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その日は、朝から雨が降っていた。
侯爵邸の庭はしっとりと濡れ、窓の向こうでは木々の葉から雫が落ちている。
エレノアは朝食を終えると、寝室の窓辺に立ち、庭を眺めていた。
「今日はお庭に出られそうにありませんね」
ローザが衣装棚を整えながら言った。
「そうね。でも、雨の日も嫌いではないわ」
「奥様は、どんなお天気でも楽しみを見つけられますね」
「ふふ。そんなことないわよ」
エレノアは窓から離れ、椅子に腰を下ろした。
「昔、リーヴェでもこんな雨の日があったの。アレクシス様とお庭を歩く約束をしていたのだけれど、雨が降ってしまって」
「まあ、旦那様とでございますか?」
「ええ。結局、外には出られなかったわ。でも、お部屋で一緒に本を読んだの。あの頃はまだ、こうして夫婦になるなんて思ってもいなかった…」
エレノアは懐かしそうに微笑んだ。
「アレクシス様はあまりお話しにならない方だったから、最初は何を話せばいいのか分からなくて。でも、本のお話をしているうちに、少しずつ会話が増えたのよ」
「素敵な思い出でございますね」
「ええ」
エレノアは頷いた。
「今思えば、あの頃からずっと優しい方だったのね」
ローザは微笑みながら、衣装棚の扉を閉めた。
「旦那様も、奥様と過ごされた日々を大切に思っていらっしゃるのでしょうね」
「そうだと嬉しいわね」
エレノアは少し照れたように笑った。
◇
午後になっても、雨はやまなかった。
エレノアは書斎の本棚から一冊の本を借り、居間で読んでいた。
何気なく手に取った物語だったが、読み進めるうちに、ふと懐かしい場面を思い出した。
五年前、アレクシスと一緒に読んだ本にも、似たような場面があったのだ。
あのときは、物語の登場人物がなぜそんな行動をしたのか分からず、アレクシスに尋ねたことがあった。
彼は少し考えてから、自分なりの解釈を話してくれた。
その答えが意外で、エレノアは何度も質問を重ねたのだった。
「……懐かしい」
本を閉じると、エレノアは小さく笑った。
今なら、あのときの彼の答えを少し違った気持ちで聞けるかもしれない。
そう思うと、帰宅したアレクシスに話してみたくなった。
◇
夕方、雨はようやく小降りになった。
エレノアが書斎から借りた本を戻そうと廊下を歩いていると、向こうからアレクシスがやって来た。
「エレノア」
「あっ、アレクシス様。お帰りなさいませ」
「ああ。その本は?」
「書斎からお借りしたものです。今日は雨でしたので、お部屋で読書をしておりました」
「そうか。面白かったか?」
「はい。それに、少し懐かしいことを思い出したのです」
アレクシスは彼女の表情を見て、興味深そうに尋ねた。
「何を思い出した?」
「五年前、リーヴェで一緒に本を読んだ日のことです」
その言葉に、アレクシスはわずかに目を細めた。
「……覚えているのか」
「もちろんです。アレクシス様とお話しするのが楽しくて、つい何度も質問してしまったでしょう?」
エレノアは少し恥ずかしそうに笑った。
「今思えば、ずいぶんお邪魔をしていたのではないかと思うのです」
「そんなことはない」
返事はすぐに返ってきた。
「君と話すのは楽しかった」
エレノアは嬉しそうに顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ」
「よかった。あの頃のアレクシス様は、あまり表情を変えられなかったので、私ばかり楽しんでいるのではないかと思っていました」
アレクシスは少し困ったように笑った。
「そう見えていたのか」
「ええ。最初の頃は特に」
「……それは、悪かったな」
「いいえ。今となっては、懐かしい思い出です」
エレノアが笑うと、アレクシスも口元を緩めた。
「その本を戻すところだったのか?」
「はい」
「なら、俺も書斎へ行こう。少し休憩したいと思っていたところだ」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
◇
書斎に入ると、アレクシスは本棚の一角へ目を向けた。
