64
王都の朝は、薄い雲の向こうから差し込む日差しに包まれていた。
エレノアは鏡の前に立ち、ローザが整えてくれた髪にそっと手を添えた。今日の訪問先は、王都の外れにある孤児院だった。先日の慈善活動の集まりで話を聞いて以来、子どもたちに会える日を心待ちにしていた。
「奥様、こちらの上着もお持ちくださいませ。午後は少し冷えるそうです」
「ありがとう、ローザ。今日は外でも過ごすことになるかもしれないものね」
ローザが差し出した上着を受け取り、エレノアは机の上に置いた包みを確かめた。中には、アレクシスと二人で選んだ本が入っている。文字を覚え始めた子どもにも楽しめる絵本や、少し年長の子ども向けの物語など、何冊も選んでいるうちに、思いのほか大きな包みになってしまった。
「ずいぶん楽しそうだな」
背後から声がして振り向くと、アレクシスが扉のそばに立っていた。すでに仕事へ出る支度を整えている。
「はい。昨日から、何度も本を確かめてしまって」
「昨夜も同じことを言っていたな」
わずかに笑みを浮かべる夫に、エレノアは照れたように笑った。
「だって、どんな本を喜んでもらえるか分からないんですもの」
「君が選んだものなら、きっと喜ぶ」
「アレクシス様も一緒に選んでくださったでしょう?」
「それなら、なおさら間違いないな」
珍しく自信ありげに言うものだから、エレノアは思わず声を立てて笑った。
アレクシスは彼女のそばへ歩み寄ると、包みを一度見下ろした。
「無理はするな。初めての訪問なのだから、何もかも一度に引き受ける必要はない」
「はい。今日はまず、子どもたちの様子をよく見てこようと思っています」
「それがいい」
アレクシスは彼女の頬に軽く触れた。
「帰ったら、話を聞かせてくれ」
「もちろんです」
その言葉に見送られ、エレノアは穏やかな気持ちで一日を始めた。
◇
孤児院は、王都の賑やかな通りから少し離れた場所にあった。
古い石造りの建物にはところどころ補修の跡が見られたが、庭はきれいに掃き清められ、窓辺には小さな花鉢が並んでいた。
馬車を降りたエレノアを、先日の集まりで顔を合わせた伯爵夫人が迎えてくれた。
「ヴァルツェン侯爵夫人、お待ちしておりました」
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。子どもたちも、新しいお客様がいらっしゃると聞いて楽しみにしていたのですよ」
建物の中へ案内されると、廊下の向こうから子どもたちの賑やかな声が聞こえてきた。
広間には年齢の異なる子どもたちが集まっていた。まだ幼い子が床に座って積み木を並べ、その隣では年長の子が小さな布を縫い合わせている。
エレノアが挨拶すると、小さな女の子が伯爵夫人の後ろに隠れた。
「私はエレノアといいます。あなたのお名前を聞いてもいい?」
女の子はしばらく迷ったあと、小さな声で「ミア」と答えた。
エレノアが微笑みかけると、ミアも恥ずかしそうに笑った。
持参した本を広げると、子どもたちは興味深そうに集まってきた。最初は遠慮がちだった子も、物語が進むにつれて次々と声を上げ、登場人物の行動について言い合いを始める。
エレノアはその一つひとつに耳を傾けながら、ページをめくった。
やがて読み終えると、いつの間にか隣に座っていたミアが、そっと袖を引いた。
「ねえ、もう一回読んで?」
「同じお話でいいの?」
「うん!」
嬉しそうに頷くミアに、エレノアも笑顔を返した。
少し離れたところで見守っていた伯爵夫人は、子どもたちに囲まれるエレノアを穏やかな表情で眺めていた。
◇
昼食のあと、エレノアは伯爵夫人とともに院内を見て回った。
子どもたちの寝室や食堂、衣類を保管する部屋などを案内されるうちに、この施設が多くの人々の支えに
よって成り立っていることを知った。
「食料や衣類は、長年ご支援くださっている方々のおかげで、どうにか必要な量を確保できています」
院長を務める年配の女性が説明した。
「ですが、成長した子どもたちが施設を出たあとのことを考えると、まだ課題は多くございます」
「施設を出たあと、ですか?」
「ええ。職人のもとへ奉公に出る子もおりますし、商家で働き始める子もおります。けれど、読み書きや計算を十分に学べないままでは、選べる仕事が限られてしまうのです」
エレノアは、先ほど広間で出会った子どもたちの顔を思い浮かべた。
絵本を夢中になって見つめていた子もいれば、文字の部分を指でなぞりながら、隣の子に読んでもらっていた子もいた。
「こちらでは、読み書きを教える時間もあるのでしょうか」
「週に何度か、教えに来てくださる方がいらっしゃいます。ただ、人数も時間も足りませんので……」
院長は申し訳なさそうに微笑んだ。
「本日お持ちいただいた本は、本当にありがたいものです」
