75
秋が深まり、侯爵邸の庭には柔らかな陽射しが降り注いでいた。
午後のひととき、エレノアは庭の東屋で針仕事をしていた。膝の上には、青い花の刺繍を施した布が広げられている。
リーヴェで作られる品々を王都で扱ってもらうための準備は、少しずつ進んでいた。父からは、村の女性たちが試作品を作り始めたという便りも届いている。
まだ小さな一歩にすぎないが、エレノアにはそれが何より嬉しかった。
「エレノア様。そろそろお茶をお持ちしましょうか」
ローザが声をかける。
「ありがとう。お願いできる?」
「かしこまりました」
ローザが屋敷へ戻っていくと、エレノアは再び針を動かし始めた。
そのとき、庭へ続く道から足音が聞こえてきた。
顔を上げると、アレクシスがこちらへ歩いてくるところだった。
「アレクシス様!」
エレノアが立ち上がろうとすると、彼は軽く手を上げた。
「そのままでいい。少し時間ができたから、君の顔を見に来た」
「お仕事はもうよろしいのですか?」
「ひと区切りついたところだ」
アレクシスは彼女の隣に腰を下ろし、膝の上の布へ目を向けた。
「また新しいものを作っているのか?」
「はい。今度は少し模様を変えてみようと思いまして」
エレノアは刺繍を見せながら、リーヴェから届いた手紙の話をした。
村の女性たちが久しぶりに針を持ち、互いに教え合いながら試作品を作っていること。まだ材料も十分ではないが、少しずつ笑顔が戻ってきたと父が書いていたこと。
アレクシスは彼女の話に耳を傾け、穏やかに頷いた。
「よかったな」
「はい。本当に」
エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
「まだまだ、これからですけれど」
「ああ。急ぐ必要はない」
アレクシスは庭を見渡した。
「時間はかかるだろうが、少しずつ進めていけばいい」
「そうですね」
エレノアは刺繍を膝に置き、彼と同じように庭を眺めた。
五年前、リーヴェの庭で過ごした日々が、ふと懐かしくなる。
あの頃は、こうして隣に座る時間がいつか終わってしまうことを、いつもどこかで恐れていた。
けれど今は違う。
彼はもう、帰っていく客人ではない。
「アレクシス様」
「ん?」
「私、時々思うんです。五年前に戻れたら、あの頃の自分に何を伝えるだろうって」
アレクシスは彼女へ目を向けた。
「この前も、そんな話をしていたな」
「ふふ、そうでしたね。でも、今日は少し違うんです」
エレノアは笑って続けた。
「あの頃の私は、アレン様がお帰りになるのが寂しくて仕方ありませんでした。でも、今なら言ってあげられます。大丈夫よ、ちゃんとまた会えるから、って」
アレクシスはしばらく彼女を見つめていたが、やがて静かに微笑んだ。
「そうだな」
「それに、こんなに幸せになれるなんて、きっと想像もしていなかったと思います」
エレノアがそう言うと、アレクシスは彼女の手元へ視線を落とした。
「……俺も、同じだ」
「アレクシス様も?」
「ああ。あの頃は、君と再会できるかどうかさえ分からなかった。こうして毎日顔を合わせ、何でもない話をして過ごせる日が来るとは、思っていなかった」
エレノアの胸が温かくなった。
「私もです」
二人が微笑み合ったところへ、ローザがお茶を運んできた。
湯気の立つカップと焼き菓子が並べられ、東屋には穏やかな時間が流れた。
◇
夕方、エレノアは自室で小さな箱を開けていた。
中には、五年前から大切にしまっていたものがある。
リーヴェの庭で拾った、乾いた花びらだった。
当時、アレンと名乗っていたアレクシスと散歩をした帰り、何気なく拾ったものだ。今では色も褪せ、触れれば崩れてしまいそうになっている。
それでも、捨てることはできなかった。
「何を見ている?」
背後から声がして振り返ると、アレクシスが部屋へ入ってきたところだった。
「アレクシス様。これを見ていたんです」
エレノアは箱の中を見せた。
「五年前の、リーヴェの花びらです」
「……よく残していたな」
「ふふ。自分でも、どうしてこんなものを取っておいたのかと思うことがあります」
エレノアは少し恥ずかしそうに笑った。
「でも、捨てられなかったんです。あの頃のことを思い出せる気がして」
アレクシスは箱の中をしばらく見つめていた。
「君らしいな」
「そうでしょうか」
「ああ。君は昔から、何でもないものを大切にする」
エレノアは箱を閉じ、そっと引き出しへ戻した。
