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隣国の王女が王都を訪れる日、王宮では朝早くから慌ただしく準備が進められていた。
正門から迎賓館へと続く道には両国の旗が掲げられ、王女一行を迎えるための儀仗兵が整然と並んでいる。宮廷の役人たちは最後の確認に追われ、外交を担当する官吏たちも、到着の時刻が近づくにつれて落ち着かない様子を見せていた。
アレクシスは王宮の一室で、セドリックから警備に関する最終報告を受けていた。
「王女殿下の馬車は、予定どおり正門から入ることになっております。迎賓館までの経路も確認済みで、滞在中の護衛については先方の随行員と調整を終えました」
「視察先の確認は?」
「明後日までに各担当から報告が揃う予定です。先方から追加の希望がなければ、当初の計画どおり進められるかと」
アレクシスは差し出された書類に目を通し、警備の配置を確認してからセドリックへ返した。
「歓迎行事の間は、王女殿下の周囲に人が集まるだろう。護衛同士の連携に不備がないよう、もう一度確認しておけ」
「承知いたしました。……それにしても、今回の訪問は随分と注目を集めているようですね」
「同盟国の王族を迎えるんだ。当然だろう」
「それもございますが、王女殿下ご自身にも関心が集まっているようです。今回が初めての公式訪問ですから、どのような方なのか気にされているのでしょう」
アレクシスは特に興味を示すこともなく、机に置かれていた別の書類を手に取った。
「予定に変更がなければ、それでいい」
セドリックは小さく笑い、それ以上は何も言わなかった。アレクシスにとって重要なのは、王女がどのような容姿や性格をしているかではなく、滞在中の安全を確保し、与えられた役目を滞りなく果たすことなのだと、長年そばで仕えてきた彼にはよく分かっていた。
やがて到着を知らせる使者が現れ、二人は迎賓のために用意された広間へと向かった。
◇
王女は馬車の窓から、ゆっくりと近づいてくる王宮の姿を眺めていた。
高くそびえる城壁の向こうには白い石造りの宮殿が広がり、秋の陽光を受けた尖塔が淡く輝いている。初めて訪れる異国の王都は、これまで書物や使節から聞いていた話よりもずっと美しく、王女は窓辺に寄せていた手をそっと膝の上へ戻した。
「殿下、間もなく到着いたします」
向かいに座る侍女が声をかけると、王女は静かに頷いた。
「ええ。分かっているわ」
今回の訪問は、戦後も続く両国の同盟関係を確かなものにするための公式行事だった。戦時中、王女の祖国は兵や物資を送り、共通の敵に対して協力してきたが、戦争が終わった今も、国境の安全や交易の再開など、互いに話し合うべき課題は数多く残されている。
王女自身が外交の中心を担うわけではないものの、王家の一員として友好の意思を示すことには大きな意味があった。
その責任は十分に理解していたし、初めての公式訪問を無事に終えたいという思いも強かった。
けれど、王女にはもう一つ、密かに楽しみにしていることがあった。
「……ヴァルツェン侯爵も、今日はいらっしゃるのよね?」
何気ない口調で尋ねると、侍女は少し考えてから答えた。
「はい。歓迎行事に出席される方々のお名前にございました。滞在中の警備にも関わっていらっしゃるそうです」
「そう」
王女は短く答えたものの、口元には自然と笑みが浮かんだ。
アレクシス・フォン・ヴァルツェン。
その名前を初めて耳にしたのは、まだ戦争が続いていた頃だった。
当時、王宮へ届けられる戦況報告には、同盟軍と連携して戦う若い指揮官の名が幾度となく登場していた。劣勢にあった戦線を立て直したこと、兵の損耗を抑えながら敵軍を退けたこと、そして戦争の終結に大きく貢献したこと。そうした話は軍務に携わる者たちの間だけでなく、やがて王宮の人々にも知られるようになっていた。
王女も父王や兄たちの会話を通して、若くして功績を挙げた侯爵の存在を知った。
もっとも、当時の彼女が抱いていたのは、優れた軍人に対する純粋な関心だった。年齢に似合わぬ冷静さを持ち、戦場では滅多に感情を表に出さない人物だと聞いていたため、どこか近寄りがたい、厳格な男性を想像していた。
肖像画を見たこともなく、実際に会う機会もなかったが、それでも彼の名前は不思議と記憶に残っていた。
今回の訪問が決まったとき、王女が真っ先に思い浮かべたのも、その若き英雄のことだった。
「どのような方なのかしら」
小さく呟いた声に侍女が顔を上げたが、王女は何でもないというように微笑み、再び窓の外へ視線を向けた。
馬車は間もなく王宮の正門をくぐろうとしていた。
◇
王女一行が到着すると、王宮では定められた儀礼に従って歓迎の挨拶が交わされた。
国王や王族たちに迎えられた王女は、緊張を感じながらも落ち着いた態度で応じ、用意されていた言葉を丁寧に述べた。初めての公式訪問ということもあり、周囲からは多くの視線が注がれていたが、幼い頃から宮廷の礼儀を学んできた彼女にとって、その程度の緊張は表に出すほどのものではなかった。
