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冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


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秋が深まり、侯爵邸の庭には柔らかな陽射しが降り注いでいた。


午後のひととき、エレノアは庭の東屋で針仕事をしていた。膝の上には、青い花の刺繍を施した布が広げられている。


リーヴェで作られる品々を王都で扱ってもらうための準備は、少しずつ進んでいた。父からは、村の女性たちが試作品を作り始めたという便りも届いている。


まだ小さな一歩にすぎないが、エレノアにはそれが何より嬉しかった。


「エレノア様。そろそろお茶をお持ちしましょうか」


ローザが声をかける。


「ありがとう。お願いできる?」


「かしこまりました」


ローザが屋敷へ戻っていくと、エレノアは再び針を動かし始めた。


そのとき、庭へ続く道から足音が聞こえてきた。

顔を上げると、アレクシスがこちらへ歩いてくるところだった。


「アレクシス様!」


エレノアが立ち上がろうとすると、彼は軽く手を上げた。


「そのままでいい。少し時間ができたから、君の顔を見に来た」


「お仕事はもうよろしいのですか?」


「ひと区切りついたところだ」


アレクシスは彼女の隣に腰を下ろし、膝の上の布へ目を向けた。


「また新しいものを作っているのか?」


「はい。今度は少し模様を変えてみようと思いまして」


エレノアは刺繍を見せながら、リーヴェから届いた手紙の話をした。


村の女性たちが久しぶりに針を持ち、互いに教え合いながら試作品を作っていること。まだ材料も十分ではないが、少しずつ笑顔が戻ってきたと父が書いていたこと。


アレクシスは彼女の話に耳を傾け、穏やかに頷いた。


「よかったな」


「はい。本当に」


エレノアは嬉しそうに微笑んだ。


「まだまだ、これからですけれど」


「ああ。急ぐ必要はない」


アレクシスは庭を見渡した。


「時間はかかるだろうが、少しずつ進めていけばいい」


「そうですね」


エレノアは刺繍を膝に置き、彼と同じように庭を眺めた。


五年前、リーヴェの庭で過ごした日々が、ふと懐かしくなる。

あの頃は、こうして隣に座る時間がいつか終わってしまうことを、いつもどこかで恐れていた。


けれど今は違う。


彼はもう、帰っていく客人ではない。


「アレクシス様」


「ん?」


「私、時々思うんです。五年前に戻れたら、あの頃の自分に何を伝えるだろうって」


アレクシスは彼女へ目を向けた。


「この前も、そんな話をしていたな」


「ふふ、そうでしたね。でも、今日は少し違うんです」


エレノアは笑って続けた。


「あの頃の私は、アレン様がお帰りになるのが寂しくて仕方ありませんでした。でも、今なら言ってあげられます。大丈夫よ、ちゃんとまた会えるから、って」


アレクシスはしばらく彼女を見つめていたが、やがて静かに微笑んだ。


「そうだな」


「それに、こんなに幸せになれるなんて、きっと想像もしていなかったと思います」


エレノアがそう言うと、アレクシスは彼女の手元へ視線を落とした。


「……俺も、同じだ」


「アレクシス様も?」


「ああ。あの頃は、君と再会できるかどうかさえ分からなかった。こうして毎日顔を合わせ、何でもない話をして過ごせる日が来るとは、思っていなかった」


エレノアの胸が温かくなった。


「私もです」


二人が微笑み合ったところへ、ローザがお茶を運んできた。

湯気の立つカップと焼き菓子が並べられ、東屋には穏やかな時間が流れた。



◇



夕方、エレノアは自室で小さな箱を開けていた。


中には、五年前から大切にしまっていたものがある。


リーヴェの庭で拾った、乾いた花びらだった。


当時、アレンと名乗っていたアレクシスと散歩をした帰り、何気なく拾ったものだ。今では色も褪せ、触れれば崩れてしまいそうになっている。


それでも、捨てることはできなかった。


「何を見ている?」


背後から声がして振り返ると、アレクシスが部屋へ入ってきたところだった。


「アレクシス様。これを見ていたんです」


エレノアは箱の中を見せた。


「五年前の、リーヴェの花びらです」


「……よく残していたな」


「ふふ。自分でも、どうしてこんなものを取っておいたのかと思うことがあります」


エレノアは少し恥ずかしそうに笑った。


「でも、捨てられなかったんです。あの頃のことを思い出せる気がして」


アレクシスは箱の中をしばらく見つめていた。


「君らしいな」


「そうでしょうか」