「今は、思い出の品がなくても、アレクシス様がいらっしゃいますから」
そう言って振り返ると、彼は少し困ったように笑っていた。
「……君は、時々そういうことを平気で言うな」
「まあ。何かおかしなことを言いました?」
「いや」
アレクシスは首を振り、彼女の前へ歩み寄った。
そして、不意に片膝をついた。
「……アレクシス様?」
驚いたエレノアが目を丸くする。
「エレノア」
「はい」
「君に、もう一度伝えておきたいことがある」
その真剣な表情に、エレノアは思わず背筋を伸ばした。
「俺はこれまで、多くの人間の前に立ってきた。戦場でも、王宮でも、侯爵としての務めを果たすときも」
アレクシスは一度言葉を切った。
「だが、君の前では、何者でもない一人の男でいたい」
エレノアの胸が高鳴った。
「五年前、君と出会って、初めてそう思った。あの頃の俺は、自分の身分も、抱えているものも、何一つ君に話せなかった。それでも君は、ただのアレンとして俺を受け入れてくれた」
「アレクシス様……」
「君と過ごした時間が、俺にとってどれほど大切だったか。きっと、まだ伝えきれていない」
彼はエレノアの手を取った。
「これから先も、嬉しいことばかりではないだろう。侯爵家のことも、リーヴェのことも、二人で向き合わなければならないことがある」
エレノアは頷いた。
「はい」
「それでも、俺は君と生きていきたい」
アレクシスはまっすぐに彼女を見つめた。
「エレノア。俺の妻になってくれて、ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、エレノアの目から涙がこぼれた。
「……そんな」
彼女は涙を拭おうとしたが、次から次へと溢れてくる。
「そんなことを言われたら、私……」
アレクシスは少し心配そうに眉を寄せた。
「泣かせるつもりはなかったんだが」
「嬉しいんです」
エレノアが涙を拭いながら答えると、アレクシスはふっと笑った。
「君は、昔より泣き虫になったな」
「……アレクシス様のせいです」
「俺のせいか?」
「はい。いつも、こんなに幸せな気持ちにさせてくださるから」
アレクシスは一瞬言葉に詰まり、それから困ったように微笑んだ。
「それなら、これからも泣かせてしまいそうだな」
エレノアは涙を浮かべたまま笑った。
「私の方こそ、ありがとうございます。私を見つけてくださって、もう一度会いに来てくださって……」
声が震え、言葉が続かなかった。
アレクシスは立ち上がろうとしたが、エレノアがその手を握った。
「アレクシス様」
「ん?」
「私も、アレクシス様の妻になれて、本当に幸せです」
彼は静かに微笑んだ。
「……そうか」
エレノアは彼の手を引き、そっと抱きしめた。
アレクシスも立ち上がって彼女を抱き寄せる。
窓の外では、夕陽が庭を柔らかく染めていた。
五年前、別れの日に交わした約束。
必ず、生きて帰る。
あのときは、再び会える保証など何もなかった。
それでも二人は、それぞれの場所で約束を胸に抱き、今日まで歩いてきた。
そして今、同じ家で、同じ明日を迎えようとしている。
◇
冷血侯爵。
王都の人々は、今もアレクシス・フォン・ヴァルツェンをそう呼ぶことがある。
戦場で一度も判断を誤らず、敵にも味方にも厳しく、滅多に笑顔を見せない侯爵。
けれど、その名を聞くたび、エレノアは少しだけ不思議な気持ちになる。
彼がどれほど優しく笑うのか。
どれほど不器用に愛情を伝えるのか。
そして、誰よりも温かな心を持っていることを、彼女は知っている。
その夜、寝室へ向かう廊下で、アレクシスがエレノアの手を取った。
「どうした?」
「いいえ。ただ……」
エレノアは彼を見上げ、微笑んだ。
「大好きです、アレクシス様」
アレクシスは一瞬驚いたように目を見開き、それから穏やかに笑った。
「俺もだ、エレノア」
二人は手を取り合い、並んで歩き始めた。
もう、別れを恐れる必要はない。
これから先、どんな季節が訪れても。
冷血侯爵が、その妻の前でだけ膝をつく理由は世界でただひとつ。
エレノア・フォン・ヴァルツェンという存在だけだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
新作『訳あり修理師ですが、完璧公爵様が手を離してくれません!』の連載を始めました。
今回は、訳ありの魔導具修理師と、彼女を手放したくない公爵様のお話です。
こちらも楽しんでいただけたら嬉しいです。




