58
王宮の大広間には、今夜も多くの貴族たちが集まっていた。
隣国の王女を歓迎するために開かれた晩餐会は、両国の友好を祝う大切な行事でもある。広間には色とりどりの花が飾られ、楽団の演奏に合わせて、招待客たちの楽しげな声が響いていた。
王女は国王夫妻の近くで、次々と訪れる貴族たちの挨拶を受けていた。
「殿下、王都でのご滞在はいかがでしょうか」
「とても楽しく過ごしております。皆様が親切にしてくださるので、毎日があっという間ですわ」
そう答えると、目の前の伯爵夫人は嬉しそうに微笑んだ。
「それは何よりでございます」
王女も笑顔を返し、夫人を見送った。
そのとき、入口の方で招待客を迎える声が聞こえた。
何気なく目を向けると、見覚えのある黒髪の男性が広間へ入ってくるところだった。
ヴァルツェン侯爵、アレクシス。
今夜はその隣に、一人の女性が寄り添っていた。
栗色の髪を結い上げ、深い青緑色のドレスに身を包んだ女性は、周囲の貴族たちに笑顔で挨拶を返している。首元には灰青色の宝石が輝き、落ち着いた色合いの装いがよく似合っていた。
「あちらが、侯爵夫人なのね」
王女が呟くと、傍らの侍女が頷いた。
「はい。エレノア・フォン・ヴァルツェン侯爵夫人でございます」
やがて夫妻は王女のもとへやって来た。
「王女殿下。今宵はお目にかかれて光栄です」
アレクシスが礼を取ると、隣のエレノアも美しく膝を折った。
「初めまして、王女殿下。エレノア・フォン・ヴァルツェンと申します」
「お会いできて嬉しいですわ。侯爵夫人のお噂は伺っております」
「まあ、どのようなお噂でしょう」
エレノアが少し驚いたように尋ねると、王女は思わず笑った。
「侯爵閣下が、とても大切になさっている奥様だと」
「……まあ」
エレノアは目を瞬かせ、それから少し照れたように微笑んだ。
「そのように言っていただけるなんて、光栄です」
隣のアレクシスは何も言わなかったが、王女の言葉を否定する様子もなかった。
「今夜はどうぞ、お楽しみくださいませ」
「ありがとうございます、殿下」
夫妻が礼をして離れていくと、王女はその後ろ姿を見送った。
エレノアは、思っていたよりもずっと親しみやすい女性だった。
もっと気取った侯爵夫人を想像していたけれど、あの笑顔には不思議とこちらまで笑いたくなるような愛嬌がある。
一方、アレクシスは相変わらずだった。
妻を伴っていても、いつもの落ち着いた侯爵のままである。
王女は特に気に留めることもなく、次の招待客へと向き直った。
◇
「エレノア」
名前を呼ばれ、エレノアは隣を見上げた。
「はい?」
「緊張しているか?」
「少しだけ。でも、思っていたより楽しいです」
エレノアがそう答えると、アレクシスは小さく頷いた。
「それならよかった」
「アレクシス様の方こそ、お疲れではありませんか? 今日もお忙しかったでしょう」
「俺は問題ない」
「そうおっしゃると思いました」
エレノアが笑うと、アレクシスはわずかに口元を緩めた。
今夜はエレノアにとって、侯爵夫人として初めて出席する正式な晩餐会だった。
これまでも王宮へ足を運ぶ機会はあったが、こうして夫婦揃って国の行事に招かれるのは初めてのことだ。
もちろん、貴族としての礼儀作法は幼い頃から身につけている。今さら挨拶の仕方に戸惑うようなことはない。
それでも、侯爵夫人という立場で多くの貴族たちと顔を合わせることには、少しばかり緊張していた。
「先ほどの王女殿下、とてもお綺麗な方でしたね」
「ああ」
「お話ししやすそうな方で、安心しました」
「そうか」
「……アレクシス様、今日はいつも以上にお返事が短いですね」
エレノアが横から顔を覗き込むと、アレクシスは少し困ったように彼女を見た。
「そんなつもりはないが」
「ふふ、冗談です」
楽しそうに笑う妻を見て、アレクシスも小さく笑った。
そのとき、前方から一組の貴族夫妻が近づいてきた。
「ヴァルツェン侯爵閣下、ご無沙汰しております」
「お久しぶりです、伯爵」
アレクシスはすぐに相手へ向き直り、エレノアを紹介した。
「妻のエレノアです」
「初めまして、伯爵様、伯爵夫人」
エレノアが挨拶をすると、伯爵夫人は嬉しそうに目を細めた。
「まあ、なんて可愛らしい奥様でしょう。お噂はかねがね伺っておりますわ」
「ありがとうございます。お会いできて嬉しいです」
「今度ぜひ、お茶会にもいらしてくださいな」
「まあ、ぜひ。楽しみにしております」
会話はそのまま最近の王都の様子へと移り、エレノアは夫人の話に楽しそうに耳を傾けた。
アレクシスも伯爵と近況を交わしながら、ときおり隣の妻へ視線を向けていた。
エレノアが困っている様子はない。
むしろ、初対面の夫人ともすっかり打ち解けている。
その姿に安心しながらも、彼は彼女が無理をしていないかだけは気にかけていた。
◇
国王の挨拶と王女からの謝辞を終え、晩餐が始まった。
テーブルには美しい料理が次々と運ばれ、招待客たちは食事を楽しみながら会話を弾ませていた。
エレノアも隣席の夫人たちと話し、時折アレクシスと言葉を交わしながら、和やかな時間を過ごした。
「侯爵夫人は、王都の暮らしにはもう慣れましたか?」
向かいに座った夫人が尋ねた。
