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医師がアレンの傷を診る時間は、以前に比べればずいぶん短くなっていた。
包帯を外して傷の状態を確かめ、腕や肩を動かすよう指示を出す。アレンがそれに従う様子を、エレノアは少し離れたところから見守っていた。
「痛みは?」
「ほとんどない」
「こちらは?」
「問題ない」
医師は何度か頷きながら診察を続けていたが、やがて感心したように息をついた。
「正直に申し上げれば、ここまで早く回復されるとは思っておりませんでした」
その言葉に、エレノアの表情が明るくなる。
「では、もうかなりよくなっているのですね」
「ええ。ただし、エレノア様。今のは何をしてもよいという意味ではありませんよ」
「私に仰るんですか?」
「この方に言うより、あなたにお伝えした方が確実かと思いまして」
思わずアレンを見ると、本人は不満そうな顔をするでもなく、黙って医師を見返していた。
「剣を振るのはまだお控えください。馬も、もうしばらくは駄目です」
「まだか」
「そのお言葉を聞くのも何度目でしょうね」
医師は呆れながらも、以前ほど厳しい口調ではなかった。
「ですが、このまま順調に回復されれば、短い時間であれば馬に乗ることを許可できる日も、そう遠くはないでしょう」
「本当ですか?」
またエレノアの方が先に声を上げると、医師が笑った。
「ご本人より嬉しそうですね」
「だって、よいことではありませんか」
そう言ってアレンを見ると、彼もこちらを見ていた。目が合うと、エレノアはそのまま嬉しそうに笑った。
アレンがこの屋敷へ運び込まれてきた頃は、起き上がることさえできなかった。高い熱に苦しみ、ほんのわずか身体を動かすだけでも顔を歪めていたことを思えば、今こうして自分の足で歩き、剣を腰に下げることまで許されているのが嘘のようだった。
「長い距離を移動できるようになるまでには、あとどれくらいかかる」
アレンの問いに、エレノアは何気なく医師へ視線を戻した。
「それはもう少し先です。馬車に長時間揺られるとなれば、今とは話が違いますから。ただ――」
医師は少し考えてから続けた。
「当初考えていたよりは、早く許可を出せるかもしれません。この調子なら、ですが」
「そうか」
アレンはそれ以上尋ねなかった。
エレノアも、順調に回復していることが嬉しくて、「よかったですね」と笑った。
彼が元気になることは、間違いなく喜ばしいことだった。
♢
その日の昼過ぎ、子爵がアレンの客間を訪れた。
医師からすでに話を聞いていたらしく、アレンの顔を見るなり穏やかに笑った。
「先生も驚いておられましたよ。ずいぶん回復が早いそうですね」
「ああ。俺も、もう少しかかると思っていた」
「このまま順調にいけば、当初の予定より早くお戻りになれるかもしれませんな」
子爵の言葉に、アレンは窓の外へ目を向けた。雪に覆われていた庭にはすでに春の色が増え、枝先には若い葉が目立つようになっている。
この屋敷へ運び込まれた夜には、ここでこれほど長く過ごすことになるとは思っていなかった。
「戦況についてはこちらでも分かる範囲の報告は集めています。ですが、お戻りになるのであれば、なおさら無理はなさらぬように」
「ああ」
短く答える。
戻ること自体に迷いはなかった。
傷が癒え、移動できるようになれば帰る。それは初めから決まっていたことであり、そのためにここで療養している。
子爵もそれ以上は何も言わず、話題を領地のことへ移した。
♢
知らせが届いたのは、それから間もなくのことだった。
戦地へ出ていたリーヴェの若者が、一人亡くなった。
エレノアも知っている青年だった。親しく言葉を交わすような間柄ではなかったが、領内で何度も顔を合わせたことがある。父と歩いていれば向こうから挨拶をしてくれたし、出征する前にも一度、屋敷を訪れていた。
まだ若かった。
戦が終わればリーヴェへ戻り、家の仕事を手伝うつもりなのだと聞いていた。
その日のうちに、エレノアは父とともに彼の家を訪ねた。
母親は泣いていた。
それでもエレノアたちの前では何度も頭を下げ、息子が世話になったと繰り返した。何か世話をしたのはこちらではないと伝えても、最後まで同じ言葉を口にしていた。
エレノアは母親のそばに座り、その話を聞いた。途中で言葉に詰まれば待ち、差し出された手には自分の手を重ねた。帰り際には、困ったことがあればいつでも屋敷へ知らせてほしいと伝えた。
帰りの馬車では、母親の言葉が何度も頭に浮かんだ。
けれど、うまく言葉にできるものでもなく、エレノアは窓の外を流れていく景色を眺めながら屋敷へ戻った。
屋敷へ戻ったのは、エレノアの方が先だった。父はまだ話があるからと残っており、あとから戻ることになっている。
「お帰りなさいませ、エレノア様」
玄関広間で出迎えた使用人に、エレノアはいつもと変わらない様子で微笑んだ。
「ただいま。お父様は少し遅れて戻られるわ。先にお茶の支度をお願いできる?」
「かしこまりました。エレノア様もお召し上がりになりますか?」
「私は大丈夫。ありがとう」
そう答えて大階段へ向かいかけたものの、数歩も行かないうちに足が止まった。
二階へ上がれば、自室にはリナがいるだろう。
