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冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


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翌朝、アレクシスはいつもより少し早く目を覚ました。


隣では、エレノアが静かな寝息を立てている。昨夜は泣き疲れたのだろう。寝台へ移ってからも、しばらく彼の手を離そうとしなかった。


アレクシスは妻を起こさないように身を起こし、頬にかかった髪をそっと払った。眠っている彼女の表情は穏やかだったが、目元にはまだわずかに赤みが残っている。


ーーーー私と結婚して、よかったと……思っていただけていますか?


昨夜の問いが、胸に蘇った。

エレノアは、自分が愛されていることを疑っていたわけではない。ただ、与えられるばかりで何も返せず、かえって夫の負担を増やしているのではないかと苦しんでいた。


彼女が侯爵夫人として懸命に努力していることを、アレクシスは誰よりもよく知っている。

失敗することもあるだろう。知らないことも、これから学ばなければならないことも多い。それでも、彼女は決して責任から逃げようとはしなかった。


そんな妻が、誰もいない部屋で声を殺して泣いていた。

その姿を思い出すだけで、胸の奥が痛んだ。


アレクシスは眠る妻の額にそっと口づけると、静かに寝台を離れた。



◇



王宮で午前の執務を終えたアレクシスは、侍従を通じて王女との面会を申し入れた。


同盟国から訪れている王女との会談である以上、相応の形式は必要だった。王女側の侍女と王宮の侍従が控える応接室で、短い時間を設けてもらうことになった。


侯爵のほうから面会を求められたと聞き、王女は少なからず驚いた。

これまで幾度となく言葉を交わしてきたものの、彼が自ら会談を申し入れてきたことはなかったからだ。


応接室へ入ると、アレクシスはすでに席を立って待っていた。


「ヴァルツェン侯爵。お待たせいたしました」


「いいえ。お時間をいただき、感謝いたします」


丁寧に一礼する彼を見て、王女は微笑んだ。


「侯爵からお話があるなんて、珍しいことですわね。何かお仕事のお話でしょうか?」


「いいえ。本日は、妻のことでお話がございます」


王女の笑みが、わずかに止まった。


「……奥様の?」


「昨日、慈善会合のあとに妻とお話しくださったそうですね」


「ええ。少しだけ。奥様は大変熱心でいらっしゃいますわね」


「妻から、会話の内容を聞いております」


アレクシスは淡々と告げた。

王女は彼の表情を窺ったが、そこから感情を読み取ることはできなかった。


「何か、お気に障ることでもございましたか?」


「妻が会合で不用意な発言をしたことは、私も承知しております。侯爵家の立場を考えれば、今後は慎重であるべきでしょう」


「そうですわね。わたくしも、奥様のためを思って申し上げたのです」


「ですが、それと妻が私の重荷になっているかどうかは、まったく別の話です」


王女の指先が、膝の上でわずかに動いた。


「……そのような意味で申し上げたわけではございません」


「では、どのような意味だったのでしょうか」


声は穏やかだった。しかし、曖昧な返答で済ませられるような問いではなかった。


王女は少し間を置いてから、静かに口を開いた。


「侯爵は、国のために多くの責務を負っていらっしゃいますでしょう。奥様にも、そのお立場を十分に理解していただくことが大切だと思いましたの」


「妻は理解しようと努めています」


「ええ、もちろん存じております。ただ、侯爵夫人というお立場には、努力だけでは補えないものもございますから」


アレクシスは黙って王女を見つめた。


「侯爵のお隣に立つ方には、同じ目線で物事を考え、ときには侯爵をお支えできるだけの知識や経験も必要だと思いますわ。奥様はまだお若く、社交界にも慣れていらっしゃらないご様子でしたので……」


