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冷血侯爵は、妻の前でだけ膝をつく  作者: 白しの


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歓迎晩餐会から二日後、王女は王都の東側にある復興地区を訪れることになっていた。


かつて戦争の被害を受けたこの地区には、古い建物と新しく建て直された家々が混在している。復興は着実に進んでいるものの、今もなお整備を必要とする場所が残されており、王女は以前から実際にその様子を見てみたいと希望していた。


迎賓館を出発した馬車には、王女と侍女、それに外交官が同乗していた。


「今日は少し歩くことになるそうです。殿下、お疲れになりましたら遠慮なくお申し付けください」


「大丈夫よ。せっかく来たのだから、できるだけ多くの場所を見ておきたいわ」


窓の外を眺めながら答えると、侍女は微笑んだ。


王都の中心部を抜けるにつれ、街並みは少しずつ変わっていった。華やかな商店が並ぶ通りを過ぎると、石材を積んだ荷車や、建築資材を運ぶ職人たちの姿が増えてくる。


やがて馬車が速度を落とし、視察の出発地点となる広場へ到着した。

王女が馬車を降りると、現地の役人たちが揃って頭を下げた。


「王女殿下。本日はようこそお越しくださいました」


「こちらこそ、お世話になります。皆様のお仕事について、ぜひ詳しくお聞かせください」


挨拶を交わしたところで、役人たちの少し後ろに立つ黒髪の男性が目に入った。


アレクシス・フォン・ヴァルツェン侯爵だった。


晩餐会で見た華やかな正装とは違い、今日は動きやすさを考えた濃紺の軍服を身につけている。腰には剣を帯び、数人の護衛官と何かを確認していた。

王女に気づくと、彼は話を切り上げて近づいてきた。


「王女殿下。本日の警護を担当いたします、ヴァルツェンです」


「侯爵閣下もいらっしゃるのですね」


「はい。視察経路の安全確認も済んでおりますので、予定どおりご案内できるかと存じます」


「それは心強いですわ。よろしくお願いいたします」


アレクシスは一礼すると、現地の責任者へ視線を向けた。


「では、始めましょう」


王女は案内役の役人に続き、石畳の道を歩き始めた。



◇



最初に案内されたのは、修復工事が進む大通りだった。


戦時中に大きな被害を受けたというこの場所には、以前の建物の一部を残しながら、新しい商店や住居が建てられていた。


「こちらの通りは、昨年から本格的な整備を始めました。現在は半分ほどの建物が完成しております」


役人の説明を聞きながら、王女は周囲を見渡した。

新しく塗られた壁の隣には、まだ崩れた石積みが残っている。道の端では職人たちが作業を進めており、その近くを子どもたちが駆け抜けていった。


「思っていたより、ずっと賑やかなのですね」


「ええ。住民の皆様が少しずつ戻ってきてくださっています。ただ、まだ十分な住居を確保できておらず、課題も多く残っております」


「そうなのですね……」


王女は、完成したばかりの店先で商品を並べる女性に目を向けた。

戦争が終わったからといって、すべてが元に戻るわけではない。

祖国にも同じような地域があり、その苦労はよく耳にしていた。


「以前、こちらの通りでは資材の搬入が遅れていると報告を受けましたが、その後はいかがですか」


少し後ろを歩いていたアレクシスが尋ねた。

役人はすぐに振り返った。


「はい。先月から搬入経路を変更したことで、以前より安定しております。ただ、北側の橋の補修が終わるまでは、遠回りが必要な状況です」


「橋の工事は予定どおり進んでいますか」


「今のところ、大きな遅れは出ておりません」


「分かりました。引き続き、住民の往来に支障が出ないようお願いします」


「承知いたしました」


二人のやり取りを聞いていた王女は、少し意外に思った。

アレクシスは警護の責任者として同行していると聞いていたが、復興事業の進み具合まで把握しているらしい。


「侯爵閣下は、こちらの工事にも関わっていらっしゃるのですか?」


「直接の担当ではありませんが、復興に関する報告には目を通しております」


「そうでしたか。随分と詳しくご存じなのですね」


