72
リーヴェへ手紙を送ってから、十日ほどが過ぎた。
その間、エレノアは侯爵夫人としての日々の務めをこなしながら、父からの返事を待っていた。
庭の木々は日に日に色づき、朝晩には肌寒さを感じるようになっている。ローザが用意するお茶も、冷たいものから温かなものへと変わっていた。
その日の午後、エレノアが居間で刺繍をしていると、ローザが一通の手紙を持ってきた。
「奥様、リーヴェからお便りが届いております」
「まあ、お父様から?」
エレノアは刺繍枠を置き、差し出された封筒を受け取った。
見慣れた父の筆跡を確かめると、さっそく封を開く。
手紙には、前回知らせてくれた街道の補修状況に加え、エレノアが尋ねた町の仕事についても詳しく書かれていた。
かつて布を織っていた家の中には、今も道具を保管しているところがあるという。戦争によって家屋や作業場を失った人も多かったが、使える織機を持ち寄り、細々と仕事を続けている者たちもいた。
刺繍を得意とする女性たちも何人か残っており、衣服の繕いや小物作りを請け負っているらしい。
ただ、以前のように商売として成り立たせるには、問題が多かった。
糸や布地の入手が難しく、材料の値段も上がっている。注文があったとしても、必要な量を揃えられるとは限らない。
さらに、仕事を再開したいと考えていても、家族の世話や畑仕事に追われ、十分な時間を取れない人もいるという。
エレノアは手紙を読み進めながら、何度か小さく頷いた。
思っていた以上に、簡単なことではなさそうだった。
それでも、最後の方に書かれた一文が目に留まった。
『町の者たちに尋ねてみたところ、仕事があるのなら、また布を織りたい、刺繍をしたいという声も聞かれた。すぐに以前のような商いができるわけではないが、皆、何かできることはないかと考えているようだ』
「……そうなのね」
エレノアは手紙をそっと机に置いた。
「奥様?」
ローザが顔を上げる。
「お父様が、町の方々に話を聞いてくださったの。以前のように布を織ったり、刺繍をしたりしたいと考えている方がいらっしゃるそうよ」
「まあ。それはよろしゅうございましたね」
「ええ。でも、材料が足りなくて、仕事を再開するのも難しいみたい」
エレノアは自分の膝に置いた刺繍枠へ目を向けた。
白い布には、小さな花の模様が途中まで縫われている。糸も針も、必要なものはすべて揃っていた。
何気なく使っている道具が、故郷では簡単に手に入らない。
そう考えると、今までとは少し違って見えた。
「ローザ、この刺繍糸は、いつもどちらで買っているの?」
「王都の手芸店でございます。屋敷で使うものは、まとめて注文しておりますが」
「そう……」
エレノアは少し考えた。
「今度、そのお店のことを教えてもらえるかしら」
「もちろんでございます」
ローザは頷いたあと、机の上の手紙を見た。
「奥様、何かお考えなのですね」
「ええ。でも、まだ考えているだけよ」
エレノアは笑った。
「まずは、何ができるのかを調べてみたいの」
◇
数日後、エレノアは王都の商店街にある手芸店を訪れていた。
ローザと従者を伴い、店主に案内されながら、棚に並ぶ布や糸を眺めていく。
色とりどりの刺繍糸が整然と並び、奥には厚手の布地や織物も積まれていた。
「こちらは、最近よくお求めいただく糸でございます」
店主が差し出した糸束を、エレノアは手に取った。
「綺麗な色ですね。これだけ種類があると、選ぶのも楽しそうです」
「ありがとうございます。奥様は刺繍をなさるのでしょうか?」
「ええ。まだ上手ではありませんけれど」
そう答えると、店主はにこやかに笑った。
エレノアはしばらく品物を見せてもらったあと、仕入れについて尋ねた。
糸や布地をまとめて購入する場合、どの程度の量から注文できるのか。王都以外の町へ届けてもらうことは可能なのか。
店主は少し意外そうな顔をしたものの、丁寧に答えてくれた。
