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午後の日差しが、侯爵邸の庭を明るく照らしていた。
季節が少しずつ移り変わり、庭を吹き抜ける風にも涼しさが感じられるようになっていた。花壇には色とりどりの花が咲き、庭師たちが丁寧に手入れをしているおかげで、いつ訪れても美しい景色が広がっている。
エレノアはローザと並んで庭を歩きながら、久しぶりにゆったりとした時間を楽しんでいた。
「ずいぶん涼しくなったわね」
「はい。朝晩は少し肌寒くなってまいりました。奥様も、お身体を冷やされませんように」
「ふふ。ローザはいつも心配してくれるのね」
「もちろんです。ここ数日は、お疲れのご様子でしたから」
その言葉に、エレノアは少しだけ目を伏せた。
先日の会合での失敗も、王女から告げられた言葉も、忘れたわけではない。思い返せば、今でも胸が痛むことはある。
けれど、あの夜、アレクシスに気持ちを打ち明けてからは、以前ほど思い詰めることはなくなっていた。
彼は自分の話を最後まで聞き、何もかも一人で抱え込む必要はないと言ってくれた。
「……心配をかけてしまったわね」
「いいえ。奥様がお元気になられて、安心いたしました」
ローザの返事に、エレノアは微笑んだ。
二人は庭の奥にある東屋へ向かった。テーブルには、ローザがあらかじめ用意していた紅茶と焼き菓子が並んでいる。
「まあ。いつの間に用意してくれたの?」
「今日はゆっくりお過ごしいただこうと思いまして」
「ありがとう、ローザ」
エレノアは椅子に腰を下ろし、温かな紅茶を一口飲んだ。
「こういう時間も大切にしないといけないわね」
「はい。旦那様も、きっとお喜びになります」
「アレクシス様が?」
「奥様が無理をなさらないよう、いつも気にかけていらっしゃいますから」
エレノアはカップを持ったまま、少し頬を赤らめた。
「……そんなに心配をかけているのかしら」
「それだけ大切に思っていらっしゃるのでしょう」
ローザは微笑み、それ以上は何も言わなかった。
エレノアは照れくさくなって、庭へ目を向けた。
花壇には、季節の花がきれいに咲いている。風が吹くたびに花が揺れ、その様子を眺めているだけでも気持ちが落ち着いた。
「ねえ、ローザ。あとで少し、花壇の方を歩いてもいいかしら」
「もちろんです。ですが、お茶が冷めてしまいますよ」
「あら、そうね」
エレノアが笑うと、ローザもつられて笑みをこぼした。
二人はしばらく、他愛ない話をしながら午後のお茶を楽しんだ。
◇
お茶を終えると、ローザは茶器を片づけるために屋敷へ戻っていった。
エレノアはもう少し庭にいたいと伝え、一人で花壇の方へ歩いていった。
近づいてみると、小さな花がいくつも咲いている。つぼみをつけたものもあり、これから開くのだろうと思うと、自然と頬が緩んだ。
エレノアは花壇の前にしゃがみ、まだ開ききっていない花を眺めた。
こうして花を見ていると、リーヴェで過ごした日々を思い出す。
五年前、アレンと一緒に花の芽を見つけたことがあった。
あの頃は、何気ない出来事の一つ一つが楽しかった。花が咲くのを待つことも、庭を歩くことも、彼と話すことも。
今思えば、ずいぶん穏やかな時間だった。
エレノアはそっと微笑んだ。
あの頃のアレンが、今は自分の夫になっている。
五年前には想像もしていなかったことだった。
「……もう、こんなに経ったのね」
小さく呟き、目の前の花へ視線を戻した。
◇
その頃、アレクシスはいつもの時間に屋敷へ戻っていた。
執事からエレノアが庭にいると聞き、彼は上着を預けると、庭に面した窓へ目を向けた。
花壇のそばに、見慣れた姿があった。
エレノアは花の前にしゃがみ込み、何かを眺めている。
その表情は穏やかで、時折、小さく微笑んでいた。
アレクシスはしばらく、その姿を見つめた。
数日前、長椅子の上で膝を抱え、声を押し殺して泣いていた妻。
あの夜の姿を思い出すと、今でも胸が痛む。
だからこそ、こうして穏やかに過ごしている彼女を見られることが嬉しかった。
彼は庭へ出ると、花壇の方へ歩いていった。
「エレノア」
聞き慣れた声に、エレノアが顔を上げた。
「あっ、アレクシス様!」
驚いたように立ち上がった彼女は、すぐに嬉しそうな笑顔を見せた。
「お帰りなさいませ。もう、そのようなお時間でしたのね」
「ああ。何を見ていたんだ?」
「お花です。まだつぼみのものもあって、もう少ししたら咲くのかしらと思って」
アレクシスは彼女の隣に立ち、花壇へ目を向けた。
「そうか。ずいぶん熱心に眺めていたな」
「ふふ。昔から、お花を見るのが好きなのです」
「知っている」
何気なく返された言葉に、エレノアは彼を見上げた。
「……そうでしたね」
リーヴェで一緒に過ごした頃も、彼はよく自分の話を聞いてくれていた。
