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予定より早く仕事を終えたアレクシスが侯爵邸へ戻ったのは、夜も更け始めた頃だった。
王宮での会議が思いのほか早く片づき、残っていた書類も翌日に回せることになった。久しぶりに、妻とゆっくり過ごせるかもしれない。
そう考えながら玄関をくぐると、出迎えた使用人から上着を受け取ったローザが、少し気がかりそうな表情で近づいてきた。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「ああ。エレノアは?」
「奥様は、すでにお部屋へお戻りになっております」
「もう休んでいるのか?」
「それが……本日はあまり食欲がないとおっしゃって、お夕食も召し上がらずに。会合からお戻りになったときは、いつもどおりでいらしたのですが……」
アレクシスの表情が変わった。
「具合が悪いのか?」
「お尋ねしたのですが、少しお疲れになっただけだと。私も、それ以上は……」
「分かった。ありがとう」
ローザを安心させるように頷き、アレクシスは足早に私室へ向かった。
エレノアは滅多なことでは弱音を吐かない。
疲れていても、心配をかけまいと微笑んでしまうところがある。
今日も、何かあったのだろうか。
寝室の扉を静かに開けると、室内には柔らかな灯りが残されていた。
けれど、寝台に妻の姿はない。
隣の居間へ目を向けると、扉がわずかに開いていることに気づいた。
「エレノア?」
返事はなかった。
アレクシスは扉に手をかけ、そっと押し開いた。
そして、足を止めた。
ソファの上に、小さく丸まった妻の姿があった。
両膝を抱え、その上に顔を埋めている。
眠っているのかと思ったが、かすかに震える肩を見て、そうではないと分かった。
「……エレノア」
呼びかけると、彼女の肩がびくりと揺れた。
エレノアは慌てて顔を上げた。
「……アレクシス様?」
涙に濡れた頬を見た瞬間、アレクシスの胸が強く締めつけられた。
「どうした。何があった?」
「あ……お帰りなさいませ。今日は遅くなると伺っていたので……」
エレノアは急いで目元を拭い、笑おうとした。
「お仕事、早く終わったのですね。よかった……」
その笑顔が、ひどく痛々しかった。
アレクシスは彼女の前へ歩み寄ると、ためらうことなく床へ片膝をついた。
「エレノア」
目線を合わせるように顔を覗き込むと、彼女は困ったように微笑んだ。
「……こんなところをお見せして、ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
アレクシスはそっと手を伸ばし、頬に残った涙を親指で拭った。
「具合が悪いのか?」
「いいえ。身体は何ともありません」
「では、何があった?」
エレノアは答えなかった。
その代わり、膝を抱える腕に少しだけ力がこもった。
アレクシスは彼女を急かさず、しばらく待った。
「……今日、会合で失敗をしてしまったんです」
やがて、エレノアが小さく口を開いた。
「支援についてお話ししていたとき、私の言葉が誤解されてしまって……侯爵家として支援をお約束したように、受け取られてしまいました」
アレクシスは静かに耳を傾けた。
エレノアは、施設の代表者の話を聞いて何か力になりたいと思ったこと、けれど発言が軽率だったと指摘され、その場で訂正したことを話した。
「ご相談もせず、侯爵家の名前で勝手なことを申し上げてしまいました。申し訳ございません」
「その場で訂正したんだな?」
「……はい。伯爵夫人も、正式な申し出ではないと皆様に説明してくださいました」
「ならば、今のところ侯爵家として何か約束したことにはなっていない」
アレクシスは穏やかに言った。
「もちろん、今後は気をつける必要がある。だが、間違いに気づいて訂正できたのなら、それも経験だ。必要なら私も確認しよう」
その言葉に、エレノアの目が揺れた。
やはり、彼は責めなかった。
自分が想像したとおり、落ち着いて話を聞き、どうすればよいか考えてくれる。
「……ありがとうございます」
エレノアは微笑もうとした。
けれど、その目に再び涙が浮かんだ。
アレクシスは眉を寄せた。
「エレノア。ほかにも何かあったんじゃないか?」
彼女は首を振りかけ、途中で動きを止めた。
「……私」
声が震えた。
「アレクシス様に、何もお返しできていない気がするんです」
予想もしなかった言葉に、アレクシスは黙った。
「いつも助けていただいて、守っていただいて……私は、たくさんのものをいただいているのに」
エレノアは俯いた。
「私も、アレクシス様のお力になりたくて。お忙しい毎日の中で、少しでも安らいでいただけるようにと思っていたのに……」
涙が膝の上に落ちた。
「今日みたいなことをして、かえってお仕事を増やしてしまうところでした」
「エレノア、それは――」
「私が、もっとしっかりしていれば……」
言いかけた声が、涙に詰まった。
アレクシスは伸ばしかけた手を止めた。
彼女はまだ、何かを言おうとしていた。
「……私、アレクシス様の重荷になっていませんか?」
その言葉に、アレクシスは息を呑んだ。
エレノアは顔を上げなかった。
「私と結婚して、よかったと……思っていただけていますか?」
しばらく、部屋には何の音もしなかった。
アレクシスは彼女を見つめたまま、言葉を探していた。
自分が妻にどれほど救われてきたか。
