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隣国の王女が王都を訪れてから、三日が過ぎた。
王宮では歓迎のための行事に加え、両国の今後の協力関係について話し合う場が設けられていた。王女自身もいくつかの協議に出席し、この国の貴族や高官たちと顔を合わせる機会が増えていた。
その中でも、王女がとりわけ関心を寄せていたのが、アレクシス・フォン・ヴァルツェン侯爵だった。
戦争の最中、祖国にもその名は届いていた。若くして軍を率い、幾度も戦況を覆した指揮官。戦場では冷静な判断を下し、部下からの信頼も厚かったという。
実際に顔を合わせた彼は、聞いていた評判どおり落ち着いた人物だった。王宮でも多くの者が彼に一目置いているらしく、会議の席では年長の高官たちも、その意見に真剣に耳を傾けている。
王女は、戦場で名を馳せた若き侯爵が、どのような考えを持つ人物なのか、もう少し話を聞いてみたいと思っていた。
◇
その日の午前、王女は戦後復興に関する協議に出席していた。
会議室の長机には各地の地図が広げられ、担当官たちが街道の整備状況や農地の復旧について報告している。
「こちらが現在、復興に時間を要している地域でございます」
担当官が示した地図には、戦争によって大きな被害を受けた土地がいくつも記されていた。
王女はその一つに目を留めた。
「リーヴェ……。この地域も、戦場になったのですか?」
「はい。直接の戦闘に加え、軍の移動による被害も大きく、街道や農地の復旧が遅れております。領主が再建を進めておりますが、まだ十分とは申せません」
「そうなのですね。私の国でも、戦争の影響で暮らしが変わってしまった人々が大勢おります」
王女は地図を見つめながら、担当官の説明に耳を傾けた。
両国は同じ敵と戦い、互いに兵や物資を送り合ってきた。しかし、戦争が終わった今も、それぞれの土地には多くの課題が残されている。
やがて、協議の途中でアレクシスが会議室へ入ってきた。
彼は王女と出席者たちに一礼すると、セドリックから受け取った資料を確認し、空いている席に着いた。
「ヴァルツェン侯爵。ちょうどリーヴェの復興についてお話を伺っていたところです」
王女が声をかけると、アレクシスは顔を上げた。
「そうでしたか」
「侯爵は、あちらの土地をご存じなのですよね?」
「ええ。以前、滞在したことがあります」
「では、戦争前のリーヴェもご存じなのですね」
「はい」
王女は彼がもう少し話してくれるものと思っていたが、アレクシスはそこで言葉を止めた。
代わりに手元の資料へ目を落とし、担当官へ確認する。
「南側の街道は、予定どおり工事が進んでいますか?」
「一部で資材の不足が出ておりますが、来月には再開できる見込みです」
「輸送経路に問題は?」
「現在、別の経路を確保しております」
アレクシスは頷き、資料に記された数字を確認した。
王女はその横顔を見ながら、少しだけ首を傾げた。
質問には丁寧に答えてくれるものの、アレクシスは自分から話を広げようとはしなかった。もっとも、今は協議の最中である。王女もそれ以上は話しかけず、再び担当官の説明に耳を傾けた。
◇
翌日、王女は王宮の回廊でアレクシスと顔を合わせた。
午後の予定を終え、侍女とともに迎賓館へ戻ろうとしていたところだった。前方から歩いてきたアレクシスは、彼女に気づくと足を止め、礼を取った。
「王女殿下」
「ごきげんよう、ヴァルツェン侯爵。昨日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「復興のお話、とても勉強になりました。あのように詳しく説明していただく機会は、祖国でもなかなかありませんので」
「担当官にも伝えておきます」
「ええ、ぜひ」
王女は微笑んだが、アレクシスは穏やかに一礼しただけだった。
「それでは、失礼いたします」
「あ……はい。お仕事中でしたのね」
「ええ」
彼はもう一度礼をすると、そのまま歩き去っていった。
王女はしばらく廊下の先を眺め、隣に控える侍女へ顔を向けた。
「……お忙しい方なのね」
「今回のご滞在に関わる警備の調整もなさっているそうですから」
「そうね。お引き止めしては申し訳ないわ」
王女は頷き、再び歩き始めた。
