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冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


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王宮の広間には、同盟国の王女を見送るため、多くの貴族や外交官が集まっていた。


滞在中に開かれた会合や晩餐会では、両国の関係を深めるための話し合いが重ねられてきた。今日の送別会を終えれば、王女は翌朝、使節団とともに帰国の途につくことになっている。


エレノアはアレクシスと並び、広間へと足を踏み入れた。


会場には以前の夜会で顔を合わせた貴族たちの姿もあり、エレノアは挨拶を交わしながら、ゆっくりと奥へ進んでいった。


「先ほどの伯爵夫人とは、ずいぶん親しくなったようだな」


アレクシスが隣から声をかける。


「はい。以前の慈善会合でもお話しした方なのです。今日はお嬢様のお話を聞かせていただきました」


「そうか」


「今度、お屋敷にお招きいただけるそうです。庭園がとても美しいのだとか」


楽しそうに話すエレノアを、アレクシスは穏やかに見つめた。


以前の彼女は、こうした場で自分から話しかけることに遠慮がちだった。今では顔見知りも増え、彼がそばにいなくても自然に会話を楽しめるようになっている。


「楽しみだな」


「はい。……ですが、またお誘いをいただけるなんて思っていませんでした」


「君と話すのが楽しかったのだろう」


「そうでしたら、嬉しいです」


エレノアは微笑み、会場へ目を向けた。


まだ知らないことも多いけれど、こうした交流を少しずつ重ねていくことも、侯爵夫人としての大切な務めなのだと思えるようになっていた。


そのとき、宮廷の侍従が二人のもとへ歩み寄った。


「ヴァルツェン侯爵夫妻。王女殿下が、お二人にご挨拶をとのことです」


エレノアは一瞬だけアレクシスを見上げたが、すぐに侍従へ向き直った。


「承知いたしました。ご案内いただけますか」


アレクシスは彼女の様子を確かめるように視線を向けたものの、何も言わず、その隣を歩いた。



◇



王女は広間の奥で、数人の貴族と話をしていた。


淡い色のドレスをまとい、いつもと変わらない落ち着いた表情を浮かべている。


二人の姿に気づくと、王女は話を切り上げ、こちらへ向き直った。


「ヴァルツェン侯爵。侯爵夫人」


「殿下。本日はお招きいただき、ありがとうございます」


アレクシスが礼を述べ、エレノアもそれに続いた。


「ご帰国なさると伺いました。どうか道中、お気をつけてお帰りくださいませ」


「ありがとうございます。侯爵夫人」


王女はそう答えたあと、少しだけ言葉を止めた。


目の前に立つエレノアは、以前会ったときと変わらず、穏やかな表情をしている。

自分が告げた言葉を、彼女はどう受け止めたのだろう。


あのときは、侯爵夫人としての務めを説いているつもりだった。けれど、その言葉の裏には、アレクシスの隣に立つ彼女への羨ましさがあったことも、今では否定できなかった。


「……先日のことですが」


王女が口を開くと、エレノアは静かに顔を上げた。


「あなたには、少々厳しいことを申し上げましたね」


「……はい」


エレノアは無理に笑おうとはしなかった。


王女の言葉に傷ついたことは事実だったし、あの日、帰宅してから涙を流したことも、今では隠す必要のない自分の気持ちだと思っている。


王女はその返事を聞き、わずかに目を伏せた。


「私自身の考えを、あなたに押しつけるような言い方をしてしまいました。あのことは、申し訳なく思っています」


王女が謝罪の言葉を口にしたことで、エレノアは少し驚いた。


「侯爵夫人として何を大切にするべきか、それはあなた自身が考えていくことです。私が決めつけるべきではありませんでした」


「……ありがとうございます、殿下」


エレノアは丁寧に頭を下げた。


「殿下のお言葉を聞いたとき、私は自分がアレクシス様のお役に立てていないのではないかと、不安になりました」


その言葉に、王女は顔を上げた。


「ですが、今は少し違います。私はまだ知らないことも多いですし、失敗することもあります。それでも、できることを一つずつ増やしていきたいと思っています」


エレノアは落ち着いた声で続けた。


「殿下のお言葉を忘れることはないと思います。でも、こうしてお話しできてよかったです」


王女はしばらく彼女を見つめていた。

責めるでもなく、取り繕うでもなく、自分の気持ちを伝えるエレノアの姿に、少し意外なものを感じたのかもしれない。


「……あなたは、私が思っていたよりも、ずっと強い方なのですね」


