63
王宮の回廊には、午後の柔らかな陽射しが差し込んでいた。
王女は侍女を伴い、王妃との昼食を終えて迎賓館へ戻るところだった。窓の外に広がる庭園では庭師たちが花壇の手入れをしており、開け放たれた窓からは心地よい風が入り込んでいる。
「殿下、明日は王立劇場をご覧になる予定でございます」
隣を歩く侍女が予定を確認すると、王女は頷いた。
「ええ、楽しみにしているわ。こちらの劇場はとても歴史があるのでしょう?」
「はい。王都でも特に由緒ある建物だと伺っております」
王女は明日の予定について話しながら角を曲がったところで、向こうから歩いてくる一団に気づいた。
先頭にいたのは、ヴァルツェン侯爵だった。
軍服姿のアレクシスは、隣を歩くセドリックと何かを話していたが、王女の姿に気づくと足を止め、丁寧に礼をした。
「王女殿下」
「ヴァルツェン侯爵閣下。ごきげんよう」
王女は思いがけない再会に微笑んだ。
「先日の視察では、本当にお世話になりました。改めてお礼を申し上げたかったの」
「恐れ入ります。視察が無事に終わり、何よりでした」
「ええ。あの施設で伺ったお話は、祖国でも役立てられると思います。侯爵閣下のおかげで、とても有意義な時間になりました」
「施設の方々も、殿下のご訪問を喜ばれておりました」
アレクシスは穏やかに答えたが、それ以上話を広げる様子はなかった。
王女は少し迷ってから、もう一つ尋ねてみた。
「侯爵閣下は、普段から王宮にいらっしゃることが多いのですか?」
「公務のある日は、こちらにおります」
「そうなのですね。いつもお忙しそうですもの」
「現在は公務が立て込んでおりますので」
王女は頷いたものの、次に何を話せばよいのか分からなくなった。
そのとき、隣に控えていたセドリックが一歩進み出た。
「閣下、そろそろお時間です」
「ああ」
アレクシスは頷き、王女へ向き直った。
「申し訳ありませんが、次の予定がございますので、これで失礼いたします」
「ええ。お引き止めしてしまってごめんなさい」
「とんでもございません。それでは」
アレクシスは一礼すると、セドリックたちを伴って回廊の奥へと歩いていった。
王女はその後ろ姿を見送りながら、小さく息をついた。
いつも礼儀正しく、こちらの問いにはきちんと答えてくれる。けれど、彼の方から何かを尋ねられたことは、ほとんどなかった。
王女は、彼の方からも話しかけてほしかった。公務とは関係のないことを尋ねられたり、次に会う機会を楽しみにしていると言われたりすれば、どれほど嬉しいだろう。
「殿下、そろそろ参りましょうか」
侍女に声をかけられ、王女は顔を上げた。
「ええ、そうね」
王女は再び歩き出したが、先ほどの短い会話がしばらく頭から離れなかった。
◇
同じ日の午後、エレノアは王宮の一室で、慈善活動に携わる貴婦人たちと顔を合わせていた。
先日の茶会で知り合った伯爵夫人から声をかけられ、活動の詳しい話を聞くことになったのだ。
「こちらが、現在支援している施設の一覧です」
伯爵夫人が広げた書類には、王都にある孤児院や生活に困っている人々のための施設が記されていた。
「衣類や日用品を届ける活動が中心なのですが、最近は子どもたちの学習を支える取り組みも始めているのよ」
「学習、ですか?」
「ええ。戦争で家族を失った子どもたちの中には、学校へ通うことが難しくなった子も多くて。読み書きや計算を教えるために、協力してくださる方を探しているの」
エレノアは興味深そうに書類へ目を落とした。
「それなら、私にも何かお手伝いできるかもしれません」
「本当? それは心強いわ」
伯爵夫人が嬉しそうに微笑むと、エレノアも笑顔になった。
「まだ分からないことばかりですが、子どもたちと一緒に本を読むことなら、私にもできると思うんです」
「素敵ね。まずは一度、施設を見学してみてはいかがかしら?」
