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冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


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10/38

10



春の陽気が続くようになってから、アレンの回復は目に見えて早くなっていた。


屋敷の中を歩くことはすでに日常となり、天気のいい日には庭へ出ている姿も珍しくなくなった。少し前までは、客間の外へ出るだけでも医師や使用人が付き添っていたことを思えば、エレノアが驚くほどの変化だった。


その日の診察でも経過に問題はなく、医師は傷の状態を確認すると、ようやく満足そうに頷いた。


「歩く距離は、もう少し増やしても構いません。ただし、痛みが出るまで歩くのはやめてください」


「分かった」


「それから――」


医師はそこで言葉を切り、何かを待っているようにアレンを見た。


窓際にいたエレノアにはその意味が分からなかったが、アレンはしばらく黙ったあと、いつもの調子で口を開いた。


「剣は?」


医師が深いため息をつく。


「やはり聞きますか」


「当たり前だ」


何度目になるのか分からないやり取りに、エレノアは思わず笑ってしまった。医師が訪れるたびに同じことを尋ねているとは聞いていたが、実際に目の前で見ると、アレンが思っていた以上に剣から離れていることを気にしていたらしい。


「振るのはまだ許しませんよ。傷が塞がったからといって、中まで完全に元通りになったわけではありません」


「分かっている」


「本当に分かっていらっしゃるなら、毎回お尋ねにはならないと思いますが」


医師の言葉にアレンは何も返さなかった。その様子を見た医師は、仕方がないとでも言うように息を吐いてから、少しだけ条件を緩めた。


「手に取る程度なら構いません。ただし、本当にそれだけです。振らない、構えない、試そうとしない。よろしいですね?」


「……分かった」


ようやく得られた許可のわりには、アレンの返事は淡々としていた。それでもエレノアには、先ほどまでよりわずかに機嫌がよくなったように見えて、また笑いそうになる。


「そんなに剣を持ちたかったんですか?」


医師が帰ったあとで尋ねると、アレンは椅子から立ち上がりながらエレノアを見た。


「長く触っていないからな」


「先生が毎回困っていらした理由が分かりました」


「困らせてはいない」


「今のため息を聞いても、そう思われるんですか?」


アレンは答えず、ちょうど部屋へ戻ってきた使用人に、自分と一緒に運び込まれた荷の中から剣を持ってくるよう頼んだ。


しばらくして運ばれてきた剣を、エレノアは少し離れたところから眺めていた。飾りとして置かれるような華美なものではなく、鞘にも柄にも目立つ装飾はない。それでも、手入れが行き届いていることは、剣に詳しくない彼女にも何となく分かった。


アレンは使用人から受け取ると、鞘に収めたまま腰に佩いた。


ただそれだけのことだった。


医師から固く言われたとおり、剣を抜くことも、構えることもしない。それでも、腰に剣を佩いたアレンの姿には少しの違和感もなかった。

客間の寝台に横たわり、熱に浮かされていた頃とも、庭の東屋で本を読んでいたときとも違う。橋へ出かけた日には、すでに怪我人らしさはかなり薄れていたはずなのに、剣を腰にした姿を見ると、自分がこれまで見てきたアレンは彼の一部分に過ぎなかったのだと、改めて思わされた。


「……お似合いですね」


アレンがエレノアを見る。


「剣が?」


「はい」


「褒められている気がしないな」


「褒めたつもりだったのですが」


エレノアは笑いながら答えたものの、視線はもう一度、彼の腰にある剣へ戻った。


「ずっと、剣を使ってこられたんですか?」


「子どもの頃から習っていた」


「そうなんですね」


それ以上、エレノアは尋ねなかった。


どこで習ったのか、誰に教わったのか。聞こうと思えばいくらでも聞けたけれど、アレンが自分から話さないことに無理に踏み込まないのは、出会った頃から変わらない。


ただ、剣を持つ彼を見ていると、重傷を負ってこの屋敷へ運び込まれるより前にも、当然ながら彼には自分の知らない日々があったのだということを、以前よりはっきりと感じた。




 ♢




それから数日後、医師から許された歩行距離が少しずつ伸びたこともあり、アレンはエレノアとともに屋敷の外を歩いていた。


橋へ出かけたときとは違い、馬車は使っていない。屋敷からそう遠くない場所を選び、疲れたらすぐに戻るという条件で許された散歩だった。


春らしい穏やかな日で、道の脇には新しい草が伸び始めている。冬の間は枝ばかりだった木々にも若い葉が目立つようになり、少し歩くだけでも季節が変わったことが分かった。


エレノアはアレンの歩調を気にしながらも、以前のように何度も体調を尋ねることはしなかった。橋へ出かけた日より足取りはずっと安定しており、本人も無理をしている様子はない。


