74
ある日、夕食を終えたエレノアは、アレクシスとともに書斎で過ごしていた。
机の上には、先日見せてもらった深緑色の本が置かれている。五年前、リーヴェで一緒に読んだ本だ。
エレノアはその表紙を眺めていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「アレクシス様。この本、お父様にお返ししなくてもよろしいのでしょうか」
書類を片づけていたアレクシスが顔を上げる。
「そうだな。ずいぶん長く借りたままになっている」
「ふふ。お父様も、まさか五年間もお貸ししているとは思っていらっしゃらないでしょうね」
「次に会ったときには謝らなければならないな」
アレクシスが真面目な顔で答えるので、エレノアは思わず笑ってしまった。
「きっと、お父様もお許しくださいますよ」
そう言って本を手に取ると、表紙の擦れた部分を指でなぞった。
「でも、少し不思議です。アレクシス様が、ずっとこの本をお持ちだったなんて」
「不思議か?」
「ええ。リーヴェを離れてからも、時々読んでいらっしゃったのですか?」
アレクシスは少し考えてから頷いた。
「何度か開いたことはある」
「そうだったのですね」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
「私も、あの頃のことを時々思い出していました。お庭を歩いたことや、東屋でお話ししたこと。それから、一緒に本を読んだことも」
「……そうか」
「はい。でも、アレクシス様はお忙しかったでしょう? 戦争も続いていましたし、私のことなど、すっかりお忘れになっているのではないかと思っていました」
その言葉に、アレクシスの手が止まった。
「忘れたことなど、一度もない」
思いがけず強い口調で返され、エレノアは驚いて顔を上げた。
アレクシスは彼女を見つめていた。
「……一度も、ですか?」
「ああ」
彼は椅子から立ち上がると、エレノアの隣に腰を下ろした。
「リーヴェを離れたあとも、何度も君のことを思い出した。あの庭も、東屋も、君が楽しそうに話していたことも」
エレノアは本を膝に置いた。
「私は……あの日、アレクシス様が抱きしめてくださったことを、ずっと覚えていました」
アレクシスの表情がわずかに変わった。
「だから、私のことを少しは特別に思ってくださっているのかもしれないと……。でも、何もおっしゃらなかったでしょう? 私が勝手にそう思っていただけなのかもしれないと、何度も考えました」
「そう思わせていたのなら、俺のせいだな」
アレクシスは苦笑した。
「当時は、君に何も話せなかった。身分も、仕事のことも、これから自分がどうなるのかさえ分からなかったからな」
「……はい」
「それでも、最後に君を抱きしめずにはいられなかった。あのとき、離れたくないと思っていたのは俺の方だ」
エレノアは驚いて彼を見つめた。
「アレクシス様……」
「君に何も告げずに去るべきだと思っていた。だが、あの瞬間だけは、自分の気持ちを抑えられなかった」
エレノアは胸元に手を添えた。
五年前、彼の腕に包まれたときの温かさを、今でも覚えている。別れが悲しくて、少しでも長くそばにいたくて、あのときは自分の気持ちだけで精いっぱいだった。
まさか彼も同じ想いでいてくれたとは、知らなかった。
「……私も、離れたくありませんでした」
エレノアが打ち明けると、アレクシスは静かに頷いた。
「分かっていた。だからこそ、つらかった」
しばらく二人は言葉を交わさなかった。
やがてエレノアは、ずっと胸の奥にあった疑問を口にした。
「アレクシス様。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「どうして……私だったのですか?」
アレクシスはすぐには答えなかった。
エレノアは少し恥ずかしくなりながらも、言葉を続けた。
「アレクシス様なら、きっと素敵なご令嬢との出会いもたくさんあったでしょう。それなのに、五年も前にリーヴェで出会った私のことを、ずっと覚えていてくださったなんて……」
彼はしばらく考えてから、口を開いた。
「最初は、君のことを不思議な娘だと思っていた」
「不思議、ですか?」
「ああ。俺が何者なのかも知らず、ただの療養中の客人として接してくれた。体調を気遣ってくれたかと思えば、庭に咲いた花のことを嬉しそうに話し、時には俺が知らない本の話まで聞かせてくれた」
エレノアは懐かしそうに笑った。
「私、ずいぶんおしゃべりでしたね」
「そうだな」
アレクシスがあっさり頷いたので、エレノアは少し頬を膨らませた。
「そこは否定してくださってもよろしいのに」
「だが、君の話を聞くのは好きだった」
その一言に、エレノアは口を閉じた。
「戦地では、誰もが俺に判断を求めた。間違えることは許されず、弱さを見せることもできなかった。リーヴェへ来たときも、身体を休めることだけを考えていたんだ」
アレクシスは、遠い日のことを思い出すように目を細めた。
「だが、君は違った。俺が何も話さなくても、無理に聞き出そうとはしなかった。それでいて、退屈していないかと本を持ってきたり、庭へ誘ってくれたりした」
「……覚えていてくださったのですね」
「もちろんだ」
彼は穏やかに続けた。
「君といると、戦争のことを考えずに済む時間があった。誰かの期待に応えようとする必要もなく、ただ一人の人間として過ごせたんだ」
エレノアは黙って耳を傾けた。
「最初は、それが心地よかった。だが、いつの間にか、君が来るのを待つようになっていた。廊下から足音が聞こえると、今日はどんな話をするのだろうと考えていた」
「そんなことを……」
「君が笑うと嬉しかった。何かに悩んでいれば、力になりたいと思った。君の話をもっと聞きたいし、俺の知らない君のことも知りたかった」