「はい。まだ知らない場所もたくさんありますけれど、少しずつ慣れてきました」
「王都には素敵なお店がたくさんありますものね」
「ええ。歩いているだけでも新しい発見があって、楽しいです」
「それでしたら、今度おすすめのお店をお教えしますわ」
「本当ですか? 嬉しいです」
エレノアの素直な反応に、夫人も嬉しそうに笑った。
その様子を隣で聞いていたアレクシスは、グラスを置きながら小さく息をついた。
妻の知り合いが増えるのは喜ばしいことだ。
ただ、こうして次々と誘いが増えていけば、彼女の予定があっという間に埋まってしまうのではないかと、少し気になった。
もちろん、エレノアが楽しんでいるのなら口を挟むつもりはないが。
「アレクシス様?」
ふと名前を呼ばれ、彼は顔を向けた。
「どうした?」
「こちらのお料理、とても美味しいですね」
エレノアが小さな声でそう言うと、アレクシスは彼女の皿へ目を向けた。
「ああ。気に入ったのか?」
「はい。初めていただきました」
「隣国の料理を取り入れたものらしい」
「そうなんですね。だから少し珍しい味がするんですね」
エレノアは納得したように頷き、もう一口食べた。
その姿を見て、アレクシスは小さく笑った。
◇
晩餐を終えると、招待客たちは再び広間で自由に歓談を始めた。
エレノアは先ほど知り合った伯爵夫人に声をかけられ、しばらく貴婦人たちの輪に加わることになった。
アレクシスも王宮の高官から話しかけられ、仕事に関する話を交わしていた。
「侯爵夫人は、王都でのお暮らしを楽しんでいらっしゃる?」
「はい。皆様に親切にしていただいて、とても楽しく過ごしております」
「それはよかったわ。侯爵閣下はお忙しいでしょうから、寂しい思いをなさっているのではないかと思っていましたの」
エレノアは少し考えてから、笑顔で答えた。
「確かにお忙しいですけれど、一緒に過ごす時間も大切にしてくださっています」
「あらまあ」
夫人たちは顔を見合わせ、微笑んだ。
「それは素敵ですこと」
エレノアは少し照れながらも、嬉しそうに笑った。
その後も話は弾み、気づけば随分と時間が経っていた。
ようやく会話が一区切りついた頃、エレノアは広間を見渡した。
アレクシスは少し離れた場所で、ちょうど高官との話を終えたところだった。
目が合うと、彼はすぐにこちらへ歩いてきた。
「楽しんでいるか?」
「はい。皆様、とても親切にしてくださって」
「それはよかった」
「アレクシス様は?」
「こちらも問題ない」
「またお仕事のお話ですか?」
「少しだけな」
エレノアはくすりと笑った。
「せっかくの晩餐会なのに、アレクシス様はお忙しいですね」
「そうでもない」
そう答えた彼は、少し身をかがめて妻の顔を覗き込んだ。
「疲れていないか?」
「大丈夫ですよ。アレクシス様、さっきも聞いてくださいました」
「そうだったか」
「はい。もう二度目です」
エレノアが笑うと、アレクシスもつられるように口元を緩めた。
「それなら、三度目は控えよう」
「ふふ、そうしてください」
◇
王女は、少し離れた場所で外交官と話をしていた。
今夜の晩餐会は大変な盛況で、彼女自身も多くの貴族たちと交流することができた。
初めて訪れた王国の人々は皆親切で、祖国とは異なる文化や習慣の話も興味深い。
「殿下、そろそろお疲れではございませんか」
外交官に尋ねられ、王女は微笑んだ。
「大丈夫ですわ。とても楽しい夜ですもの」
そう答えたとき、ふと視線の先に見覚えのある二人の姿が映った。
ヴァルツェン侯爵夫妻だった。
エレノアが何かを話し、アレクシスが少し身をかがめて耳を傾けている。
ここからでは二人の声は聞こえない。
けれど、エレノアが楽しそうに笑った次の瞬間、アレクシスも笑った。
王女は思わず目を瞬かせた。
……え?
あの侯爵が?
もう一度見てみると、アレクシスは妻へ何かを話していた。
その表情は、王女がこれまで見てきたものとは随分と違っていた。
いつもは落ち着いていて、どこか近寄りがたい雰囲気さえある男性なのに、今は驚くほど穏やかな顔をしている。
王女は、しばらく二人を眺めていた。
エレノアはそんな夫の表情を特別なこととも思っていないらしく、当たり前のように笑顔を向けている。
きっと、二人にとってはいつもの光景なのだろう。
「……殿下?」
外交官に声をかけられ、王女は我に返った。
「ああ、ごめんなさい。少し考え事をしていましたの」
王女は笑顔で答え、再び会話へ戻った。
けれど、先ほど見たアレクシスの表情が、妙に頭から離れなかった。
戦場で名を馳せた英雄。
誰に対しても丁寧で、必要以上に言葉を交わさない侯爵。
そんな彼が、妻の前ではあんなふうに笑う。
王女は、もう一度だけ夫妻の方へ目を向けた。
アレクシスはすでに別の貴族と挨拶を交わしており、いつもの落ち着いた表情に戻っていた。
その変わりように、王女は小さく笑った。
……不思議な方。
これまで、彼のことは英雄としてしか知らなかった。
けれど今夜、ほんの少しだけ違う一面を見た気がする。
王女は手にしていたグラスを置き、静かに息をついた。
ヴァルツェン侯爵。
あの方は、いったいどんな人なのだろう。
今までとは少し違う興味が、王女の胸に芽生え始めていた。