何も言わずに部屋へ戻っても、きっと顔を見ただけで何かあったのかと尋ねられる。いつもなら、それを嫌だと思うことなどない。けれど今は、心配そうな顔を向けられたら、うまく笑える自信がなかった。
エレノアはしばらく階段を見上げていたが、やがて踵を返した。
少しだけ、一人になりたかった。
向かったのは、一階の談話室を兼ねた図書室だった。
幼い頃から何度となく足を運んでいる場所で、壁際には父が集めた本が並び、その中にはエレノアが気に入って何度も読み返したものもある。誰かと話したいわけでも、自室で休みたいわけでもないとき、自然とここへ来ることがあった。
扉を開けると、幸い中には誰もいなかった。
エレノアは窓際の椅子に腰を下ろし、近くの棚から一冊の本を抜き取った。何を読むか考えて選んだわけではない。開いたページに目を落としてみても、文字は少しも頭に入ってこなかった。
何度か同じ行を追ったところで、諦めて本を閉じる。
静かになると、かえって先ほどまで聞いていた声が鮮明に蘇った。
帰ってきたら、好きなものをたくさん食べさせるつもりだったのだと、母親は泣きながら話していた。
息子が帰る日を待ちながら、何を作ろうかと考えていたのだろう。戦が終われば家の仕事を手伝うと言っていた青年が、またあの家で暮らすことを疑っていなかったはずだ。
エレノアも、そう思っていた。
領内で顔を合わせれば挨拶をする、ただそれだけの相手だった。それでも、いつか帰ってくる人の一人だと思っていた。
もう二度と会わないのだと、今になってようやく実感した。
視界が滲んだ。
エレノアは目元を押さえ、しばらくそのまま動かなかった。母親の前では泣かないと決めていた。あの人があれほど悲しんでいるのに、自分まで泣くのは違うような気がしていたからだ。
けれど、もう誰もいない。
そう思った途端、堪えていたものが緩んだ。
頬を伝った涙を指先で拭う。それで終わると思ったのに、次の涙が落ちてきた。
そのとき、図書室の扉が開いた。
エレノアは慌てて顔を上げた。
入ってきたアレンも、彼女の姿を認めたところで足を止める。片手には一冊の本を持っていた。
「……エレノア?」
まさか誰かが来るとは思っていなかった。
エレノアは急いで頬を拭い、立ち上がろうとした。
「すみません」
「なぜ謝る」
「あ……」
言われて初めて、自分が何に対して謝ったのか分からなくなった。
アレンは手にしていた本とエレノアを見比べると、扉の前でわずかに迷った。
「出た方がいいか」
「いえ」
思ったより早く声が出た。
アレンがこちらを見る。
「……大丈夫です。少し、ここにいたかっただけなので」
大丈夫だと言いながら、また涙が頬を伝った。
これでは何の説得力もない。エレノアは困ったように笑い、もう一度目元を拭った。
「おかしいですね。もう大丈夫だと思っていたのですが」
アレンは何も言わず、図書室へ入った。
持っていた本を元の棚へ戻してからも、何があったのかとは聞かなかった。ただ少し離れた椅子を引き、そこへ腰を下ろす。
追い出すつもりも、慰めるつもりもないらしい。
その沈黙がありがたくて、エレノアはしばらく何も言わずにいた。
やがて、自分の方から口を開いた。
「……今日、亡くなった方のお母様にお会いしてきたんです」
「ああ」
「ずっと、帰ってくるのを待っていらしたそうです」
そこで言葉が途切れた。
エレノアは膝の上で両手を重ねた。涙は先ほどより落ち着いていたが、完全には止まっていない。
「帰ってきたら、好きなものをたくさん食べさせるつもりだったって。そんなお話をされていて……」
アレンは何も言わなかった。
戦地で人が死ぬことを、彼は知っている。
帰りを待つ者がいることも、その者のもとへ帰れない人間がいることも。
「その方は、ずっと泣いていらしたんです。だから私まで泣くわけにはいかないと思って」
エレノアは頬を拭い、ゆっくりと息を吐いた。
「屋敷に戻れば大丈夫だと思っていたんですけれど」
「そうは見えないが」
「……そうですね」
思わず小さく笑うと、アレンの表情がほんの少しだけ和らいだように見えた。
「私が泣いていると、みんな気にしますから」
「気にされるのは嫌なのか」
「嫌というわけではありません。ただ……心配をかけたくないんです」
誰かが悲しんでいれば、まずその人のことを考える。困っている人がいれば、自分にできることを探す。そうしているうちに、自分のことを後にするのは、エレノアにとって当たり前になっていた。
アレンはしばらく彼女を見ていた。
「ここには俺しかいない」
エレノアが顔を上げる。
「……アレン様は気になさらないんですか?」
「気にはなる」
「……では、同じではありませんか」
思わず返すと、アレンは少し黙った。
「だからといって、泣くなとは言っていない」
エレノアは何も言えなくなった。
慰められた、というのとは少し違う気がした。アレンは大丈夫だとも、悲しまなくていいとも言わなかった。
ただ、ここには自分しかいないと言っただけだった。
それでも、その言葉を聞いた途端、もう涙を隠さなくてもいいのだと思えた。
目元へ伸ばしかけていた手を下ろし、エレノアは小さく息を吐いた。
図書室には、時折ページが風に揺れる音だけがしていた。
アレンはそれ以上何も聞かなかった。
エレノアも話さなかった。
ただ同じ部屋にいるだけの時間が、今はありがたかった。