「以前、この地域の復興計画に関わる機会がありましたので」


それだけ答えると、アレクシスは前方の護衛官へ合図を送った。


王女は彼の横顔を見ながら、晩餐会での姿を思い出した。

あの夜は、どこか近寄りがたい人物に感じられたけれど、こうして仕事の話をしているときの彼は、言葉こそ少ないものの、相手の説明をきちんと聞いている。


自分が知らなかった一面を、また一つ見つけたような気がした。



◇



大通りを抜けると、一行は新しく建てられた共同施設へ向かった。

そこは住民たちが集会や作業に利用する場所で、建物の一角には子どもたちが学ぶための部屋も設けられていた。


中へ入ると、机に向かっていた数人の子どもたちが一斉に顔を上げた。


「こんにちは」


王女が声をかけると、子どもたちは驚いたように顔を見合わせた。

やがて一人の女の子が立ち上がり、ぎこちなく礼をした。


「こ、こんにちは!」


その様子が可愛らしくて、王女は思わず笑顔になった。


「お勉強をしていたの?」


「はい! 今日は字を書く練習をしていました」


「まあ、そうなのね。見せてもらってもいいかしら?」


女の子は嬉しそうに頷き、机の上に広げていた紙を差し出した。

そこには、まだ形の揃わない文字が一生懸命に書かれていた。


「とても上手ね」


「本当ですか?」


「ええ。たくさん練習したのでしょう?」


女の子は照れたように笑った。

その隣では、小さな男の子が王女のドレスをじっと見つめていた。


「どうしたの?」


王女が尋ねると、男の子は少し迷ってから口を開いた。


「お姫様って、本当にいるんだね」


周囲から小さな笑い声が上がった。


「ええ、いるのよ」


王女が笑って答えると、男の子は目を丸くした。


「すごい!」


その素直な反応に、王女も声を上げて笑った。

しばらく子どもたちと話したあと、一行は施設の責任者から説明を受けることになった。


「現在は読み書きのほか、簡単な計算も教えております。以前は学ぶ場所そのものがなかった子どもたちも多く、こうして集まれるようになったことを、皆喜んでおります」


「素晴らしい取り組みですね」


王女が答えると、責任者は嬉しそうに頭を下げた。

そのとき、少し離れたところで、アレクシスが一人の護衛官と話しているのが見えた。


「建物の裏手は確認したか」


「はい。異常ありません」


「分かった。次の移動まで、引き続き周囲を見ていてくれ」


王女はその様子を眺めながら、彼が視察中も絶えず周囲へ気を配っていることに気づいた。

説明を聞いているときも、子どもたちと話しているときも、彼は決して仕事を忘れていない。

それでいて、必要以上に人々を緊張させるようなこともなかった。


王女は少し感心した。

英雄と呼ばれる人は、もっと威圧的なものだと思っていた。

けれど、実際の彼は随分と違う。



◇



午後になると、一行は地区の外れにある橋の補修現場へ向かった。

古い石橋の一部は戦争で損傷しており、現在は新しい石材を使って修復が進められている。

橋の手前には仮設の通路が設けられていたが、工事のため地面にはところどころ凹凸が残っていた。


「殿下、こちらは足元が少々悪くなっております。どうぞお気をつけください」


案内役の役人が声をかけた。


「ええ、ありがとう」


王女は足元を確かめながら、ゆっくりと歩き始めた。

橋の近くまで来ると、工事を担当する技師が補修の方法について説明を始めた。


「この部分は以前の石材を利用しておりますが、内部の支えは新しいものに交換しております。完成すれば、以前よりも多くの荷車が通行できる予定です」


「それは便利になりますね」


王女は説明を聞きながら、橋の下を流れる川へ目を向けた。

水面には午後の日差しが反射し、きらきらと光っている。


「向こう岸にも、まだ修復が必要な建物が残っているのですね」


「はい。橋が完成すれば、そちらの整備も進めやすくなります」


王女はもう少し近くで見ようと、一歩前へ踏み出した。


その瞬間、靴の先が小さな石に引っかかった。


「あっ……!」


体が傾き、思わず手を伸ばしたところで、すぐ横から腕を支えられた。


「殿下」


顔を上げると、アレクシスがすぐそばに立っていた。