「まとまったご注文でしたら、お値段のご相談もできます。ただ、遠方へのお届けとなりますと、運搬の費用がかかりますので」
「そうですよね」
「それに、品物によっては取り寄せに時間が必要でございます」
エレノアは頷き、ローザが控えていた内容を確認した。
そこで、もう一つ気になっていたことを尋ねてみることにした。
「こちらのお店では、ほかの町で作られた刺繍や布製品を扱うこともございますか?」
「はい。職人から直接仕入れることもございます。ただ、品物を拝見してからの判断になりますが」
「そうなのですね」
「奥様、何かお探しでございますか?」
エレノアは少し迷ったあと、故郷のことを簡単に説明した。
戦争によって仕事を失った人々がいること。今も布を織ったり、刺繍をしたりしている人たちがいること。
店主は真剣な表情で耳を傾けていた。
「なるほど……。実際にどのようなお品物を作られているのか分かれば、お取り扱いを検討することはできます」
「本当ですか?」
「もちろん、必ずお約束できるわけではございませんが」
「それで十分です。ありがとうございます」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
まだ、何かが決まったわけではない。
けれど、もしリーヴェで作られた品物を王都の店に並べることができたら。
そんな可能性を知ることができただけでも、今日ここへ来た意味があったように思えた。
店を出ると、エレノアは手元の控えを見つめた。
「ローザ、来てよかったわ」
「はい。よいお話を伺えましたね」
「ええ。まだ分からないことばかりだけれど、少し楽しみになってきたわ」
エレノアは控えを大切にしまい、馬車へと向かった。
◇
その日の夕方、エレノアはアレクシスの書斎を訪れていた。
帰宅後、仕事の報告を確認していたアレクシスは、扉を叩く音に顔を上げた。
「入っていいぞ」
「失礼いたします」
エレノアが顔を覗かせると、アレクシスは机の上の書類を閉じた。
「どうした?」
「お仕事の途中でしたか?」
「いや、ちょうど一区切りついたところだ」
「それでしたら、少しだけお話ししてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
アレクシスが隣の椅子を勧めると、エレノアは嬉しそうに腰を下ろした。
「実は今日、王都の手芸店へ行ってまいりました」
「手芸店?」
「はい。リーヴェのことなのですが……」
エレノアは父から届いた手紙と、店で教えてもらった内容を説明した。
アレクシスは彼女が差し出した控えに目を通した。
「なるほど。材料の仕入れ先を調べていたのか」
「はい。それと、お店で作った品物を扱っていただけるかどうかも尋ねてみました」
「それで?」
「実際に品物を見てからにはなるそうですが、検討していただけるかもしれないと」
エレノアは少し嬉しそうに笑った。
「まだ何も決まっていないのに、気が早いでしょうか」
「いや。売る先のことまで考えたのは、よいことだと思う」
アレクシスは控えを机に置いた。
「ただ、リーヴェで今どの程度の品物を作れるのかは、確認が必要だな」
「ええ。私もそう思いました。お父様のお手紙には、使える織機が残っていると書かれていましたけれど、実際にどのくらい作れるのかまでは分かりませんから」
「そうだな」
「ですから、まずは少しだけ作っていただいて、お店の方に見ていただくのはどうでしょう?」
アレクシスは彼女を見た。
「それはいい考えだ」
「本当ですか?」
「ああ。最初から大量に作る必要はない。少しずつ試してみればいい」
エレノアはほっとしたように微笑んだ。
「よかった。私、また何か大切なことを見落としているのではないかと思って」
「見落としていたとしても、気づいたときに考えればいい」
「……そうですね」
エレノアは小さく笑った。
「以前は、何もかも最初からきちんとしなければと思っていました。でも、最近は少しだけ考え方が変わった気がします」