「ああ。君は昔から、何でもないものを大切にする」


エレノアは箱を閉じ、そっと引き出しへ戻した。


「今は、思い出の品がなくても、アレクシス様がいらっしゃいますから」


そう言って振り返ると、彼は少し困ったように笑っていた。


「……君は、時々そういうことを平気で言うな」


「まあ。何かおかしなことを言いました?」


「いや」


アレクシスは首を振り、彼女の前へ歩み寄った。


そして、不意に片膝をついた。


「……アレクシス様?」


驚いたエレノアが目を丸くする。


「エレノア」


「はい」


「君に、もう一度伝えておきたいことがある」


その真剣な表情に、エレノアは思わず背筋を伸ばした。


「俺はこれまで、多くの人間の前に立ってきた。戦場でも、王宮でも、侯爵としての務めを果たすときも」


アレクシスは一度言葉を切った。


「だが、君の前では、何者でもない一人の男でいたい」


エレノアの胸が高鳴った。


「五年前、君と出会って、初めてそう思った。あの頃の俺は、自分の身分も、抱えているものも、何一つ君に話せなかった。それでも君は、ただのアレンとして俺を受け入れてくれた」


「アレクシス様……」


「君と過ごした時間が、俺にとってどれほど大切だったか。きっと、まだ伝えきれていない」


彼はエレノアの手を取った。


「これから先も、嬉しいことばかりではないだろう。侯爵家のことも、リーヴェのことも、二人で向き合わなければならないことがある」


エレノアは頷いた。


「はい」


「それでも、俺は君と生きていきたい」


アレクシスはまっすぐに彼女を見つめた。


「エレノア。俺の妻になってくれて、ありがとう」


その言葉を聞いた瞬間、エレノアの目から涙がこぼれた。


「……そんな」


彼女は涙を拭おうとしたが、次から次へと溢れてくる。


「そんなことを言われたら、私……」


アレクシスは少し心配そうに眉を寄せた。


「泣かせるつもりはなかったんだが」


「嬉しいんです」


エレノアが涙を拭いながら答えると、アレクシスはふっと笑った。


「君は、昔より泣き虫になったな」


「……アレクシス様のせいです」


「俺のせいか?」


「はい。いつも、こんなに幸せな気持ちにさせてくださるから」


アレクシスは一瞬言葉に詰まり、それから困ったように微笑んだ。


「それなら、これからも泣かせてしまいそうだな」


エレノアは涙を浮かべたまま笑った。


「私の方こそ、ありがとうございます。私を見つけてくださって、もう一度会いに来てくださって……」


声が震え、言葉が続かなかった。

アレクシスは立ち上がろうとしたが、エレノアがその手を握った。


「アレクシス様」


「ん?」


「私も、アレクシス様の妻になれて、本当に幸せです」


彼は静かに微笑んだ。


「……そうか」


エレノアは彼の手を引き、そっと抱きしめた。

アレクシスも立ち上がって彼女を抱き寄せる。


窓の外では、夕陽が庭を柔らかく染めていた。


五年前、別れの日に交わした約束。


必ず、生きて帰る。


あのときは、再び会える保証など何もなかった。


それでも二人は、それぞれの場所で約束を胸に抱き、今日まで歩いてきた。

そして今、同じ家で、同じ明日を迎えようとしている。



◇



冷血侯爵。


王都の人々は、今もアレクシス・フォン・ヴァルツェンをそう呼ぶことがある。


戦場で一度も判断を誤らず、敵にも味方にも厳しく、滅多に笑顔を見せない侯爵。

けれど、その名を聞くたび、エレノアは少しだけ不思議な気持ちになる。


彼がどれほど優しく笑うのか。

どれほど不器用に愛情を伝えるのか。

そして、誰よりも温かな心を持っていることを、彼女は知っている。


その夜、寝室へ向かう廊下で、アレクシスがエレノアの手を取った。


「どうした?」


「いいえ。ただ……」


エレノアは彼を見上げ、微笑んだ。


「大好きです、アレクシス様」


アレクシスは一瞬驚いたように目を見開き、それから穏やかに笑った。


「俺もだ、エレノア」


二人は手を取り合い、並んで歩き始めた。


もう、別れを恐れる必要はない。

これから先、どんな季節が訪れても。


冷血侯爵が、その妻の前でだけ膝をつく理由は世界でただひとつ。


エレノア・フォン・ヴァルツェンという存在だけだった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。


新作『訳あり修理師ですが、完璧公爵様が手を離してくれません!』の連載を始めました。


今回は、訳ありの魔導具修理師と、彼女を手放したくない公爵様のお話です。


こちらも楽しんでいただけたら嬉しいです。

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