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冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


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リーヴェへ手紙を送ってから、十日ほどが過ぎた。


その間、エレノアは侯爵夫人としての日々の務めをこなしながら、父からの返事を待っていた。

庭の木々は日に日に色づき、朝晩には肌寒さを感じるようになっている。ローザが用意するお茶も、冷たいものから温かなものへと変わっていた。


その日の午後、エレノアが居間で刺繍をしていると、ローザが一通の手紙を持ってきた。


「奥様、リーヴェからお便りが届いております」


「まあ、お父様から?」


エレノアは刺繍枠を置き、差し出された封筒を受け取った。


見慣れた父の筆跡を確かめると、さっそく封を開く。

手紙には、前回知らせてくれた街道の補修状況に加え、エレノアが尋ねた町の仕事についても詳しく書かれていた。


かつて布を織っていた家の中には、今も道具を保管しているところがあるという。戦争によって家屋や作業場を失った人も多かったが、使える織機を持ち寄り、細々と仕事を続けている者たちもいた。

刺繍を得意とする女性たちも何人か残っており、衣服の繕いや小物作りを請け負っているらしい。


ただ、以前のように商売として成り立たせるには、問題が多かった。

糸や布地の入手が難しく、材料の値段も上がっている。注文があったとしても、必要な量を揃えられるとは限らない。


さらに、仕事を再開したいと考えていても、家族の世話や畑仕事に追われ、十分な時間を取れない人もいるという。


エレノアは手紙を読み進めながら、何度か小さく頷いた。

思っていた以上に、簡単なことではなさそうだった。


それでも、最後の方に書かれた一文が目に留まった。


『町の者たちに尋ねてみたところ、仕事があるのなら、また布を織りたい、刺繍をしたいという声も聞かれた。すぐに以前のような商いができるわけではないが、皆、何かできることはないかと考えているようだ』