「そうか」
「はい。分からないことは、分かる方に教えていただけばいいのですよね」
アレクシスは満足そうに頷いた。
「その通りだ」
エレノアは控えを手に取り、楽しそうに眺めた。
「まずはお父様に、どのような品物が作れるのか尋ねてみます。それから、お店の方にも改めてご相談できればと思って」
「俺の方でも、リーヴェへ品物を運べる商人がいないか調べておこう」
「ありがとうございます。アレクシス様には、いつも助けていただいてばかりですね」
「俺も、リーヴェの家族の一人だろう?」
エレノアは顔を上げた。
その言葉は、婚約していた頃にも聞いたことがあった。
アレクシスはあのときから、リーヴェを彼女だけの故郷としてではなく、自分にとっても大切な場所だと言ってくれていた。
「……はい」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
「そうでしたね。では、これからも一緒に考えていただけますか?」
「もちろんだ」
アレクシスは微笑み、彼女の嬉しそうな顔を眺めていた。
◇
夕食を終えたあと、エレノアは寝室で昼間の刺繍の続きをしていた。
長椅子に腰を下ろし、膝の上に布を広げている。
アレクシスは少し離れたところで書類に目を通していたが、ふと顔を上げた。
「何を縫っているんだ?」
「小さな花です。見ていただけますか?」
エレノアが差し出した布には、鮮やかな青い花がいくつか並んでいた。
「綺麗だな」
「ありがとうございます。まだ途中なのですけれど」
アレクシスは布に縫われた花を眺めた。
「ずいぶん慣れた手つきだな」
「リーヴェにいた頃、いろいろなお手伝いをしていたでしょう? その中で繕い物もするようになったのです。最初は針を刺す場所も揃わなくて、何度もやり直していました」
エレノアは懐かしそうに笑った。
「破れた服を直したり、ほつれたところを縫ったり。そうしているうちに、少しずつ上達したのだと思います」
「そうだったのか」
「でも、刺繍はまだまだです。繕い物と違って、綺麗に模様を作るのは難しいですね」
「俺には十分綺麗に見えるが」
「ふふ。アレクシス様は、私に甘いのです」
「今さらだな」
あまりにも当然のように言われ、エレノアは思わず笑ってしまった。
「もう。否定なさらないのですね」
「否定する理由がない」
アレクシスはそう言って、彼女の隣へ腰を下ろした。
しばらくエレノアが針を動かす様子を眺めていたが、やがて机に置かれた糸束へ目を向けた。
「その青い糸は、今日買ったものか?」
「はい。お店で見つけて、綺麗だったので一つだけ買ってしまいました」
「気に入ったのか?」
「ええ。リーヴェで見た花の色に、少し似ている気がして」
エレノアは布を持ち上げ、刺繍の花を眺めた。
「いつか、リーヴェの方々が作ったものを、王都のお店にも並べてもらえたら素敵ですね」
「そうだな」
「今日、店主の方にお話を伺って、少しだけその光景が想像できたのです」
エレノアは楽しそうに続けた。
「王都の方がリーヴェの刺繍を手に取って、綺麗だと思ってくださったら……きっと、作った方も嬉しいでしょうね」
アレクシスは彼女の横顔を見つめていた。
「君は、そういうことを考えるのが好きなんだな」
「そうでしょうか?」
「ああ。誰かが喜ぶところを想像すると、すぐに顔に出る」
「まあ……そんなに分かりやすいですか?」
「とても」
エレノアは照れくさそうに笑い、再び針を動かし始めた。
「それでは、アレクシス様に隠し事はできませんね」
「何か隠しているのか?」
「いいえ。何もございません」
慌てて答えるエレノアを見て、アレクシスは小さく笑った。
「なら、安心だ」
「もう、からかわないでくださいませ」
エレノアは笑いながら、途中になっていた花の続きを縫い始めた。
ひと針ずつ、青い花びらが形になっていく。
アレクシスは隣でその様子を眺めながら、時折、彼女の話に耳を傾けていた。




