01
夜半を過ぎた頃、リーヴェルト子爵邸へ一台の馬車が近づいていた。
冬の夜は静かだった。昼間から降り続いていた雪はいつの間にか止み、屋敷の周囲には薄く雪が積もっている。そんな静かな夜、自室で本に夢中になっていたエレノアは、遠くから聞こえてきた車輪の音に顔を上げた。
こんな時間に馬車が来るのは珍しい。耳を澄ませていると、車輪の音は次第に近づき、やがて玄関前で止まった。エレノアが気になって本を閉じたところで、今度は階下から慌ただしく人の動く気配が聞こえてきた。
羽織を手に部屋を出ると、廊下の向こうからリナがやってきた。エレノアと年の近い侍女で、彼女も何が起きているのか分からないらしく、階段の方を気にしながら足早に近づいてくる。
「お嬢様、まだ起きていらしたんですか」
「ええ。今、馬車が着いたでしょう?」
「はい。私も音を聞いて出てきたところです。こんな時間に、何でしょう」
「分からないわ。下へ行ってみましょう」
リナと一緒に階段を下りると、玄関には父と執事長、侍女頭のマルタが揃っていた。そのそばには、リーヴェ家が昔から世話になっている医師の姿もある。
「お父様?」
エレノアが声をかけると、父が振り返った。その表情を見て、続けようとした言葉を飲み込む。普段は穏やかな父の顔から、すっかり笑みが消えていた。
その間にも玄関の外では黒い馬車の扉が開き、数人の男たちが中から担架を運び出そうとしていた。そこに横たえられた人影が見えた瞬間、エレノアは息を呑んだ。
若い男だった。
黒い髪が白い額に張りつき、顔にはほとんど血の気がない。ひどく弱っているのに、それでも目を引くほど整った顔立ちをしていた。厚手の外套の下から覗く衣服には黒ずんだ血が広がり、担架が動いても身じろぎひとつしなかった。
父に呼ばれた医師がすぐに男のもとへ向かい、手短に状態を確かめる。
「傷が深い。できるだけ揺らさない方がいいでしょう」
「それなら一階の客間を使おう。階段は避けた方がいい」
父がそう言うと、執事長がすぐに動いた。男たちも担架を持ち直し、そのまま一階の客間へと運び込んでいく。近くを通ったとき、外套に隠れていた血の跡が思っていた以上にひどいことに気づき、隣にいたリナも小さく息を呑んだ。
「マルタ、頼む」
父の言葉に、マルタはすぐに頷いた。
「リナ、厨房へ行ってお湯を用意してちょうだい。それから清潔な布をできるだけ多く。急いで」
「はい」
突然名前を呼ばれたリナは驚きながらも、すぐに厨房へ向かった。
「私も手伝うわ」
そのあとを追おうとしたエレノアを、父が呼び止める。
「エレノア」
振り返ると、父はいつになく真剣な顔をしていた。
「今夜ここで見たことは、屋敷の外では話さないように」
怪我人を屋敷で預かること自体は、これまでにもあった。領内で事故や急病があれば、父が屋敷へ運ばせ、医師に診せることもある。けれど、父がそのことを口止めしたことなど一度もない。
今夜は、馬車が来る前から父と執事長、マルタ、それに医師までが揃っていた。運ばれてきたのは見覚えのない若い男で、父は明らかに何かを知っている。
「……分かりました」
エレノアは客間へ運ばれていく担架を見た。
「お父様、あの方は……?」
「今は何も聞かないでくれ」
穏やかだが、それ以上の質問を許さない声だった。エレノアは少しだけ迷ったものの、素直に頷いた。父がここまで慎重になるのなら、今は話せない事情があるのだろう。
「分かりました。では、私もお手伝いしてきますね」
父は少し困ったような顔をした。
「マルタの指示に従いなさい」
「はい」
尋ねても答えられないのなら、今はそれでいい。エレノアは先に厨房へ向かったリナを追った。
◇
男の治療は夜明け近くまで続いた。
医師と助手が客間に入り、エレノアはマルタやリナと必要なものを運んだ。治療の邪魔にならないよう中へは入らず、頼まれた湯や布を扉の前まで届けては、また次の用意をする。
途中で一度、血に染まった布を抱えた助手とすれ違った。その量を見れば、男の怪我が軽いものでないことくらいは分かる。
空が白み始めた頃、ようやく客間の扉が開いた。長い治療を終えた医師は疲れた顔をしていたが、待っていた父を見ると、ひとまず息をついた。
「傷は処置しました。出血が多く、熱もありますので、まだ安心はできません。ただ、今のところは持ちこたえています」
「そうか」
父の声から、わずかに力が抜けた。
「今夜は私が残ります。何かあればすぐに診ますので、絶対に動かさないようにしてください」
「分かった。引き続き頼む」
少し離れたところで聞いていたエレノアも、知らず詰めていた息を吐いた。名前も知らない相手だったが、数時間前、死んでいてもおかしくないような姿で運び込まれた人が生きていると聞けば、ほっとする