アレクシスはそこで小さく息をついた。
「気づけば、療養が終わることを惜しんでいた。早く戦地へ戻らなければならないと分かっているのに、もう少しだけ君のそばにいたかった」
エレノアの目に涙が浮かんだ。
「……私も、アレクシス様が帰ってしまう日が来なければいいのにと思っていました」
「そうか」
「はい。お身体が良くなるのは嬉しいのに、お別れが近づくのは寂しくて……。そんなことを思ってはいけないと、自分に言い聞かせていました」
アレクシスは彼女の言葉を聞き、少し切なそうに微笑んだ。
「俺も同じだったな」
エレノアは目元を押さえた。
「もっと早く、お話しできていたらよかったですね」
「そうだな。だが、あのときの俺には、君を待っていてくれとは言えなかった」
アレクシスの声が少し低くなった。
「リーヴェを離れたあと、戦況はさらに厳しくなった。君の暮らす土地がどうなっているのか、気にならない日はなかった」
「アレクシス様……」
「無事でいてほしかった。君も、君の家族も」
アレクシスは一度言葉を切った。
「何度か手紙を書こうとしたこともある。だが、何を書けばいいのか分からなかった」
「お手紙を……?」
「ああ。アレンという名で出すわけにもいかず、かといって本当の身分を明かせば、君を困らせるかもしれないと思った」
エレノアは驚いたまま、彼を見つめていた。
そんなことがあったとは、少しも知らなかった。
「それに、戦争が終わるまでは、君に何かを約束することもできなかった」
アレクシスは静かに続けた。
「だから、せめて生きて帰ろうと思った。君と交わした約束を、守るためにも」
エレノアの胸が、きゅっと締めつけられた。
五年前、別れの日に交わした言葉。
あの約束を、彼もずっと覚えていてくれたのだ。
「私も……覚えていました」
エレノアは小さな声で答えた。
「アレン様が、どうかご無事でいらっしゃいますようにと、何度も願っていました」
アレクシスの表情が和らいだ。
「ありがとう」
「でも、まさか……そんなふうに想ってくださっていたなんて」
エレノアは視線を落とした。
「私、何も知らなかったのですね」
「知らなくて当然だ。何も伝えていなかったんだからな」
アレクシスは穏やかに答えた。
「戦争が終わって、王都へ戻ったあとも、君のことが頭から離れなかった」
彼の声は落ち着いていたが、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けられた。
「父が亡くなり、侯爵家を継いでからは、以前にも増して忙しくなった。それでも、いつかリーヴェへ行きたいと思っていた」
「……はい」
「君に会いたかった」
エレノアは息をのんだ。
アレクシスは、彼女から目を逸らさなかった。
「五年も経てば、君は俺のことなど忘れているかもしれない。別の誰かと幸せになっているかもしれない。そう考えたこともあった」
「そんな……」
「だが、もしまだ間に合うのなら、今度こそ君を迎えに行きたかった」
エレノアの目に、じわりと涙が浮かんだ。
「それで……お父様に、お手紙を?」
「ああ。王宮の舞踏会より半年前に、君の父上へ書簡を送った」
エレノアは頷いた。
その話は、以前にも聞いていた。
けれど今、改めてその理由を聞くと、胸に込み上げてくるものがあった。
「君が王都へ来ると知って、舞踏会へ行くことにした。あの日、君を見つけたときは……」
アレクシスはそこで小さく笑った。
「思っていた以上に、嬉しかった」
「私も、驚きました。まさかアレクシス様が、あのアレン様だったなんて」
「あのときは、驚かせてしまったな」
「本当です」
エレノアは涙を浮かべたまま笑った。
「それに、侯爵様だと知って……私には遠い方なのだと思ってしまいました」
「遠い?」
「はい。私よりもずっと身分の高い方で、きっと相応しいご令嬢がいらっしゃるのだろうと」
アレクシスは静かに首を振った。
「俺が妻に望んだのは、君だけだ」
エレノアの頬を涙が伝った。
「……そんなことを言われたら、泣いてしまいます」
「もう泣いているだろう」
アレクシスが少し笑うと、エレノアもつられて笑った。
「もう……アレクシス様ったら」
彼はそっと彼女を抱き寄せた。
エレノアはその胸に顔を寄せ、しばらく何も言わずにいた。
五年前、何も知らずに別れた青年が、自分のことをずっと想っていてくれた。
その事実が、嬉しくてたまらなかった。
「……私、幸せです」
やがて、エレノアは小さく呟いた。
「こうしてアレクシス様のおそばにいられることが、本当に幸せです」
「俺もだ」
アレクシスは彼女を抱きしめたまま答えた。
「君と再会できて、よかった」
エレノアは顔を上げた。
「アレクシス様」
「ん?」
「五年前の私に教えてあげたいです」
「何を?」
「一緒に本を読んでいたあの方が、いつか私の旦那様になるのよ、って」
アレクシスは少し驚いたあと、声を立てて笑った。
「それを聞いた君は、信じるだろうか」
「きっと信じません」
エレノアも笑った。
「でも、すごく嬉しいと思います」
アレクシスは愛おしそうに彼女を見つめた。
「なら、五年前の俺にも教えてやりたいな」
「何を、ですか?」
「諦めずにいてよかった、と」
エレノアは再び目を潤ませた。
「……はい」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。
机の上には、五年前から大切にされてきた本がある。
あの頃、言葉にできなかった想いは、長い歳月を経て、ようやくエレノアのもとへ届いた。
そして今、二人は同じ場所で、同じ未来を見つめている。
エレノアはアレクシスに寄り添いながら、静かに微笑んだ。