「お怪我はありませんか」


「……ええ。大丈夫です」


王女が答えると、彼は足元を確認してから、ゆっくりと手を離した。


「この先は足場が不安定です。どうぞこちらへ」


そう言って、安全な場所へ移動するよう促した。


「ありがとうございます、侯爵閣下」


「いえ。お怪我がなくて何よりです」


アレクシスはそれ以上何も言わず、案内役の役人へ視線を向けた。


「殿下には、ここから説明をお願いできますか」


「は、はい。承知いたしました」


王女は、少しだけ胸の鼓動が速くなっていることに気づいた。


ほんの一瞬、腕を支えてもらっただけだった。

けれど、咄嗟に伸ばされた手は思っていたよりも力強く、間近で聞いた声も、いつもより低く感じられた。


王女はそっと自分の腕に目を落とした。

もちろん、彼は警護の責任者として当然のことをしただけなのだろう。

そのことは分かっている。

それでも、なぜか少し落ち着かなかった。


「殿下、こちらをご覧ください」

技師に声をかけられ、王女は慌てて顔を上げた。


「ええ。お願いします」


説明を聞きながらも、先ほどの出来事が時折頭をよぎった。



◇



すべての視察を終えた頃には、空が少しずつ夕暮れの色に変わり始めていた。

王女は現地の役人たちに礼を述べ、馬車へ戻ることになった。


「本日は大変勉強になりました。皆様が復興のために尽力されていることを、実際に拝見できて嬉しく思います」


「ありがたいお言葉をいただき、光栄でございます」


役人たちが揃って頭を下げる。

王女は一人ひとりに笑顔を向けたあと、アレクシスの方へ振り返った。


「侯爵閣下も、今日はありがとうございました」


「お役に立てたのであれば幸いです」


「とても心強かったですわ。それに、復興についても詳しくお話を伺えて、勉強になりました」


「そうおっしゃっていただければ、現地の者たちも喜ぶでしょう」


王女は少し笑った。


「侯爵閣下は、ご自身のことをあまりお話しにならないのですね」


アレクシスはわずかに首を傾げた。


「そうでしょうか」


「ええ。皆様からは英雄と呼ばれていらっしゃるのに」


「戦争は私一人で戦ったものではありません。多くの者が力を尽くした結果です」


あまりにも当たり前のことのように答えるので、王女は少し驚いた。


「……そうですわね」


アレクシスは一礼し、馬車のそばに控えていた護衛官へ合図を送った。


「帰路の準備が整っております。どうぞ、お乗りください」


「ええ。ありがとう」


王女は馬車へ乗り込み、窓からもう一度外を見た。

アレクシスはすでに護衛官たちと話しており、こちらを見てはいなかった。


やがて馬車が動き出すと、王女は座席に深く腰を下ろした。


「今日は随分と歩きましたね、殿下」


侍女が声をかけた。


「ええ。でも、とても楽しかったわ」


「復興の様子も、詳しくご覧になれましたね」


「そうね。祖国でも参考にできることがたくさんありそう」


王女は窓の外へ目を向けた。


今日一日、さまざまな人と話をした。

懸命に働く職人たち、学ぶことを楽しむ子どもたち、街を立て直そうと努力する役人たち。

そのどれもが心に残っている。


そして、アレクシスのことも。


彼は今日も、必要なことしか話さなかった。

けれど、現場の人々と交わす言葉には誠実さがあり、警護にあたる姿も頼もしかった。

何より、橋の上で咄嗟に支えてくれたときのことを思い出すと、今でも少し胸が落ち着かなくなる。


王女は小さく息をついた。

歓迎晩餐会で見た、妻に向ける穏やかな笑顔。

そして今日、仕事に向き合う真剣な横顔。

知れば知るほど、もっと話してみたくなる。


「……また、お会いできるかしら」


思わず零れた言葉に、侍女が顔を上げた。


「どなたにでございますか?」


「……いいえ、何でもないわ」


王女は少し照れたように笑い、窓の外へ視線を戻した。

夕暮れの王都を、馬車が静かに走っていく。

次に彼と会うときは、もう少し話ができたらいい。

そんなことを考えている自分に、王女はまだ気づいていなかった。





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