くらいはする。
「お嬢様」
後ろからマルタに呼ばれ、エレノアは振り返った。
「今度こそお休みになってください。もう朝になりますよ」
「マルタたちは?」
「私どもも交代で休みます。ですから、お嬢様も」
そう言われて、エレノアは素直に頷いた。
「分かったわ。リナにもちゃんと休むように言ってね」
「ええ。お伝えします」
「マルタもよ」
念を押すと、マルタは少しだけ笑った。
「承知いたしました」
それなら、とエレノアも自室へ戻ることにした。階段へ向かう前にもう一度だけ客間を振り返ると、閉ざされた扉の向こうにいる男のことが、やはり少し気にかかった。
何者なのだろうとは思う。けれど、父が話さないと決めたことを無理に聞き出すつもりはなかった。
◇
男の熱が下がり始めたのは、それから三日後だった。
朝食の席で父からそう聞かされ、エレノアはほっとした。それまでにも食事のたびに様子を尋ねていたが、男は一度も意識を取り戻していなかった。
「では、もう大丈夫なのですか?」
「まだ何とも言えないらしい。ただ、昨日よりずっといいそうだ」
「そうですか。よかった」
あの夜以来、エレノアは客間へ近づいていなかった。必要な世話はマルタたちがしていたし、意識のない客人の部屋へわざわざ顔を出す理由もない。
屋敷の者には、男は怪我の療養のためしばらく滞在する客人だとだけ伝えられている。どこで傷を負ったのか、なぜあの夜ひそかに運び込まれてきたのかを知る者は、ごく限られているようだった。
「そういえば、お名前もまだ伺っていませんね」
父はカップを置いた。
「本人が目を覚ましたら、話せることは本人から聞けばいい。私から話すことではないからね」
「分かりました」
あっさり答えたエレノアに、父が少し意外そうな顔をする。
「それだけか?」
「はい。お父様が話せないことなら、今は聞かない方がいいのでしょう?」
「……まあ、そうだな」
「でしたら、ご本人がお元気になってから伺います」
父はしばらく娘の顔を見ていたが、やがて小さく笑った。
その日の昼前、男が意識を取り戻した。
知らせを受けた父はすぐに客間へ向かい、医師の診察が終わったあとも、しばらく二人きりで話をしていた。昼食の少し前になって戻ってきた父から、男がしばらくこの屋敷で療養することになったと聞かされる。
「ご挨拶してもいいですか?」
「ああ。ただ、まだ長く話せる状態ではない。疲れているようなら、すぐ休ませてやってくれ」
「分かっています」
午後になってから、エレノアは薬湯を届けるマルタとともに客間へ向かった。
◇
マルタが扉を叩いて名乗ると、中から低い声で返事があった。
「失礼いたします」
マルタに続いて部屋へ入ったエレノアは、ベッドへ目を向けて眉を寄せた。男は起き上がろうとしていた。
片手を寝具について上体を持ち上げ、もう片方の手で脇腹を押さえている。三日前には死人のように青白かった顔にわずかな血色は戻っていたが、それでも立ち上がれる状態には到底見えない。
「まあ、何をなさっているんです」
マルタが呆れたように声を上げた。
男がこちらを見る。その視線がマルタを通り過ぎ、後ろにいたエレノアへ向けられた瞬間、彼女は思わず足を止めた。
灰青色の瞳だった。
三日前、意識もなく運び込まれた男と同じ人物とは思えない。整った顔立ちをしていることにはあの夜にも気づいていたが、目を覚ました彼はずいぶん印象が違った。重傷を負って三日も眠っていた人とは思えないほど、その目には鋭さがあった。
「……君が、子爵の娘か」
掠れた声で尋ねられ、エレノアは頷いた。
「はい。エレノア・リーヴェルトと申します」
「そうか」
それだけ言うと、男はまた身体を起こそうとした。こちらは名乗ったのに、自分から名乗るつもりはないらしい。随分と無愛想な人だと思いながら、エレノアはベッドへ視線を戻した。
「どちらへ行かれるんですか?」
「どこへも行かない」
「でしたら、まだ横になっていた方がよろしいのでは?」
男の眉がわずかに動いた。
「君の判断ではないだろう」
返ってきた言葉は、ずいぶん素っ気なかった。エレノアは瞬きをする。
どうやら、あまり人と話すのが好きな方ではないらしい。
「……そうですね。失礼しました」
素直に引き下がると、男はわずかに目を細めた。それでも起き上がろうとしたところで傷が痛んだのか、眉間に皺が寄る。
「でも、傷が開いたら、また先生を呼ばなくてはいけませんね」
「……何が言いたい」
「皆さん、ようやく少し休めたところですから」
「お嬢様」
隣にいたマルタが、すかさず口を挟んだ。
「もう少し言い方というものがございます」
「心配しているだけよ」
「でしたら、もう少し心配しているようにおっしゃってくださいませ」