「そんな……。私も、子どもたちと一緒に楽しませていただきました」
エレノアは少し考えてから、続けた。
「もしご迷惑でなければ、また本を読みに伺ってもよろしいでしょうか。私に教えられることは多くありませんが、文字を覚えるお手伝いくらいなら……」
院長の表情が明るくなった。
「もちろんでございます。子どもたちも、きっと喜びます」
隣で話を聞いていた伯爵夫人も頷いた。
「それは素晴らしいことですわ。次の慈善活動の集まりでも、教育の支援について話し合う予定なのです」
「そうなのですね」
「今は食料や衣類の支援が中心ですが、これからは子どもたちの将来についても考えていかなければなりませんもの」
エレノアは静かに頷いた。
リーヴェで戦争の傷跡を見てきた彼女にとって、暮らしを立て直すことが容易ではないのはよく分かっていた。
ただ食べるものがあれば、それですべてが解決するわけではない。
けれど、食べるものがなければ、明日のことを考える余裕さえなくなってしまう。
どちらも大切なのだと、改めて感じた。
「私も、もっと勉強しなければなりませんね」
エレノアがそう言うと、伯爵夫人は優しく笑った。
「最初からすべてをご存じの方などおりませんわ。こうして足を運び、ご自身の目で確かめることが大切なのだと思います」
その言葉に、エレノアは励まされる思いだった。
帰り際、ミアが小さな手でエレノアの袖を引いた。
「ねえ、また来る?」
「ええ。また来てもいいかしら?」
「うん! 次は違うお話も読んでね!」
「約束ね」
差し出された小さな手に指を絡めると、ミアは満足そうに笑った。
その温もりが、馬車に乗ってからもエレノアの心に残っていた。
◇
同じ日の午後、王宮では外国からの使節団を交えた協議が続いていた。
王女は会議室を出たところで、廊下の先にアレクシスの姿を見つけた。
声をかけようとした、そのときだった。
「閣下、少々よろしいでしょうか」
若い士官が足早に近づき、アレクシスに書類を差し出した。
「明日の視察について、先方から変更の申し出がありまして……」
アレクシスは書類に目を通した。
「訪問先の追加か」
「はい。ですが、現地の受け入れ態勢がまだ整っておりません」
「警備経路は確認したのか?」
「いえ、これからです」
「それでは許可できない。先方には、確認が済むまで予定を確定できないと伝えろ」
士官は少し困ったような表情を浮かべた。
「しかし、使節団からは、ぜひ明日のうちにと……」
「事情は分かる。だが、賓客の安全を確保できないまま予定を組むわけにはいかない」
声を荒らげることもなく、アレクシスは淡々と告げた。
「現地の担当者と連絡を取り、必要な人員と経路を確認しろ。間に合わなければ、別の日程を提案する」
「承知いたしました」
士官が一礼して立ち去ると、今度はセドリックが近づいてきた。
「また予定の変更ですか」
「ああ。現地の確認が必要だ」
「では、私が担当者を集めます」
「頼む。今日中に確認できるところまでは進めておきたい」
二人は短く言葉を交わし、それぞれの仕事へ戻ろうとした。
その様子を、王女は少し離れた場所から見つめていた。
戦場で功績を上げた英雄。
冷静沈着で、誰もが一目置く侯爵。
その評判は何度も耳にしてきた。けれど、実際に目にした彼は、噂に聞く華々しい英雄像とは少し違っていた。
相手の立場にかかわらず、必要なことは明確に伝える。部下の報告に耳を傾けながらも、最後の判断は自ら下す。そこには、周囲からの称賛を求める様子など少しもなかった。
王女は、胸の奥が静かに高鳴るのを感じた。
「ヴァルツェン侯爵閣下」
思わず声をかけると、アレクシスは足を止め、王女へ向き直った。
「王女殿下。何かご用でしょうか」
「先ほどのお話が、少し聞こえてしまいましたの。明日の視察で、何か問題でも?」
「訪問先の変更がございます。現在、警備上の確認を進めております」
「そうでしたのね。皆様にはご苦労をおかけしますわ」
「安全にご滞在いただくことが、我々の務めでございます」
「……侯爵閣下は、いつもそのようにお仕事を?」
アレクシスはわずかに首を傾げた。
「と、おっしゃいますと」
「どのような状況でも、落ち着いていらっしゃるので」
「確認すべきことを確認しているだけでございます」
王女は微笑んだ。
「それを当然のようになさるところが、素晴らしいのだと思いますわ」
「恐れ入ります」
丁寧な返答だったが、アレクシスはそれ以上言葉を重ねなかった。
「それでは、失礼いたします」
礼を取って立ち去る彼の背中を、王女はしばらく見送っていた。
もっと話してみたい。
戦場ではどのようなことを考えていたのか。今の仕事に何を感じているのか。普段はどんな時間を過ごしているのか。
知りたいことはいくつもあるのに、彼は必要なことしか話してくれない。