彼女と再び会える日を、どれほど待ち望んでいたか。
ようやく手にした日々を、どれほど大切に思っているか。
その何一つ、十分には伝わっていなかったのだろうか。
「……エレノア」
アレクシスは彼女の手を取った。
「顔を上げてくれ」
エレノアはためらいながら、ゆっくりと顔を上げた。
アレクシスはその瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺が、どれほど君を望んでいたと思う?」
エレノアの瞳が揺れた。
「君と結婚したことを、後悔した日は一日もない。君がここにいてくれる。それだけで、俺はどれほど幸せか……」
アレクシスは彼女の手を両手で包んだ。
「君は、俺に何も返せていないと言ったな」
「……はい」
「そんなことはない」
その声は、静かだった。
「俺が帰る場所に君がいる。朝、目を覚ませば君に会える。仕事を終えたとき、君が待っていてくれると思える。それが俺にとって、どれほど大きな支えになっているか」
エレノアの目から、新たな涙がこぼれた。
「でも……私は、アレクシス様に甘えてばかりで……」
「甘えてくれ」
迷いのない答えだった。
エレノアは驚いたように彼を見つめた。
「俺は君の夫だ。君がつらいときに、何も知らずにいるほうがずっと苦しい」
アレクシスは彼女の頬に手を添えた。
「君が笑ってくれるのは嬉しい。だが、俺のために無理をして笑う必要はない」
「……アレクシス様」
「俺の前でまで、強がらなくていい」
その言葉に、エレノアの唇が震えた。
「……でも、お疲れなのに……」
「君の話を聞くことを、負担だと思ったことはない」
アレクシスは少しだけ眉を下げた。
「むしろ、君が何も話してくれないことのほうが寂しい」
エレノアは息を止めた。
自分が夫を思って隠していたことが、かえって彼を寂しくさせていた。
そのことに、初めて気づいた。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
アレクシスは優しく首を振った。
「ただ、頼ってほしい。嬉しいことも、つらいことも、俺に聞かせてくれ」
エレノアは彼の手を握り返した。
「……本当は」
声が震えた。
「本当は、帰ってきてほしかったんです」
アレクシスの表情がわずかに変わった。
「お忙しいと分かっていたのに……今日だけは、早くお会いしたくて」
「エレノア……」
「でも、そんなことを願うのも、また甘えているようで……」
最後まで言えなかった。
アレクシスが立ち上がり、彼女をそっと抱き寄せたからだった。
エレノアは一瞬驚いたものの、すぐに彼の胸元へ顔を埋めた。
「会いたいと思ってくれたのか」
耳元に落ちた声は、どこか嬉しそうだった。
「……はい」
「なら、もっと早く帰ればよかった」
「そんな……お仕事が……」
「仕事は大切だ。だが、君も同じくらい……いや、俺にとっては何より大切だ」
アレクシスは彼女の髪を撫でた。
「帰ってきてよかった」
その一言に、エレノアの涙がまた溢れた。
けれど今度は、もう隠そうとはしなかった。
しばらく二人は、何も言わずに抱き合っていた。
やがてエレノアが落ち着きを取り戻した頃、アレクシスはそっと身体を離した。
「エレノア」
「……はい」
「今日、会合のあとに誰かと話したか?」
エレノアは目を瞬いた。
「……どうして、ですか?」
「君の失敗だけで、ここまで自分を責めるとは思えない」
アレクシスは彼女の顔を見つめた。
「何か、言われたんじゃないか?」
エレノアはしばらく迷っていた。
王女のことを話せば、彼に余計な心配をかけるかもしれない。
けれど、先ほどの言葉を思い出した。
嬉しいことも、つらいことも、俺に聞かせてくれ。
エレノアはゆっくりと口を開いた。
「……王女殿下と、お話ししました」
アレクシスの目が、わずかに細くなった。
「王女殿下と?」
「はい。会合のあと、廊下でお声をかけていただいて……」
エレノアは、王女との会話を少しずつ話し始めた。
侯爵夫人としての経験が足りないこと。
自分の発言によって、夫に余計な責任を負わせるかもしれないこと。
そして、愛されていることと、支えになれていることは違うのだと告げられたこと。
話を聞くうちに、アレクシスの表情から穏やかさが消えていった。
けれど、彼は途中で口を挟まなかった。
エレノアが最後まで話し終えると、アレクシスはしばらく黙っていた。
「……そうか」
低い声だった。
エレノアは不安そうに彼を見つめた。
「アレクシス様……?」
彼はすぐに表情を和らげ、彼女の頬を撫でた。
「話してくれてありがとう」
「……はい」
「今日のことは、もう一人で抱えなくていい」
アレクシスは彼女の額にそっと口づけた。
「君が俺の重荷になることなど、決してない」
エレノアは目を閉じた。
彼の腕の中は、いつもと変わらず温かかった。
もう涙を拭うことも、無理に笑おうとすることもなかった。
アレクシスは、そんな妻を静かに抱きしめていた。
彼女が今日、どれほど心を痛めたのか。そのすべてを理解できたとは思わない。
ただ、エレノアが自分の重荷になっていると思い詰めていたことが、何よりも悲しかった。
彼女は知らない。
自分がどれほど長い間、この温もりを求めていたのか。
ようやく手にしたこの幸せを、どれほど大切に思っているのか。
アレクシスは、エレノアを抱く腕にそっと力を込めた。
彼女のいない人生を、今さら考えることなどできなかった。




