最終章 71
王女が帰国してから数日が過ぎ、王都にはいつもの日常が戻っていた。
侯爵邸でも、使用人たちが朝から忙しく立ち働いている。庭の木々は少しずつ色づき始め、開け放たれた窓からは涼しい風が入り込んでいた。
エレノアは朝食を終えたあと、居間で一通の手紙を読んでいた。
差出人は、リーヴェに暮らす父だ。
以前から故郷の様子は手紙で知らせてもらっていたが、今回の便りには、いつもより詳しく復興の状況が書かれていた。
傷んでいた街道の一部で補修が進み、通行できる荷馬車が少しずつ増えてきたこと。商人たちも以前より町へ立ち寄るようになり、市場には久しぶりに遠方から運ばれた品物が並んだこと。
けれど、その一方で、農地の復旧は思うように進んでいなかった。
働き手が足りず、使える道具も十分ではない。畑を耕せる状態に戻せたとしても、種や家畜を揃えるには費用がかかる。
父の手紙には、そうした厳しい現状も隠さず記されていた。
それでも、最後にはこんな言葉が添えられていた。
『以前のような暮らしに戻るには、まだ長い時間がかかるだろう。だが、町の者たちの表情には、少しずつ明るさが戻ってきている。先日も市場で、久しぶりに子どもたちの笑い声を聞いたよ』
エレノアはその一文を、もう一度読み返した。
子どもたちの笑い声。
何気ない言葉なのに、胸が温かくなった。
戦争によって失われたものは多い。家をなくした人も、大切な人を失った人もいる。故郷が元の姿に戻る日は、まだ遠いのだろう。
それでも、あの町で暮らす人々は、少しずつ前を向こうとしている。
「……よかった」
思わずこぼれた声に、そばで花瓶の花を整えていたローザが振り向いた。
「奥様、何かよいお知らせがございましたか?」
「ええ。お父様から、リーヴェの様子を知らせる手紙が届いたの」
エレノアは嬉しそうに顔を上げた。
「街道の補修が進んで、商人の方々も少しずつ戻ってきているそうよ。まだ大変なことは多いみたいだけれど、市場も以前より賑やかになってきたんですって」
「まあ、それは嬉しいお知らせですね」
「ええ。本当に」
エレノアは手紙を胸元に寄せた。
「いつか、またあの町を歩きたいわ。お店が並んで、みんなが笑っていて……そんなリーヴェを、もう一度見たい」
ローザは優しく微笑んだ。
「きっと、奥様が慣れ親しんだ町に少しずつ近づいていきますよ」
「そうね」
エレノアは頷いた。
けれど、ただその日を待っているだけではいたくなかった。
◇
その日の午後、エレノアはリーヴェから届いた手紙をもう一度広げていた。
父が知らせてくれた復興の様子を読み返すうちに、気になったことがあったのだ。
街道が使えるようになり、商人たちが戻り始めている。
それなら、町で作られた品物を、以前より遠くへ運べるようになるのではないだろうか。
リーヴェには、戦争前から布を織ったり、刺繍を施したりして暮らしていた人たちがいた。
エレノア自身も、幼い頃に母と一緒にそうした品物を見に行ったことがある。市場に並ぶ布や小物は、どれも作り手によって模様が異なり、眺めているだけでも楽しかった。
もちろん、今も同じように作れる人がどれほど残っているのかは分からない。
材料を手に入れることさえ難しいかもしれなかった。
けれど、もし仕事を再開したいと考えている人がいるのなら、その手助けができないだろうか。
エレノアはしばらく考え、机に置かれた便箋を手に取った。
父に尋ねてみようと思ったのだ。
現在、リーヴェではどのような仕事が再開されているのか。道具や材料が不足している人はいるのか。そして、町の人々が今、何を必要としているのか。
自分が覚えている故郷の姿だけで、支援の内容を決めることはできない。
まずは、今そこに暮らしている人たちの声を知りたかった。
エレノアは一つずつ言葉を選びながら、父への返事を書き始めた。
◇
夕方、アレクシスが帰宅すると、エレノアは居間で彼を迎えた。
「お帰りなさいませ、アレクシス様」
「ただいま、エレノア」
アレクシスは彼女の顔を見て、少し笑った。
「今日は何か嬉しいことがあったのか?」
「分かりますか?」
「ああ。ずいぶん楽しそうだ」
エレノアは思わず笑みをこぼした。
「実は、お父様からお手紙が届いたのです。リーヴェのことが書かれていて……アレクシス様にも、ぜひお話ししたいと思っていました」
「そうか。聞かせてくれるか」
二人は居間の長椅子に腰を下ろした。