「……そうなのね」


エレノアは手紙をそっと机に置いた。


「奥様?」


ローザが顔を上げる。


「お父様が、町の方々に話を聞いてくださったの。以前のように布を織ったり、刺繍をしたりしたいと考えている方がいらっしゃるそうよ」


「まあ。それはよろしゅうございましたね」


「ええ。でも、材料が足りなくて、仕事を再開するのも難しいみたい」


エレノアは自分の膝に置いた刺繍枠へ目を向けた。


白い布には、小さな花の模様が途中まで縫われている。糸も針も、必要なものはすべて揃っていた。

何気なく使っている道具が、故郷では簡単に手に入らない。


そう考えると、今までとは少し違って見えた。


「ローザ、この刺繍糸は、いつもどちらで買っているの?」


「王都の手芸店でございます。屋敷で使うものは、まとめて注文しておりますが」


「そう……」


エレノアは少し考えた。


「今度、そのお店のことを教えてもらえるかしら」


「もちろんでございます」


ローザは頷いたあと、机の上の手紙を見た。


「奥様、何かお考えなのですね」


「ええ。でも、まだ考えているだけよ」


エレノアは笑った。


「まずは、何ができるのかを調べてみたいの」



◇



数日後、エレノアは王都の商店街にある手芸店を訪れていた。


ローザと従者を伴い、店主に案内されながら、棚に並ぶ布や糸を眺めていく。

色とりどりの刺繍糸が整然と並び、奥には厚手の布地や織物も積まれていた。


「こちらは、最近よくお求めいただく糸でございます」


店主が差し出した糸束を、エレノアは手に取った。


「綺麗な色ですね。これだけ種類があると、選ぶのも楽しそうです」


「ありがとうございます。奥様は刺繍をなさるのでしょうか?」


「ええ。まだ上手ではありませんけれど」


そう答えると、店主はにこやかに笑った。


エレノアはしばらく品物を見せてもらったあと、仕入れについて尋ねた。

糸や布地をまとめて購入する場合、どの程度の量から注文できるのか。王都以外の町へ届けてもらうことは可能なのか。


店主は少し意外そうな顔をしたものの、丁寧に答えてくれた。


「まとまったご注文でしたら、お値段のご相談もできます。ただ、遠方へのお届けとなりますと、運搬の費用がかかりますので」


「そうですよね」


「それに、品物によっては取り寄せに時間が必要でございます」


エレノアは頷き、ローザが控えていた内容を確認した。

そこで、もう一つ気になっていたことを尋ねてみることにした。


「こちらのお店では、ほかの町で作られた刺繍や布製品を扱うこともございますか?」


「はい。職人から直接仕入れることもございます。ただ、品物を拝見してからの判断になりますが」


「そうなのですね」


「奥様、何かお探しでございますか?」


エレノアは少し迷ったあと、故郷のことを簡単に説明した。


戦争によって仕事を失った人々がいること。今も布を織ったり、刺繍をしたりしている人たちがいること。


店主は真剣な表情で耳を傾けていた。


「なるほど……。実際にどのようなお品物を作られているのか分かれば、お取り扱いを検討することはできます」


「本当ですか?」


「もちろん、必ずお約束できるわけではございませんが」


「それで十分です。ありがとうございます」


エレノアは嬉しそうに微笑んだ。


まだ、何かが決まったわけではない。

けれど、もしリーヴェで作られた品物を王都の店に並べることができたら。

そんな可能性を知ることができただけでも、今日ここへ来た意味があったように思えた。


店を出ると、エレノアは手元の控えを見つめた。


「ローザ、来てよかったわ」


「はい。よいお話を伺えましたね」


「ええ。まだ分からないことばかりだけれど、少し楽しみになってきたわ」


エレノアは控えを大切にしまい、馬車へと向かった。



◇



その日の夕方、エレノアはアレクシスの書斎を訪れていた。


帰宅後、仕事の報告を確認していたアレクシスは、扉を叩く音に顔を上げた。


「入っていいぞ」


「失礼いたします」


エレノアが顔を覗かせると、アレクシスは机の上の書類を閉じた。


「どうした?」


「お仕事の途中でしたか?」


「いや、ちょうど一区切りついたところだ」


「それでしたら、少しだけお話ししてもよろしいでしょうか」


「もちろんだ」


アレクシスが隣の椅子を勧めると、エレノアは嬉しそうに腰を下ろした。


「実は今日、王都の手芸店へ行ってまいりました」


「手芸店?」


「はい。リーヴェのことなのですが……」


エレノアは父から届いた手紙と、店で教えてもらった内容を説明した。

アレクシスは彼女が差し出した控えに目を通した。


「なるほど。材料の仕入れ先を調べていたのか」


「はい。それと、お店で作った品物を扱っていただけるかどうかも尋ねてみました」


「それで?」


「実際に品物を見てからにはなるそうですが、検討していただけるかもしれないと」


エレノアは少し嬉しそうに笑った。


「まだ何も決まっていないのに、気が早いでしょうか」


「いや。売る先のことまで考えたのは、よいことだと思う」