「そんなことはありません。今でも、失敗ばかりですから」


エレノアが少し困ったように笑うと、王女もかすかに口元を緩めた。


「失敗をしない人など、いないのでしょうね」


その言葉には、どこか自分自身に向けた響きがあった。



◇



「侯爵」


王女はアレクシスへ視線を移した。


「このたびの滞在では、さまざまなお力添えをいただきました。改めてお礼申し上げます」


「こちらこそ、両国にとって実りある機会となりましたことを嬉しく思います」


アレクシスは礼儀正しく答え、王女はそんなアレクシスの姿を見つめた。


彼は今日も変わらず、落ち着いた態度で人々に接している。戦場で功績を挙げ、国を支える侯爵としての姿は、やはり立派なものだった。


けれど、エレノアが何かを話しかけるたびに、彼の表情が柔らかくなることを、王女は以前から知っていた。

それを見るたびに、胸の奥が落ち着かなかった。

自分にも、いつかあの眼差しを向けてくれる日が来るのではないか。そんな期待を、簡単には捨てられなかったのだ。


けれど今は、もう分かっている。

彼の心が向かう先は、初めから決まっていたのだ。


王女は静かに息をついた。


「お二人のこれからの日々が、穏やかなものでありますように」


「ありがとうございます、殿下」


エレノアが答えると、アレクシスも一礼した。


「殿下のご帰国が、無事でありますようお祈り申し上げます」


王女は頷き、二人に別れを告げた。

彼らが離れていく姿を、王女はしばらく見送っていた。


アレクシスはエレノアの歩調に合わせて歩き、彼女が何かを話しかけると、自然に顔を向けている。

二人の間に、自分が入り込む余地などないのだ。


王女はゆっくりと視線を戻し、次に挨拶へ訪れた貴族を迎えた。



◇



送別会が終わり、王宮を出る頃には、すっかり夜も更けていた。

馬車に乗り込んだエレノアは、隣に座るアレクシスを見上げた。


「殿下が、あのようにおっしゃるとは思いませんでした」


「そうだな」


「少し、驚いてしまいました」


エレノアは膝の上で手を重ねた。


「でも、お話しできてよかったです。あのままお別れしていたら、きっと、ずっと気になっていたと思いますから」


「君は、自分の気持ちをきちんと伝えていたな」


「……そうでしょうか」


「ああ。立派だった」


エレノアは少し照れたように笑った。


「ありがとうございます。でも、殿下にお話ししているうちに、自然と言葉が出てきたのです」


「それだけ、君の中で答えが見つかっていたのだろう」


エレノアはその言葉を考えるように、しばらく黙っていた。


確かに、少し前の自分なら、王女から謝罪されても、慌てて否定してしまったかもしれない。

けれど今日は、傷ついたことも、これからどうしていきたいかも、自分の言葉で伝えることができた。


「アレクシス様」


「ん?」


「私、少しは成長できているでしょうか」


アレクシスは彼女を見つめ、微笑んだ。


「もちろんだ」


「ふふ。アレクシス様は、いつもそうおっしゃいますね」


「君が思っている以上に、俺は君をよく見ているつもりだ」


エレノアは頬を赤らめた。


「……それでは、怠けているところも見られてしまいますね」


「それはそれで、安心するかもしれないな」


「まあ!」


思いがけない返事に、エレノアは声を立てて笑った。

アレクシスも笑みを浮かべ、彼女の手を取る。


馬車の窓の外では、王都の街灯がゆっくりと流れていた。



◇



翌朝、王女を乗せた馬車が王宮を出発した。


見送りの人々に最後の挨拶を済ませると、王女は馬車の窓から、遠ざかっていく王宮を眺めた。


この国で過ごした日々には、忘れられない出来事もあった。

思い描いていた未来が叶わなかったことを、すぐに忘れることはできないだろう。


けれど、アレクシスの心が誰に向けられているのかは、もう十分に分かっている。

そして、自分がエレノアに告げた言葉が、どれほど一方的だったのかも。


王女は静かに窓から視線を戻した。

帰国すれば、また多くの務めが待っている。

自分にも、自分が歩むべき道があるのだ。


「殿下、お疲れではございませんか?」


向かいに座る侍女が尋ねた。


「いいえ。大丈夫です」


王女は穏やかに微笑んだ。


「帰ったら、しばらく忙しくなりそうですね」


「はい。すでにいくつかのご予定が入っております」


「そう。では、戻ってから確認しましょう」


王女は頷き、もう一度だけ窓の外を見た。

王都の建物はすでに遠くなり、馬車の先には故国へと続く道が伸びていた。

彼女は姿勢を正し、膝の上に置いた手を重ねた。




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