「殿下」


静かな呼びかけに、王女は言葉を止めた。


「妻が未熟であることは、本人も承知しております。だからこそ、学ぼうとしているのでしょう」


「……ええ」


「私は、妻がすべてを一人でこなせるようになることを望んでいるわけではありません」


王女はわずかに眉を寄せた。


「ですが、侯爵夫人としてのお役目は……」


「もちろん、果たすべき責務はあります。そのために必要なことは、私も妻とともに考えていくつもりです」


アレクシスは一度言葉を切った。


「ただし、妻が私を支えられるかどうかを、殿下に判断していただく必要はございません」


王女は返す言葉を失った。

彼は声を荒らげていない。無礼な態度を取ったわけでもない。


それなのに、これ以上踏み込むことを許さない明確な一線が、二人の間に引かれたように感じられた。


「……侯爵は、奥様をとても大切にしていらっしゃるのですね」


「ええ」


迷いのない返答に、王女は小さく微笑んだ。


「もちろん、それは素晴らしいことですわ。ただ……侯爵ほどのお立場であれば、結婚にはご本人のお気持ちだけでなく、ご家同士の事情もおありでしょう?」


アレクシスの目が、わずかに細くなった。


「どういう意味でしょうか」


「以前、お父君同士に親しいお付き合いがあったと伺いましたの。ですから、奥様とのご縁も、そうしたお話から生まれたのではないかと……」


王女はそこで言葉を濁した。


彼女なりに調べたことだった。

ヴァルツェン侯爵家とリーヴェルト子爵家には、先代からの親交がある。家格に大きな隔たりがあるにもかかわらず結婚が成立したのも、その縁があったからではないか。

少なくとも、王女はそう考えていた。


「確かに、父同士に親交があったのは事実です」


アレクシスは答えた。


「ですが、結婚を望んだのは私です」


王女の表情が変わった。


「……侯爵が?」


「ええ。私の意思で求婚しました」


王女は彼を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「それは……ご家同士のお話が進んだうえで、ということではなく?」


「違います」


アレクシスは静かに否定した。


「私が彼女を妻に望んだのです。父の意向でも、侯爵家の都合でもありません」


王女の胸に、言いようのない戸惑いが広がった。


彼が妻を大切にしていることは知っていた。夫婦仲が良いことも、周囲から聞いている。

けれど、それは結婚してから育まれた愛情なのだと思っていた。


初めから、彼自身が望んだ結婚だったとは。


「……そう、でしたのね」


王女はどうにか微笑んだ。


「奥様は、お幸せですわね」


「私のほうこそ、幸運だったと思っています」


アレクシスの返答に、王女は目を伏せた。


その言葉は、王女がこれまで彼から聞いたどの言葉とも違っていた。

戦況について語るときも、国の将来について意見を交わすときも、彼は常に冷静だった。相手の立場を尊重しながら、必要なことだけを的確に述べる。


王女は、そんな彼と対等に話せることを誇らしく思っていた。

自分ならば、彼の責務を理解できる。彼が背負うものを、ともに担うことができる。

そう信じていた。


けれど、今の彼の言葉には、自分が一度も向けられたことのない感情があった。


「殿下」


アレクシスの声に、王女は顔を上げた。


「昨日、妻の発言についてご指摘いただいたこと自体を、問題にしているわけではありません。妻に至らない点があれば、今後も学ぶべきでしょう」


「……はい」


「ですが、私たち夫婦の関係については、どうかご心配なさらないでください」


穏やかな口調のまま、アレクシスは続けた。


「妻が私の支えになっているかどうかは、私自身が最もよく知っています」


王女は唇を結んだ。


「……わたくしは、侯爵のお力になりたいと思っていただけです」


その声には、初めてわずかな感情が滲んでいた。


「侯爵がこれまで国のために尽くしてこられたことも、戦地で多くの方を救われたことも存じております。だからこそ、せめてご家庭では、何もかもを背負わずに済むような……」


「お気遣いには感謝いたします」


アレクシスは彼女の言葉を遮ることなく聞き終え、丁寧に答えた。


「ですが、私にとって妻は、責務を増やす存在ではありません」


王女は顔を上げた。


「むしろ、彼女がいるからこそ、私は自分の務めを果たせるのです」


アレクシスは静かに続けた。


「妻は、私が何者であるかによって態度を変える人ではありません。私が何かを成し遂げた日も、何もできなかった日も、変わらずに迎えてくれるでしょう。だからこそ、彼女のそばでは肩の力を抜いていられるのです」