この国を訪れてから、貴族たちには幾度となく声をかけられている。祖国の話を尋ねられたり、王都の名所を勧められたりと、会話が途切れることはほとんどなかった。
けれど、アレクシスは少し違うらしい。
「ヴァルツェン侯爵は、いつもあのような方なのかしら」
「寡黙で、職務に忠実な方だと伺っております」
「そう。……では、評判どおりの方なのね」
王女は小さく微笑んだ。
もう少し話してみたかったという気持ちはあったが、彼が職務を優先する人物であることも、十分に伝わってきた。
◇
その日の夕方、アレクシスは執務室で翌日の予定を確認していた。
机の上には、王女の滞在中に予定されている行事の一覧と、警備に関する報告書が並んでいる。
「歓迎晩餐会の警備配置については、最終確認が済んでおります」
セドリックが書類を差し出すと、アレクシスは目を通して頷いた。
「問題なさそうだな。出入口の担当者には、開始前にもう一度確認させてくれ」
「承知しました。来週の視察については、まだ先方から正式な日程が届いておりません」
「決まり次第、調整する。移動経路だけは先に確認しておこう」
「はい」
セドリックは書類をまとめながら、ふと主人へ目を向けた。
「それにしても、王女殿下は閣下に随分とご関心がおありのようですね」
アレクシスは署名をしていた手を止めた。
「何の話だ?」
「昨日の協議でも、今日の回廊でも、お声をかけられていたでしょう」
「公務について尋ねられただけだ」
「……そういうことにしておきましょうか」
セドリックがわずかに口元を緩めると、アレクシスは怪訝そうに眉を寄せた。
「何が言いたい?」
「いえ、何も。王女殿下も、戦争の英雄とお話しできる機会を楽しみにしておられるのでしょう」
「なら、戦時中の報告書を渡せばいい」
あまりに真面目な返答に、セドリックは思わず吹き出しそうになった。
「閣下、それでは少々味気ないかと」
「必要な情報は揃っているはずだが」
「……ええ、そうですね」
セドリックはそれ以上言うのをやめ、書類を揃え直した。
アレクシスは王女が自分に関心を持っているなどとは考えていなかった。戦争に関する質問を受けることは珍しくなく、隣国の王族であれば、当時の状況を詳しく知りたいと思うのも自然なことだ。
彼にとって重要なのは、王女の滞在が滞りなく終わることだった。
「明日は何時に戻られるご予定ですか?」
セドリックが尋ねると、アレクシスは机の端に置かれた予定表へ目を向けた。
「午後の確認が済み次第、屋敷へ戻る。エレノアと一緒に王宮へ向かうつもりだ」
「奥様も、いよいよ晩餐会ですね」
「ああ。初めての大きな公務の場だからな」
「奥様なら、きっと立派にお務めになられますよ」
「そうだな」
アレクシスは短く答え、次の書類を手に取った。
セドリックもそれ以上は話を続けず、翌日の予定を確認してから執務室を後にした。
◇
一方、侯爵邸では、エレノアが翌日の晩餐会に向けて最後の準備を進めていた。
自室には仕立てを終えたドレスが届けられ、ローザが装飾品を一つずつ並べている。
「奥様、こちらの首飾りはいかがでしょう。ドレスのお色ともよく合うと思います」
差し出された小箱を覗き込んだエレノアは、灰青色の宝石に目を留めた。
「まあ、綺麗……。この色、アレクシス様の瞳に似ているわね」
「本当でございますね」
「では、これにするわ。ドレスにも合いそうだもの」
エレノアは首飾りを手に取り、鏡の前で胸元へ当ててみた。
明日のために用意したドレスは、深い青緑色だった。華やかな晩餐会にふさわしい上質な生地を使いながら、装飾は控えめにまとめられている。
ローザが背後から髪を軽く持ち上げると、エレノアは鏡越しに首飾りの位置を確かめた。
「よくお似合いでございます。旦那様も、きっとお喜びになりますよ」
「そうだと嬉しいわ」
エレノアは微笑み、首飾りを丁寧に小箱へ戻した。
「ねえ、ローザ。アレクシス様の衣装に、青緑色の飾りを合わせるのはどうかしら」
「奥様の瞳のお色でございますね」
「ええ。私だけがアレクシス様の色を身につけるのも、少し寂しい気がして」
ローザは嬉しそうに頷いた。
「素敵だと思います。旦那様の正装でしたら、胸元の飾りに取り入れるのがよろしいかと」
「そうね。あとで相談してみるわね」
エレノアはそう言ってから、鏡に映る自分の姿を見つめた。
侯爵夫人として王宮の正式な晩餐会に出席するのは、今回が初めてだった。
