい場所があるのだろう。


「待っている方がいるなら、早く戻りたいですよね」


アレンは何も言わなかった。


「でしたら、今はきちんと傷を治した方がよいのではないでしょうか。無理をして悪くなってしまった

ら、余計に時間がかかってしまいますから」


言ってから、医師でもない自分が口を出すことではなかったかもしれないと思う。


「……余計なことでしたね」


「いや」


思いがけない返事に、エレノアはアレンを見た。


彼はそれ以上何も言わず、視線を逸らした。


どうやら少なくとも、今すぐもう一度立ち上がるつもりはなくなったらしい。それなら十分だろうと、エレノアも椅子から立ち上がった。


「では、私は戻りますね」


扉へ向かう途中、窓辺に置かれた小さな花瓶が目に入った。水差しや本など必要なものは揃っているのに、花瓶だけは空のままだ。


そういえば、温室には冬のあいだも咲いている花がいくつかあったはずだ。

エレノアはそれを思い出したものの、特に何も言わずに部屋を出た。



     ◇



翌朝、朝食を終えたエレノアは温室へ寄った。


冬のあいだも咲く小さな白い花を数本選び、庭師に分けてもらう。豪華な花ではないが、殺風景な客間に置くにはちょうどいい。


自分で持っていくほどのことでもないので、廊下で会ったリナに花瓶へ生けてもらい、そのままアレンの部屋へ届けてもらった。エレノアはそれから父の書斎へ向かい、前日から残っていた領内の記録の整理に取りかかった。


リナが客間を訪れたとき、アレンはベッドの上で本を読んでいた。水を替えた花瓶に白い花を生けて窓辺へ置くと、本から顔を上げる。


「花か」


「はい。お嬢様が、こちらの花瓶が空いていたからと。今朝、温室で選んでいらっしゃいました」


アレンは窓辺へ目を向けた。


「……そうか」

それ以上は何も聞かず、再び本へ視線を戻した。



     ◇



それから数日、アレンの体調は少しずつ戻っていった。


まだ部屋の外へ出ることは許されていなかったが、熱がぶり返すこともなくなり、起きて過ごす時間も長くなった。医師が診察に訪れるたび、アレンはいつになれば歩いていいのかと尋ねているらしい。


エレノアも、その間に二度ほど彼の顔を見た。一度は父から預かった手紙を届けたときで、もう一度はマルタに頼まれて新しい本を何冊か持っていったときだった。どちらも長居はせず、少し言葉を交わしただけで部屋を出ている。


最初に会った頃に比べれば、素っ気ない返事ばかりが返ってくることも少なくなっていた。それでもアレンが口数の多い人でないことに変わりはなく、エレノアも無理に会話を続けようとはしなかった。

その日も、父から預かった書類を抱えて一階を歩いていた。書斎へ届ける前に客間へ寄ったのは、マルタからアレンが読み終えた本を回収してほしいと頼まれていたからだった。


扉を叩いてから中へ入ると、アレンは窓辺の椅子に座っていた。


ベッドを離れていることに一瞬驚いたものの、勝手に動いたわけではないらしい。近くには杖が置かれ、少し離れたところには医師もいる。


「ちょうどよかった」


医師がエレノアを見る。


「今、少し立たせてみたところです。まだ一人で歩かせるわけにはいきませんが、経過は悪くありませんよ」


「本当ですか。よかったですね、アレン様」


声をかけると、アレンは「ああ」と短く答えた。


以前なら、医師の許可もないまま一人で立とうとしていた人である。今日は大人しく椅子に座っているのを見て、エレノアは内心少し安心した。


医師はもう一度アレンに無理をしないよう念を押してから、次の診察についてマルタと話すため部屋を出ていった。


エレノアは読み終えた本をテーブルから取り、持っていた書類の上へ重ねる。これで用事は終わりなので、そのまま部屋を出ようとしたところで声をかけられた。


「それは何だ」


振り返ると、アレンがエレノアの抱えている書類を見ていた。


「これですか?これは、橋の修繕についての記録です。父に頼まれて、去年の分と見比べていました」


「君が?」


意外そうに聞かれ、エレノアは頷いた。


「難しいところは父に教えてもらっていますけれど。領内のことは、私も知っておきたいので」


リーヴェには大きな川があり、そこに架かる橋は領内の村々だけでなく、近隣の土地へ物を運ぶためにも使われている。冬のあいだに傷んだ場所を調べ、雪が解ければ必要なところから修繕するのが毎年の仕事だった。


エレノアが簡単に説明すると、アレンは少し考えるように黙った。


「重要な橋なのか」


「ええ。向こう側には街道がありますから。領内で採れたものを運ぶときにも使いますし、反対にこちらへ届くものも、ほとんどあの橋を通ります」


「なるほど」


そこで会話が途切れた。


エレノアはてっきり話は終わったものと思い、「では、私はこれを父に届けてきますね」と書類を抱え直した。


「ああ」


扉へ向かったところで、もう一度声がかかる。


「エレノア」


初めて名前だけで呼ばれ、エレノアは振り返った。


アレンは一瞬何か言いにくそうにしたあと、窓辺に置かれた花瓶へ目を向けた。数日前に届けた白い花は、まだ何輪か残っている。


「……花」


「はい?」


「まだ咲いているのか」


何のことか分からずにいたが、視線の先を見てようやく気づいた。


「温室の花ですか? ええ。冬でも咲くものがいくつかありますよ」


「そうか」


それだけだった。


エレノアは少し首を傾げたものの、今度こそ部屋を出た。


廊下を歩きながら、抱えた書類の一番上にある橋の記録へ目を落とす。最初に会ったときには自分のことなど何一つ聞かなかった人が、今日は領地の橋について尋ね、最後には花のことまで聞いた。


相変わらず口数は少ないけれど、最初に会った頃よりは、ほんの少しだけ話をするようになったらしい。

随分と元気になったものだと思いながら、エレノアは父の書斎へ向かった。
















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。