その言葉を口にしたとき、アレクシスの表情がほんのわずかに和らいだ。


その変化を、王女は見逃さなかった。


妻のことを語るときだけ、彼はこんな顔をするのだろうか。


そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。


自分は彼と、いくつもの重要な話をしてきた。

国の復興についても、負傷した兵士たちの今後についても、彼の考えを理解し、ときには意見を交わすことができた。


けれど、どれほど言葉を重ねても、彼の心が自分に向けられることはなかった。


「……奥様は、侯爵にとって、それほど大切な方なのですね」


「はい」


アレクシスは静かに頷いた。


「何ものにも代えられない人です」


王女は、それ以上何も言えなかった。



◇



面会を終え、アレクシスが応接室を辞したあとも、王女はしばらく席を立てずにいた。


控えていた侍女が心配そうに声をかけたが、王女は小さく首を振った。

彼が妻を愛していることは、最初から知っていたはずだった。


それでも、彼の隣に立つにふさわしいのは自分だと思っていた。


自分のほうが彼の仕事を理解できる。自分のほうが、彼と同じ立場で物事を考えられる。

いつか彼も、それに気づいてくれるのではないかと。


けれど、彼は一度も迷わなかった。

妻の未熟さを否定せず、それでも彼女を選んだことに何の後悔もないと告げた。


王女は膝の上で手を握りしめた。


ーーーー私のほうこそ、幸運だったと思っています


あの言葉が、耳から離れなかった。


侯爵ほどの人物に、そこまで想われる女性がいる。

それが、自分ではない。


王女はゆっくりと目を閉じた。


これまで彼に向けてきた想いが、簡単に消えるとは思えなかった。

けれど、今日初めて理解したことがある。

彼の隣には、最初から自分のための場所などなかったのだ。



◇



その日の夕刻、アレクシスは執務を終えると、いつもより早く侯爵邸へ戻った。


玄関で出迎えた使用人に上着を預け、妻の居場所を尋ねる。


「奥様でしたら、書斎にいらっしゃいます。本日は午前中、少しお休みになられたあと、午後から書類をご覧になっておりました」


「そうか。ありがとう」


書斎へ向かうと、扉の向こうから紙をめくる音が聞こえた。

軽く扉を叩く。


「はい」


聞き慣れた声に、アレクシスの口元が自然と緩んだ。

扉を開けると、机に向かっていたエレノアが顔を上げた。


「アレクシス様! お帰りなさいませ」


彼女は驚いたように立ち上がった。


「今日はお早いのですね」


「ああ。仕事が片づいたからな」


アレクシスが近づくと、エレノアは少し照れたように微笑んだ。

昨夜のことを思い出したのかもしれない。


「……今日は、ちゃんとお食事もいただきました」


先回りするようにそう言う妻に、アレクシスは思わず笑みを深めた。


「それはよかった」


「ローザにも、心配をかけてしまいましたから」


「俺も心配した」


「……はい。ごめんなさい」


「謝らなくていいと言っただろう」


アレクシスは彼女の手を取り、そっと指を絡めた。


「今日はどう過ごした?」


「午前中は少し休ませていただきました。午後からは、昨日の会合でいただいた資料を読み直していたんです」


エレノアは机の上に置かれた書類へ目を向けた。


「昨日のことは反省しています。でも、支援を必要としている方々のことも、やはり気になって……」


「そうか」


「次はきちんと調べてから、お話しできるようになりたいと思っています」


アレクシスは頷いた。


「なら、今度一緒に考えよう」


「……よろしいのですか?」


「ああ。俺にも確認できることがあるだろう」


エレノアは一瞬ためらったものの、やがて嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。ぜひ、お願いいたします」


その笑顔を見て、アレクシスは安堵した。


昨日の出来事を、すぐに忘れることはできないだろう。

それでも彼女は、また前を向こうとしている。


アレクシスはエレノアの手を引き寄せ、その甲に軽く口づけた。


「今夜は、ゆっくり過ごそう」


「はい」


エレノアは頷き、彼の手を握り返した。


アレクシスは今日、王女と交わした会話について何も告げなかった。

彼女にこれ以上の心配をかけるつもりはなかったし、王女との間に引くべき一線は、すでに明確にしてきた。

今はただ、目の前で微笑む妻との時間を大切にしたかった。


かつては、再び会えるかどうかさえ分からなかった人。


その彼女が今、自分の帰りを迎えてくれている。

アレクシスはエレノアの手を握ったまま、穏やかに微笑んだ。


彼が選んだのは、五年前も、今も、ただ一人だった。




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