ひととおりの挨拶が済むと、王女は歓迎に携わる貴族や官吏たちの紹介を受けることになった。
その中で、ある名前が告げられた瞬間、彼女は思わず顔を上げた。
「ヴァルツェン侯爵、アレクシス・フォン・ヴァルツェン閣下でございます」
一歩前へ進み出た青年を見て、王女は一瞬、言葉を忘れた。
目の前に立っていたのは、彼女が想像していたような、威圧感を漂わせる屈強な軍人ではなかった。背筋を伸ばした立ち姿には隙がなく、整った顔立ちには若さが残っているものの、その表情は落ち着いていて、周囲の誰よりも静かな存在感を放っていた。
深い色の瞳がこちらへ向けられ、王女は知らず知らずのうちに息を整えた。
「お初にお目にかかります、王女殿下。アレクシス・フォン・ヴァルツェンでございます」
アレクシスは礼を取り、過不足のない挨拶を述べた。
「お会いできて光栄です、ヴァルツェン侯爵。あなたのお名前は、以前から存じ上げておりました」
「恐れ入ります」
「戦争の折には、我が国の軍とも協力してくださったと聞いております。父も、あなたの功績を高く評価しておりましたわ」
「両国の協力があってこその結果でございます。貴国からのご支援にも、深く感謝しております」
穏やかな言葉遣いではあったが、その声にも表情にも、必要以上の感情は見られなかった。
王女はもう少し話してみたいと思ったものの、次に何を尋ねるべきか考えているうちに、アレクシスは礼をして一歩下がった。紹介を待つ者たちはまだ大勢おり、彼だけを長く引き留めるわけにもいかない。
「……随分と、お若い方なのね」
彼が離れたあと、王女は傍らの侍女に聞こえる程度の声で呟いた。
「侯爵閣下は、まだ28歳でいらっしゃるそうです」
「ええ、それは知っていたのだけれど……」
王女は言葉を濁し、少し離れた場所でほかの官吏と話しているアレクシスへ視線を向けた。
年齢については以前から聞いていた。それでも、実際に会ってみると想像とは随分違っていたのだ。
あれほどの功績を挙げた人物が、まさかあんなにも整った容姿をしているとは思わなかった。
しかも、華やかな宮廷にいても周囲に媚びる様子がなく、誰に対しても落ち着いた態度を崩さない。
王女はその姿をしばらく目で追っていたが、やがて別の貴族から声をかけられ、慌てて意識を戻した。
◇
歓迎の儀礼が終わったあと、アレクシスは王宮の執務室へ戻っていた。
予定されていた行事は問題なく進み、王女一行も無事に迎賓館へ案内された。ひとまず最初の役目を終えたところで、セドリックが午後の予定を確認しながら口を開いた。
「王女殿下は、閣下のお名前をご存じだったようですね」
「戦時中の協力関係がある。知られていても不思議ではないだろう」
「それはそうですが、随分と熱心にお話しされていたように見えました」
アレクシスは書類から目を上げ、わずかに眉を寄せた。
「そうだったか?」
「……お気づきではありませんでしたか」
「何にだ?」
セドリックは答えかけたものの、すぐに考え直したように首を振った。
「いえ、何でもございません。それより、明日の協議についてですが」
差し出された資料を受け取ったアレクシスは、すぐにそちらへ意識を向けた。
王女の訪問に伴う仕事は、まだ始まったばかりだった。警備の調整だけでなく、視察に関わる官吏との打ち合わせも控えており、通常の公務に加えて処理しなければならない案件が増えている。
アレクシスは予定表に目を走らせ、明後日の午後に空いている時間を見つけると、そこへ協議を入れるようセドリックに指示した。
「それから、明日はできるだけ早く執務を終えたい。急ぎの案件があれば午前中に回してくれ」
「何かご予定が?」
「エレノアと夕食を取る約束をしている」
あまりにも当然のように答えたアレクシスに、セドリックは思わず笑みを浮かべた。
「承知いたしました。では、そのように調整いたします」
アレクシスは頷き、再び書類へ視線を落とした。
王宮では隣国の王女を迎えたことで、しばらく華やかな行事が続くことになるだろう。しかし、彼にとって今日という日は、予定されていた歓迎の儀礼を無事に終え、翌日からの仕事を確認した一日にすぎなかった。
◇
王女は窓の外に広がる夕暮れの庭を眺めながら、昼間の歓迎式典を思い返していた。
初めて訪れる異国の王宮では、数え切れないほどの人々に迎えられた。覚えなければならない名前も多く、明日からの予定を考えれば、まだ気を抜くわけにはいかない。
それでも、戦時中から何度も耳にしていたヴァルツェン侯爵と、ようやく顔を合わせることができたのは嬉しかった。
想像していた人物像とは随分違っていたけれど、実際に会ってみると、これまで聞いてきた数々の功績にも、どこか納得できるものがあった。
「明日も、侯爵閣下はいらっしゃるのかしら」
翌日の予定を確認していた侍女が顔を上げる。
「警備に関するお役目を担っていらっしゃいますので、お顔を合わせる機会はあるかと存じます」
「そう。なら、今度はもう少しお話を伺ってみたいわね」
王女はそう言って微笑むと、侍女が差し出した翌日の予定表へ目を落とした。