屋敷から続く道をしばらく歩いたところで、木々の向こうから規則正しい水音が聞こえ始めた。


「もうすぐです」


エレノアが道の先へ目を向けると、アレンも同じ方向を見た。


やがて木々が途切れ、小さな川沿いに建つ水車小屋が姿を現した。大きな水車が絶えず水を受けながら回り、その音に混じって、小屋の中からも作業をする物音が聞こえている。


「以前、お話しした水車です」


「ああ」


アレンは水車を見上げ、それから小屋の周囲へ視線を巡らせた。エレノアにとっては幼い頃から見慣れた場所だったが、誰かと並んでここへ来るのは久しぶりだった。


小屋の仕事を邪魔しないよう少し離れた川沿いを歩いていると、アレンがふいに口を開いた。


「ここまで一人で来ていたのか」


エレノアは何のことか分からず、隣を見上げる。


「子どもの頃の話だ」


そこでようやく思い当たり、エレノアの表情が変わった。


「……お父様から聞いたんですね」


「畑に行ったかと思えば水車小屋にいて、夕方には泥だらけで帰ってきたと聞いた」


「どうしてそこまでお話しになるのかしら……」


エレノアは額に手を当てたくなるような気持ちで呟いた。


父とアレンが自分の話をしたとは聞いていたが、まさか幼い頃の失敗まで話されているとは思っていなかった。


「事実ではないのか?」


「…事実ですけれど、わざわざアレン様にお話しするようなことではありません」


「俺は聞いただけだ」


「では、忘れてください」


「無理だな」


即座に返され、エレノアは眉を寄せた。


「どうしてです?」


「想像がつく」


「……それ、褒めていませんよね」


不満そうに言うエレノアを見て、アレンの口元がわずかに緩んだ。


エレノアはその表情に気づいたものの、追及する代わりに川へ視線を戻した。水車は昔とほとんど変わらない速さで回り続けている。


「あの頃は、ここまで来るだけでも随分遠く感じたんです」


「今なら屋敷からすぐだな」


「そうなんです。大人になってから来ると、こんなに近かったのかと思います。でも子どもの頃は、ここまで来るだけでちょっとした冒険でした」


幼い頃は、屋敷を出て村を抜け、その先にある水車まで辿り着くだけで、自分の知らないところへ来たような気分になった。小屋で働く大人たちの邪魔にならないよう水車を眺め、帰り道では畑へ寄ったり、道端の花を摘んだりしているうちに、気づけば日が傾いていたことも一度や二度ではない。


「もちろん、帰ってから叱られましたけれど」


「だろうな」


「そんなに納得しないでください」


「子爵の話を聞けば納得もする」


エレノアは少し恨めしそうにアレンを見たが、すぐに自分でもおかしくなったのか、小さく笑った。

しばらく二人で水車を眺めているうちに、エレノアは数日前、剣を腰にしたアレンの姿を思い出した。


子どもの頃から剣を習っていたと、彼はあのとき言っていた。


自分がこの辺りを走り回り、水車を眺めていた頃、アレンはどんな子どもだったのだろう。そう考えると急に気になり、エレノアは隣に立つ彼を見上げた。


「アレン様は?」


「何がだ」


「子どもの頃です。どんなところで遊んでいらしたんですか?」


アレンはすぐには答えなかった。


ほんの少し前までなら、その沈黙を感じた時点でエレノアは話題を変えていたかもしれない。けれど今は、答えたくなければそう言うだろうと思える程度には、彼のことを知っている。


そのため何も言わず待っていると、アレンは水車へ向けていた視線を川の方へ移した。


「遊んでいた記憶は、あまりないな」


「ないんですか?」


「ああ。剣や馬を習っていることの方が多かった」


「小さい頃から?」


「そうだな。それ以外にも、覚えることは多かった」


エレノアは少し驚いた。


「大変だったんですね」


「それが普通だった。大変だと思ったこともない」


その答え方が妙にアレンらしくて、エレノアはしばらく彼の横顔を見ていた。

自分にとっては、畑へ行ったり水車小屋を覗いたり、父に叱られながら屋敷へ帰ったりすることが当たり前だった。同じ頃のアレンにとっては、剣を習い、馬に乗り、何かを学ぶことが日常だったのだろう。


どこで育ったのかも、どんな家で暮らしていたのかも、エレノアは知らない。それでも、これまでほとんど見えなかった彼の幼い頃の姿が、ほんの少しだけ想像できるようになった。


「では、木登りをしたこともないんですか?」


突然の質問に、アレンが眉を寄せる。


「なぜ木登りの話になる」


「何となくです。私はよくしていたので」


「……君は本当に子爵令嬢か?」


「失礼ですね」


「泥だらけで帰り、木にも登る令嬢は聞いたことがない」


「全部子どもの頃の話です」


「今は登らないのか」


「登りません」


きっぱりと言い切ったエレノアに、アレンは疑うような視線を向けた。


「その顔は何です?」


「別に」


「信じていませんね?」


「何も言っていない」


否定もしない返事に、エレノアは呆れたように息をついた。


水車を見るだけなら、それほど長くいる必要はない。医師からも長時間歩き続けないよう言われていたため、二人はしばらく川辺で休んだあと、来た道を屋敷へ戻ることにした。


帰り道では、エレノアが幼い頃に木から下りられなくなったことがあると話すと、アレンは呆れたように彼女を見た。


「登っていたとは聞いたが、下りられなくなるところまでとはな」


「一度だけです」


「一度でも十分だろう」


「子どもの頃の話ですよ」


「分かっている」


そう言いながらも、アレンはどこか可笑しそうだった。エレノアはこれ以上話せば余計なことまで知られそうな気がして、それきり幼い頃の失敗については口を閉ざした。


一方で、エレノアがアレンの幼い頃について尋ねても、彼が話せることは多くなかった。剣や馬のこと、教師について学んでいたこと、それから時折父に連れられて遠くへ出たこと。そのどれも詳しい場所や家のことには触れなかったが、エレノアも理由を尋ねようとはしなかった。


それでも、これまでほとんど知ることのなかったアレンの昔の話を聞けたことが、エレノアには嬉しかった。


アレンもまた、隣を歩くエレノアを見ながら、子爵から聞いた幼い少女の話を思い出していた。水車小屋まで一人で出かけ、畑へ寄り道し、木にまで登っていたという少女の姿は、今隣を歩いているエレノアと容易に重なる。


「アレン様?」


見られていることに気づいたエレノアが振り向いた。


「何ですか?」


「いや」


アレンはそれ以上何も言わず、再び前を向いた。エレノアも理由を問い続けることはなく、そのまま隣を歩いていく。


屋敷が見えてくる頃には、二人の話題はいつの間にか子どもの頃のことから夕食のことへ変わっていた。
















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