エレノアは父の手紙を広げ、街道の補修や市場の様子について話し始めた。
アレクシスも領地からの報告を受けており、復興の状況はある程度把握していた。けれど、エレノアの父が書いた手紙には、数字や報告書だけでは分からない町の人々の様子が記されている。
「市場で、子どもたちの笑い声が聞こえたそうなのです」
そう話すエレノアの顔には、心からの喜びが浮かんでいた。
「それは、よい知らせだな」
「はい。まだ大変なことも多いのですが、少しずつでも暮らしが戻ってきているのだと思うと、嬉しくて」
アレクシスは静かに頷いた。
「街道の補修が進めば、物資を運びやすくなる。商人が戻ることも、町にとっては大きな変化だ」
「そうですね。それで、私も少し考えたことがあるのです」
エレノアは、午後に父へ書いた手紙のことを話した。
かつてリーヴェで作られていた布や刺繍のこと。もし今も仕事を再開したい人がいるなら、材料や道具を揃える手助けができないかということ。
「もちろん、私が勝手に決めるわけにはいきません。今もそうした仕事をしている方がいるのか、何が必要なのかも分かりませんから、まずはお父様に尋ねてみようと思って」
アレクシスは最後まで話を聞き、少し考えてから口を開いた。
「よい考えだと思う」
エレノアは嬉しそうに顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ。ただ、品物を作ることができても、売る相手がいなければ収入にはつながらない。材料の調達だけでなく、継続して取引できる相手を見つけることも必要になるだろう」
「……そうですね」
エレノアは真剣な表情で頷いた。
「そこまでは、考えが及びませんでした」
「最初からすべてを考える必要はない。まずは、現地の状況を知ることだ」
アレクシスは彼女の手にそっと触れた。
「君の父上から返事が届いたら、俺にも見せてくれるか。必要なら、商人たちにも話を聞いてみよう」
「はい。ありがとうございます」
エレノアは微笑んだ。
「でも、アレクシス様。私、今回はすぐに何かを始めようとは思っていないのです」
「ほう?」
少し意外そうな顔をする彼に、エレノアは笑った。
「以前の私なら、思いついたらすぐに動こうとしていたかもしれません。でも、今はちゃんと調べて、考えてから決めたいのです」
アレクシスはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「それなら、俺も安心だ」
「ふふ。そんなに心配されていたのですか?」
「少しな」
「少し、ですか?」
エレノアが楽しそうに尋ねると、アレクシスは答える代わりに、彼女の手を軽く握った。
◇
その夜、エレノアは寝室の窓から庭を眺めていた。
昼間は明るかった庭も、今は月明かりに照らされている。
リーヴェの夜も、こんなふうに静かだった。
五年前、アレンと過ごした日々を思い出す。
あの頃は、戦争が故郷にこれほど大きな傷を残すことも、目の前にいた青年が侯爵であることも知らなかった。
そして、彼と再び出会い、夫婦になる未来など、想像したこともなかった。
「何を考えている?」
背後から声がして振り向くと、アレクシスが立っていた。
「リーヴェのことを、少し」
彼は隣に並び、同じように庭へ目を向けた。
「五年前のことも思い出していました。あの頃は、今のような暮らしになるなんて、考えもしませんでしたね」
「……そうだな」
エレノアは彼を見上げた。
「アレクシス様は、あの頃のリーヴェを覚えていらっしゃいますか?」
「もちろんだ」
返事は迷いのないものだった。
「君と歩いた道も、屋敷の庭も、よく覚えている」
「ふふ。私もです」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
「いつか、また一緒に歩きたいですね」
「ああ。必ず」
アレクシスは彼女の肩を抱き寄せた。
エレノアはその温もりに身を預けながら、遠く離れた故郷へ思いを向けた。
復興には、まだ長い年月が必要だろう。
失われたもののすべてが、元に戻るわけでもない。
それでも、故郷で暮らす人々が少しずつ日常を取り戻し、新しい暮らしを築いていけるのなら。
自分も、その未来のためにできることを続けていきたい。
エレノアはアレクシスの手に、そっと自分の手を重ねた。
いつか二人で、もう一度リーヴェを訪れる日を思いながら。