結婚してから社交の作法や侯爵家の習慣について学んできたものの、王族を迎える大きな行事となれば、やはり緊張する。
「王女殿下は、どのような方なのかしら」
「お美しく、お優しい方だと伺っております。王都でも評判になっておりますね」
「そうなのね。お話しする機会があるかもしれないし、失礼のないようにしなくては」
「奥様でしたら大丈夫でございますよ」
エレノアはローザへ微笑み返した。
「ありがとう。そう言ってもらえると心強いわ」
その後も二人は装飾品や髪型について相談を続け、すべての準備が整った頃には、窓の外が夕暮れの色に染まり始めていた。
◇
翌日、王宮では朝から歓迎晩餐会の準備が進められていた。
王女は午後の予定を終え、迎賓館で衣装を整えていた。侍女たちが髪飾りの位置を確かめ、最後に薄い布を肩へかけると、鏡の前に立った王女は満足そうに頷いた。
「これでよろしいかしら」
「はい、殿下。大変お美しゅうございます」
「ありがとう。今夜はたくさんの方とお会いするのでしょうね」
「王国の主要な貴族の方々が出席されるそうです。ヴァルツェン侯爵閣下も、ご夫妻でいらっしゃると伺っております」
「……ご夫妻で?」
王女は鏡から視線を外した。
「ええ。侯爵夫人もお招きされているそうです」
「そうなのね」
王女は少し考えるように頷いた。
アレクシスに妻がいることは知っていたが、実際にその姿を見たことはなかった。
どのような女性なのだろう。
あれほど冷静で、誰に対しても余計な言葉を交わさない侯爵の妻となった人なら、やはり物静かで落ち着いた女性なのだろうか。
王女はそんなことを考えながら、侍女に促されて部屋を出た。
◇
同じ頃、侯爵邸でも出発の準備が整いつつあった。
アレクシスは黒い正装に着替え、玄関広間でエレノアを待っていた。
ほどなくして階段の方から衣擦れの音が聞こえ、顔を上げると、ローザを伴ったエレノアが姿を現した。
深い青緑色のドレスに、灰青色の宝石をあしらった首飾り。栗色の髪は美しく結い上げられ、耳元には小さな宝石が揺れている。
「お待たせしました、アレクシス様」
エレノアは階段を下りると、少し緊張した様子で夫を見上げた。
「……いかがでしょうか」
アレクシスは彼女を見つめ、静かに答えた。
「よく似合っている。綺麗だ、エレノア」
「ありがとうございます」
その言葉に、エレノアは嬉しそうに微笑んだ。
「それから、お願いしていた飾りも身につけてくださったのですね」
彼の胸元には、青緑色の小さな宝石が留められていた。
「ああ。君が選んでくれたものだからな」
エレノアは自分の首飾りへそっと触れた。
「こうして見ると、少しだけお揃いですね」
「そうだな」
アレクシスは彼女の手を取り、指先へ軽く口づけた。
「そろそろ出ようか」
「はい」
玄関の外では、すでに馬車が待っていた。
アレクシスはエレノアを先に乗せ、自分もその隣へ腰を下ろす。御者の合図とともに馬車がゆっくり動き始めると、エレノアは窓の外へ目を向けた。
「いよいよですね」
「ああ。王宮も今夜は賑やかだろうな」
「王女殿下にお目にかかるのも初めてですし、少し緊張します」
「礼儀を気にするあまり、食事を楽しむのを忘れないようにな」
思いがけない言葉に、エレノアは夫を振り返った。
「アレクシス様、私が食事のことばかり考えていると思っていらっしゃいませんか?」
「そんなことは言っていない」
「本当でしょうか」
エレノアが疑わしそうに見つめると、アレクシスは平然とした顔で窓の外へ視線を向けた。
「……今夜は隣国の料理も出るそうだ」
「まあ、それは楽しみです!」
答えた直後、エレノアは夫の横顔を見つめた。
「……アレクシス様」
「何だ?」
「今、少し笑っていらっしゃいませんでした?」
「気のせいだろう」
エレノアはそれ以上追及せず、隣で小さく笑った。
王宮へ近づくにつれ、道沿いには華やかな馬車が増え始めた。晩餐会に招かれた貴族たちが、次々と王宮へ向かっているのだろう。
やがて馬車が正門を通り抜けると、明かりに照らされた壮麗な宮殿が二人の前に現れた。
先に降りたアレクシスが手を差し出し、エレノアはその手を取って馬車を降りる。
「行こうか」
「はい、アレクシス様」
二人は並んで王宮の入口へ向かった。
その先では、隣国の王女を迎える華やかな晩餐会が、まもなく始まろうとしていた。