アレクシスは控えを机に置いた。


「ただ、リーヴェで今どの程度の品物を作れるのかは、確認が必要だな」


「ええ。私もそう思いました。お父様のお手紙には、使える織機が残っていると書かれていましたけれど、実際にどのくらい作れるのかまでは分かりませんから」


「そうだな」


「ですから、まずは少しだけ作っていただいて、お店の方に見ていただくのはどうでしょう?」


アレクシスは彼女を見た。


「それはいい考えだ」


「本当ですか?」


「ああ。最初から大量に作る必要はない。少しずつ試してみればいい」


エレノアはほっとしたように微笑んだ。


「よかった。私、また何か大切なことを見落としているのではないかと思って」


「見落としていたとしても、気づいたときに考えればいい」


「……そうですね」


エレノアは小さく笑った。


「以前は、何もかも最初からきちんとしなければと思っていました。でも、最近は少しだけ考え方が変わった気がします」


「そうか」


「はい。分からないことは、分かる方に教えていただけばいいのですよね」


アレクシスは満足そうに頷いた。


「その通りだ」


エレノアは控えを手に取り、楽しそうに眺めた。


「まずはお父様に、どのような品物が作れるのか尋ねてみます。それから、お店の方にも改めてご相談できればと思って」


「俺の方でも、リーヴェへ品物を運べる商人がいないか調べておこう」


「ありがとうございます。アレクシス様には、いつも助けていただいてばかりですね」


「俺も、リーヴェの家族の一人だろう?」


エレノアは顔を上げた。


その言葉は、婚約していた頃にも聞いたことがあった。

アレクシスはあのときから、リーヴェを彼女だけの故郷としてではなく、自分にとっても大切な場所だと言ってくれていた。


「……はい」


エレノアは嬉しそうに微笑んだ。


「そうでしたね。では、これからも一緒に考えていただけますか?」


「もちろんだ」


アレクシスは微笑み、彼女の嬉しそうな顔を眺めていた。



◇



夕食を終えたあと、エレノアは寝室で昼間の刺繍の続きをしていた。


長椅子に腰を下ろし、膝の上に布を広げている。

アレクシスは少し離れたところで書類に目を通していたが、ふと顔を上げた。


「何を縫っているんだ?」


「小さな花です。見ていただけますか?」


エレノアが差し出した布には、鮮やかな青い花がいくつか並んでいた。


「綺麗だな」


「ありがとうございます。まだ途中なのですけれど」


アレクシスは布に縫われた花を眺めた。


「ずいぶん慣れた手つきだな」


「リーヴェにいた頃、いろいろなお手伝いをしていたでしょう? その中で繕い物もするようになったのです。最初は針を刺す場所も揃わなくて、何度もやり直していました」


エレノアは懐かしそうに笑った。


「破れた服を直したり、ほつれたところを縫ったり。そうしているうちに、少しずつ上達したのだと思います」


「そうだったのか」


「でも、刺繍はまだまだです。繕い物と違って、綺麗に模様を作るのは難しいですね」


「俺には十分綺麗に見えるが」


「ふふ。アレクシス様は、私に甘いのです」


「今さらだな」


あまりにも当然のように言われ、エレノアは思わず笑ってしまった。


「もう。否定なさらないのですね」


「否定する理由がない」


アレクシスはそう言って、彼女の隣へ腰を下ろした。


しばらくエレノアが針を動かす様子を眺めていたが、やがて机に置かれた糸束へ目を向けた。


「その青い糸は、今日買ったものか?」


「はい。お店で見つけて、綺麗だったので一つだけ買ってしまいました」


「気に入ったのか?」


「ええ。リーヴェで見た花の色に、少し似ている気がして」


エレノアは布を持ち上げ、刺繍の花を眺めた。


「いつか、リーヴェの方々が作ったものを、王都のお店にも並べてもらえたら素敵ですね」


「そうだな」


「今日、店主の方にお話を伺って、少しだけその光景が想像できたのです」


エレノアは楽しそうに続けた。


「王都の方がリーヴェの刺繍を手に取って、綺麗だと思ってくださったら……きっと、作った方も嬉しいでしょうね」


アレクシスは彼女の横顔を見つめていた。


「君は、そういうことを考えるのが好きなんだな」


「そうでしょうか?」


「ああ。誰かが喜ぶところを想像すると、すぐに顔に出る」


「まあ……そんなに分かりやすいですか?」


「とても」


エレノアは照れくさそうに笑い、再び針を動かし始めた。


「それでは、アレクシス様に隠し事はできませんね」


「何か隠しているのか?」


「いいえ。何もございません」


慌てて答えるエレノアを見て、アレクシスは小さく笑った。


「なら、安心だ」


「もう、からかわないでくださいませ」


エレノアは笑いながら、途中になっていた花の続きを縫い始めた。

ひと針ずつ、青い花びらが形になっていく。

アレクシスは隣でその様子を眺めながら、時折、彼女の話に耳を傾けていた。




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