それでも、以前のように、ただ距離を感じるだけではなかった。
彼がどのような人物なのか、知れば知るほど惹かれていく。
そんな自分の気持ちに、王女は気づき始めていた。
ふと、先日の茶会で話したエレノアの顔が浮かんだ。
穏やかで、誰に対しても分け隔てなく接する女性だった。王女である自分にも必要以上に取り入ろうとせず、慈善活動について真剣に耳を傾けていた。
悪い人ではない。
むしろ、好ましい女性なのだと思う。
それでも、アレクシスが妻に向けたあの微笑みを思い出すと、胸の奥が落ち着かなくなった。
自分には決して向けられない表情。
なぜ、彼女なのだろう。
侯爵家とリーヴェルト子爵家には、以前から親交があったと聞いている。
きっと、そうした縁が結婚につながったのだろう。
王女は、そう考えていた。
もし、彼が別の女性と出会っていたなら。
もし、自分がもう少し早く彼を知っていたなら。
そこまで考えて、王女は小さく息をついた。
すでに結婚している相手なのだ。
分かっている。
それなのに、心のどこかで別の可能性を探してしまう。
「……侯爵夫人は、今日はどちらへ?」
そばに控えていた侍女に尋ねると、侍女は少し考えてから答えた。
「確か、伯爵夫人方と孤児院を訪問されるご予定だったかと存じます」
「孤児院?」
「はい。王妃陛下が後援なさっている慈善活動の一環だそうです」
王女は窓の外へ視線を向けた。
「……私も、一度その様子を拝見してみたいわ」
「ご視察をご希望でしょうか?」
「ええ。せっかくこの国を訪れているのですもの。王宮の中だけでなく、民の暮らしについても知っておきたいわ」
それは、王女として何ら不自然ではない申し出だった。
侍女は承知し、日程を確認するために下がっていった。
一人になった王女は、先ほどのアレクシスの姿を思い返した。
彼の仕事を、もう少し近くで見てみたい。
そして、彼が妻に選んだ女性のことも、もっと知りたかった。
◇
夕刻、侯爵邸へ戻ったエレノアは、夕食の席でさっそく孤児院での出来事を話した。
「ミアという女の子がいたんです。最初は伯爵夫人の後ろに隠れていたのに、帰る頃には次のお話を約束してくれて」
アレクシスは食事の手を止め、楽しそうに話す妻を見つめた。
「ずいぶん気に入られたようだな」
「そうだと嬉しいです。それに、子どもたちが物語の途中で、登場人物の行動について言い合いを始めてしまって。みんな、とても真剣だったんですよ」
「結論は出たのか?」
「いいえ。最後まで決まりませんでした」
エレノアが笑うと、アレクシスもつられるように口元を緩めた。
「それなら、次に行ったときも続きを話せそうだ」
「そうですね」
エレノアは嬉しそうに頷いたあと、少し表情を改めた。
「それから、院長先生にお話を伺ったんです。子どもたちが施設を出たあと、仕事を見つけるのが難しい場合もあるそうで……」
「読み書きや計算を学ぶ機会が足りないのか」
「はい。教えてくださる方はいらっしゃるそうなのですが、十分ではないみたいです」
アレクシスは静かに耳を傾けていた。
「次の集まりでは、教育の支援についても話し合うそうです。私にも何かできることがないか、考えてみたいと思っています」
「君らしいな」
「でも、今日お話を聞いただけでは、まだ分からないことばかりです」
「それでいい。分からないことがあれば、現場の人間に聞けばいい」
アレクシスは穏やかに続けた。
「君が今日見てきたことも、そこで働く人々の言葉も、きっと次につながる」
その言葉に、エレノアは微笑んだ。
「ありがとうございます。アレクシス様」
夕食を終え、二人で私的な居間へ戻ると、エレノアは書棚から一冊の本を取り出した。
「今度は、こちらも持っていこうかと思っているんです」
「どんな話だ?」
「旅に出た兄妹が、いろいろな町を巡るお話です。少し難しい言葉もありますけれど、年長の子どもたちなら楽しめるかもしれません」
アレクシスは本を受け取り、数ページをめくった。
「なるほど。悪くないな」
「でしょう?」
嬉しそうに身を乗り出したエレノアを見て、アレクシスは微笑んだ。
「次は何冊持っていくつもりだ?」
「……まだ決めていません」
「また大きな包みになりそうだな」
「今度は、少し控えめにします」
そう答えながらも、エレノアの視線はすでに別の本へ向かっていた。
アレクシスは小さく笑い、彼女が選ぶ本を一緒に眺めた。
窓の外では、王都の街並みに夜の帳が下り始めていた。
子どもたちの笑顔を思い出すたび、エレノアの胸には温かなものが広がった。
自分にできることは、まだほんのわずかかもしれない。
それでも、今日交わした小さな約束を大切にしていきたい。
エレノアはそう思いながら、次の訪問で読んであげたい本を、もう一冊だけ書棚から取り出した。