「ぜひお願いいたします」
その後も活動について話を聞き、エレノアは来週、伯爵夫人と一緒に孤児院を訪問することになった。
王都に来てから、何か自分にできることはないかと考えていた。こうして少しずつでも行動に移せることが、嬉しくて仕方がなかった。
話し合いが終わる頃には、窓の外の日差しも少し傾き始めていた。
「今日はありがとうございました。来週を楽しみにしております」
エレノアが礼をすると、伯爵夫人は優しく微笑んだ。
「こちらこそ。侯爵夫人のような若い方が関心を持ってくださって、本当に嬉しいわ」
エレノアはもう一度礼をして部屋をあとにした。
◇
王宮の正面玄関へ向かう途中、エレノアは見慣れた後ろ姿を見つけた。
「アレクシス様?」
声をかけると、セドリックと話していたアレクシスが振り返った。
「エレノア。もう終わったのか?」
「はい。ちょうど帰るところです」
エレノアは嬉しそうに歩み寄った。
「アレクシス様も、もうお仕事は終わりですか?」
「今日はこれで終わりだ。話し合いはどうだった?」
「とても勉強になりました。来週、孤児院を見学させていただくことになったんです」
「そうか。それはよかったな」
アレクシスは妻の嬉しそうな顔を見て、わずかに表情を和らげた。
「馬車はもう来ているのか?」
「はい。玄関で待っていただいています」
「なら、私も一緒に帰ろう」
「本当ですか?」
「ああ。少しだけセドリックと確認することがあるから、待っていてくれるか」
「もちろんです」
エレノアが笑顔で頷くと、アレクシスも小さく笑った。
そのやり取りを見ていたセドリックは、二人から少し離れたところで待っていた。
「それでは閣下、先ほどの件ですが……」
セドリックが仕事の話を始めると、エレノアは邪魔にならないよう少し離れ、窓辺に飾られた花を眺めていた。
◇
その頃、王女は王妃との別の用事を終え、侍女とともに迎賓館へ戻るところだった。
正面玄関へ続く回廊を歩いていると、見覚えのある軍服姿が目に入り、王女は思わず足を緩めた。
先ほど別れたばかりのアレクシスだった。
少し離れたところには、淡い色のドレスをまとったエレノアの姿もある。
王女が見ていると、セドリックとの話を終えたアレクシスが、エレノアのもとへ戻ってきた。
「待たせたな」
「いいえ。もうよろしいのですか?」
「ああ。帰ろうか」
そう言ってアレクシスが自然に腕を差し出すと、エレノアは嬉しそうにその腕へ手を添えた。
「今日はアレクシス様にお話ししたいことがたくさんあるんです」
「そうか。帰りの馬車で聞かせてくれ」
アレクシスは妻の顔を見て柔らかく微笑むと、そのまま腕を組んで並んで歩き出した。
王女は思わず二人の後ろ姿を目で追った。先ほど自分と話していたときには見せなかった笑顔が、妙に印象に残っていた。
ふと、先日の茶会でエレノアが夫について楽しそうに語っていたことを思い出す。一緒に本を読み、面白かった物語を教え合うのだと、彼女は嬉しそうに話していた。
あのときは、冷静で感情を表に出さない侯爵が妻とそんな時間を過ごしている姿など想像できなかった。けれど、今なら少し分かる気がする。
彼は妻の前では、あんなふうに笑うのだ。
「殿下?」
侍女に呼ばれ、王女ははっとした。
「……何でもないわ。行きましょう」
再び歩き出したものの、王女はどうしても納得できなかった。
エレノアは何も特別なことをしていない。ただ夫に声をかけ、今日あった出来事を話していただけだ。
それなのに、アレクシスは自分から妻に話しかけ、腕を差し出して一緒に帰っていった。
自分には、あんなふうに接してくれたことはない。
夫婦なのだから当然だと、頭では理解している。それでも、エレノアが羨ましかった。自分にも、あの笑顔を向けてほしいと思ってしまう。
◇