アレクシスは彼女の顔を見つめ、そっと頬に触れた。
「今日は、ゆっくり過ごせたか?」
「はい。ローザとお茶をいただいて、それから少しお庭を歩いていました」
「それはよかった」
「アレクシス様は、お疲れではありませんか?」
「いつもと変わらない。君の顔を見たら、少し楽になった」
あまりにも自然に言われ、エレノアは思わず目を瞬かせた。
「……もう。アレクシス様ったら」
頬を赤らめる彼女に、アレクシスは小さく笑った。
「本当のことだ」
エレノアは照れくさそうに微笑み、それから彼の手を取った。
「では、少しだけ一緒に歩きませんか?」
「喜んで」
二人は並んで庭を歩き始めた。
エレノアは今日見つけた花のことや、ローザとの会話を楽しそうに話した。アレクシスは時折相槌を打ちながら、その話に耳を傾けている。
特別な出来事があったわけではない。
けれど、彼にとっては、こうして妻と何気ない話をする時間こそが、何より大切だった。
◇
同じ頃、王宮では同盟国の使節団の帰国準備が進められていた。
王女の滞在は、予定されていた外交上の行事を終え、数日後に幕を閉じることになっていた。
帰国に先立ち、王宮では正式な送別の場が設けられる。
王女は侍女からその日程を聞き、静かに頷いた。
「分かりました。必要な準備を進めてください」
「かしこまりました、殿下」
侍女が退出すると、王女はしばらく窓の外を眺めていた。
アレクシスとの会談から、まだそれほど日が経っていない。
彼の言葉は、今もはっきりと覚えている。
結婚を望んだのは自分だと、彼は迷いなく告げた。
それを聞いたとき、自分が思い描いていた未来は、初めから存在しなかったのだと知った。
彼の隣に立つために必要なものを、ずっと考えてきた。
けれど、彼が求めていたのは、自分が考えていたようなものではなかったのだろう。
王女は静かに息をついた。
思いが簡単に消えるわけではない。
それでも、彼の言葉を聞いた以上、これ以上何かを望むつもりはなかった。
帰国すれば、また王女としての務めが待っている。
彼女は窓辺を離れ、机の上に置かれた予定表を手に取った。
◇
その夜、夕食を終えたエレノアとアレクシスは、私室でくつろいでいた。
エレノアは昼間の散歩を思い出しながら、隣に座る夫へ話しかけた。
「今日は久しぶりに、ゆっくり過ごせました。ローザにも休むように言われてしまって」
「いいことだ。最近は少し考え事が多かったからな」
「はい。でも、何もしないでいると、つい色々考えてしまいますね」
アレクシスは彼女を見た。
「慈善活動のことか?」
「それもあります。リーヴェのことも……」
エレノアは少し考えてから続けた。
「でも、以前のように焦っているわけではないのです。私にもできることを、少しずつ見つけていけたらと思っています」
「それでいい」
アレクシスは穏やかに頷いた。
「すぐに答えを出す必要はない。君が考えていることは、また一緒に整理していこう」
「はい。ありがとうございます」
エレノアが微笑むと、彼も表情を和らげた。
しばらくして、アレクシスが口を開いた。
「そうだ。王女殿下の帰国日程が決まった」
エレノアは顔を上げた。
「……そうなのですか」
「ああ。数日後には王都を発たれる。帰国前には、王宮で正式な送別の場が設けられる予定だ」
「そう、ですか……」
エレノアは静かに頷いた。
王女から告げられた言葉を思い出さないわけではなかった。
けれど、あの夜のように、自分のすべてを否定された気持ちになることはなかった。
アレクシスが自分をどう思っているのか、今はもう疑いたくなかった。
「アレクシス様」
「どうした?」
「もし、私にもお見送りの機会があるのでしたら、きちんとご挨拶したいと思います」
アレクシスは少しだけ表情を改めた。
「無理をする必要はない」
「はい。ですが、逃げたくはないのです」
エレノアは彼を見つめた。
「殿下のお言葉には、確かに傷つきました。でも、だからといって、これからも避け続けるのは違うと思うのです」
アレクシスは黙って彼女の言葉を聞いていた。
「今度お会いするときは、きちんとご挨拶したいのです。アレクシス様の妻として」
その言葉に、彼の眼差しが柔らかくなる。
「……分かった」
アレクシスは彼女の手を取った。
「そのときは、俺も隣にいる」
「はい」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
窓の外には、静かな夜が広がっていた。
今日、庭でアレクシスと過ごした時間を思い出す。
何か特別なことをしたわけではない。ただ一緒に花を眺め、話をしながら歩いただけだった。
それでも、あの時間はとても幸せだった。
エレノアは隣にいる夫へ、そっと身を寄せた。
アレクシスは自然に彼女を抱き寄せ、髪に軽く口づける。
二人の穏やかな夜は、静かに更けていった。