エレノアは口をつぐんだ。男は黙ったまま二人を見ていたが、やがて小さく息を吐き、身体を枕へ戻した。
マルタが薬湯をベッド脇のテーブルへ置く。
「先生からのお薬です。食後にお飲みくださいませ」
「分かった」
どうやら会話を続けるつもりもないらしい。エレノアも長居する理由はないので、マルタとともに部屋を出ようとした。
「待て」
背後から声がして、エレノアは振り返った。
「三日前の夜、君もいたのか」
「あの馬車が着いたときですか? はい」
「何を聞いた」
「何も聞いていません」
男はしばらくエレノアを見ていた。
「父君からも?」
「今は何も聞くなと言われましたので」
「それで、何も聞かなかったのか」
質問の意味がよく分からず、エレノアは首を傾げた。
「はい」
「知りたいとは思わないのか」
「気にはなりますよ。あんな時間に、あれだけのお怪我をして運ばれてきたのですから」
もちろん、何者なのだろうとは思っている。父が前もって医師を待機させ、屋敷の外では話すなとまで言った相手なのだから、気にならない方がおかしい。
「でも、今は話せない事情がおありなのでしょう?」
男は答えなかった。
「でしたら、話せるようになったときにお話しくだされば十分です。私が知らなくても困りませんし」
しばらく沈黙が落ちた。何かおかしなことを言っただろうかとエレノアが考えていると、男はようやく視線を逸らした。
「……そうか」
「はい」
これ以上話すこともなさそうなので、エレノアは今度こそ扉へ向かった。そこで、そういえば名前すら知らないままだったことを思い出す。
「すみません。お名前だけ伺っても?」
男の表情が、ほんのわずかに変わった。少し間を置いてから、低い声が返ってくる。
「……アレン」
「アレン様ですね」
そう呼ぶと、なぜか彼は一瞬だけ妙な顔をした。
「違いました?」
「いや」
「では、ゆっくりお休みください。アレン様」
「ああ」
エレノアは今度こそマルタとともに客間を出た。
◇
扉が閉じると、アレンはしばらくそこへ視線を向けていた。
リーヴェ子爵の娘が十八歳だということは、先ほど子爵本人から聞いている。それ以上のことは知らなかったし、知る必要もないと思っていた。
貴族の令嬢と話すことには慣れている。舞踏会へ出れば声をかけられ、家同士の付き合いがあれば娘を紹介される。縁談が持ち込まれることも珍しくなかった。
それ自体を疎ましく思っているわけではない。彼女たちにも家があり、立場がある。結婚が本人だけの問題ではないことくらい、アレンにも分かっていたし、自分とて、いずれ家のために相応しい相手を選ぶことになるのかもしれない。
ただ、会うたびに容姿を褒められたり、気を引こうと必要以上に愛想よく振る舞われたりすることには、とうに辟易していた。こちらの反応を窺いながら言葉を選ばれるのも、何度も繰り返されれば疲れる。
そうして最初は好意的に近づいてきた相手ほど、アレンが愛想よく笑う男ではないと分かれば、今度は「怖い」「冷たい」と距離を置く。勝手に期待され、その期待に応えなければ失望されることにも、もう慣れていた。
そ
れに、初対面の令嬢が自分のことを何も知らない、という経験はほとんどなかった。名乗る前から家名を知られていることも多く、軍での噂まで耳にしている者もいる。珍しいことではなかったし、今さら気に留めるようなことでもない。
けれど、エレノアは違った。
この屋敷でエレノアが知っているのは、彼が「アレン」と名乗ったことだけだ。それなのに彼女は、素性を聞こうともしなかった。
深夜に重傷を負って運び込まれ、父親が事情を伏せている男など、気になって当然だろう。実際、彼女も気にはなると言った。それでも、話せないのなら今は知らなくていいという。
先ほどもそうだった。愛想よく振る舞うわけでもなければ、怪我人だからと腫れ物に触るような扱いをするわけでもない。感じの悪い返事をした自覚はあったが、彼女は気分を害した様子もなく、あっさりと「失礼しました」と引いた。
そのくせ、最後には余計なひと言を残していく。
『皆さん、ようやく少し休めたところですから』
自分を心配しているのか、周囲の人間を心配しているのか、よく分からない。少なくとも、機嫌を取ろうとしていないことだけは確かだった。
アレンは枕元の薬湯へ手を伸ばした。身体を動かしたせいで傷はまだ鈍く痛み、先ほど子爵と医師からも、しばらくここを離れることはできないとはっきり告げられたばかりだった。
一日でも早く戻りたい。そのためには、今は傷を治すしかない。
苦い薬湯を口にしながら、先ほどのやり取りを思い返す。
「……変な娘だな」
小さく呟き、アレンは残った薬湯を飲み干した。