屋敷へ戻ったエレノアは、夕食の席でも今日の出来事を楽しそうに話していた。
「来週は孤児院を訪問することになったんです。伯爵夫人が案内してくださるそうで」
「そうか。どんな施設なんだ?」
「戦争で家族を失った子どもたちが暮らしているそうです。読み書きや計算を教える活動もされていると伺いました」
「それなら、君も力になれそうだな」
「はい。私もそう思って」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
「どんな本を持っていこうかしら。子どもたちが楽しんでくれるものを選びたいんです」
「それなら、あとで一緒に選ぼうか」
「本当ですか? 嬉しいです!」
「ただし、無理はしないようにな」
「はい。ちゃんと気をつけます」
エレノアは笑顔で答えたものの、アレクシスは少しだけ疑わしそうな顔をした。
「……本当だろうな?」
「もう、アレクシス様。私だって、無理をしないように気をつけています」
「そうか?」
「はい!」
エレノアが少しむきになって答えると、アレクシスは楽しそうに笑った。
そんな夫の表情を見て、エレノアもつられて笑ってしまう。
食事を終えたあと、二人は居間でゆっくりと過ごした。
エレノアは孤児院で子どもたちに読んであげる本を選びたいと言い、アレクシスも書棚の前で一緒に考えてくれた。
「この物語はどうでしょう?」
エレノアが一冊の本を取り出すと、アレクシスは表紙を見て頷いた。
「いいと思う。ただ、少し長いかもしれないな」
「そうですね。小さな子どもたちには難しいでしょうか」
「最初は短い話の方が楽しめるんじゃないか?」
「なるほど……。それなら、こちらの本はどうでしょう?」
エレノアが別の本を差し出すと、アレクシスはそれを受け取り、ぱらぱらとページをめくった。
「これならよさそうだ」
「では、こちらにします!」
嬉しそうに本を抱えたエレノアを見て、アレクシスは穏やかに微笑んだ。
◇
その夜、迎賓館では王女が一人、窓辺の椅子に腰かけていた。
明日の王立劇場への訪問に備え、侍女たちはすでに支度を終えている。
王女は手元に置いた本を開いていたが、なかなか内容が頭に入ってこなかった。
昼間、王宮で見かけた二人の姿が何度も思い出される。
エレノアは素敵な女性だった。
先日の茶会では、故郷のことや慈善活動について真剣に話し、夫の話になると嬉しそうに笑っていた。
嫌いになる理由など、何一つない。
けれど、アレクシスが彼女に向けた笑顔を思い出すと、どうしても羨ましくなる。
自分がどれほど話しかけても、彼は礼儀正しく答えるだけだった。
それなのに、エレノアには自然に笑いかけ、自分から声をかけていた。
王女は本を閉じ、窓の外に広がる夜の庭園へ目を向けた。
もし、あの方が結婚されていなかったら。
ふと浮かんだ考えに、自分でも驚いた。
そんなことを考えても仕方がない。彼にはすでに妻がいるし、その妻は自分が好感を持った女性でもある。
それでも王女は、アレクシスにもっと近づきたかった。彼が自分にも笑いかけ、仕事以外の話をしてくれるようになってほしい。妻に向けるものと同じではなくても、せめて自分を特別な女性として意識してほしかった。
これまで、自分が望んだことの多くは周囲が叶えてくれた。もちろん、王女という立場ゆえに思いどおりにならないこともあったが、少なくとも誰かにこれほど関心を持ち、その相手から同じように関心を向けてもらえない経験は初めてだった。
王女は窓に映る自分の姿を見つめた。
あの方は、私のことをどう思っているのかしら。
王女としてではなく、一人の女性として。
彼の答えを知りたいと思う一方で、ただの国賓としてしか見られていないのではないかという不安もあった。
それが悔しかった。
王女は再び本を開いたが、今度もなかなかページをめくることができなかった。