「そういえば、君に見せたいものがある」
「私に、ですか?」
「ああ。少し待っていてくれ」
アレクシスは棚の奥から、一冊の古い本を取り出した。
深い緑色の表紙は少し擦れていたが、大切に保管されていたことが分かる。
エレノアはその本を見て、目を丸くした。
「……これ」
「覚えているか?」
「はい。リーヴェで、一緒に読んだ本です」
エレノアは思わず本へ近づいた。
「どうして、こちらに?」
「俺が持って帰った」
「まあ……!」
エレノアは驚いたようにアレクシスを見上げた。
「てっきり、リーヴェのお屋敷にあるものだと思っていました」
「父上に借りたままだったんだ。返そうと思っていたが、機会を逃してしまってな」
アレクシスは本の表紙をそっと撫でた。
「それに、手元に置いておきたかった」
「そうだったのですね」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
「では、五年間ずっと大切にしてくださっていたのですね」
「……ああ」
アレクシスの返事は短かった。
エレノアは本を開き、懐かしい文字を目で追った。
「ここです。このお話を読んでいたとき、私、アレクシス様に何度も質問しました」
「覚えている」
「本当ですか?」
「ああ。君は登場人物の気持ちを、どうしても知りたがっていた」
「だって、どうしてそんなことをするのか、分からなかったのですもの」
エレノアは笑った。
「アレクシス様は、私が思いつかないような答えをくださったでしょう?」
「そうだったか?」
「ええ。あのとき、とても大人の方なのだと思いました」
「君から見れば、そうだったかもしれないな」
エレノアは本の頁をゆっくりとめくった。
五年前の自分は、まさかこの人と夫婦になるとは思っていなかった。
ただ、一緒に本を読んで、話をする時間が楽しかった。
あの時は、それだけで十分だったのだ。
◇
しばらくして、二人は書斎の長椅子に並んで腰を下ろした。
エレノアは本を膝に広げ、気になった箇所を指さした。
「アレクシス様、覚えていらっしゃいますか? この登場人物が、なかなか本当の気持ちを伝えられないところです」
「ああ」
「私、あの頃はどうして言わないのか不思議だったのです。好きなら好きと伝えればいいのに、って」
アレクシスは彼女を見た。
「今は違うのか?」
「……少しだけ」
エレノアは考えるように視線を落とした。
「気持ちを伝えるのは、思っていたより勇気がいることなのですね。相手にどう思われるのか、分からないこともありますし」
「そうだな」
「でも、言葉にしなければ伝わらないこともあります」
エレノアは顔を上げ、アレクシスに微笑んだ。
「私は、アレクシス様にきちんと気持ちを伝えられるようになりたいです」
アレクシスはしばらく彼女を見つめていた。
「……君は、十分伝えてくれていると思うが」
「そうでしょうか?」
「ああ」
エレノアは少し照れたように笑った。
「では、これからもたくさんお伝えしますね」
「楽しみにしている」
窓の外では、いつの間にか雨がやんでいた。
エレノアは本を閉じ、窓の向こうへ目を向けた。
「雨が上がりましたね」
「ああ」
「五年前も、こんなふうに雨がやんだあと、一緒にお庭を歩きましたね」
「覚えている」
「ふふ。アレクシス様は、何でも覚えていらっしゃるのですね」
アレクシスはすぐには答えなかった。
エレノアが不思議そうに振り向くと、彼は静かに微笑んだ。
「……君とのことだからな」
エレノアは頬を赤らめた。
「もう……またそんなことをおっしゃるのですから」
彼女は照れくさそうに笑い、再び本を開いた。
アレクシスは隣に座ったまま、懐かしい頁を眺めていた。
五年前、あの屋敷で過ごした時間。
エレノアにとっては、心に残る優しい思い出の一つだった。
けれど、アレクシスにとっては、それだけではなかった。
あの頃、彼女に告げられなかった言葉がある。
そして、その言葉を胸にしまったまま、彼は五年という歳月を過ごしてきた。
今なら、伝えられるだろうか。
アレクシスは隣で本を読むエレノアを見つめ、静かに考えていた。




