第4章 55
アレクシスとエレノアが結婚してから、3週間ほどが過ぎた。
侯爵邸での暮らしはすっかり落ち着き、エレノアも屋敷の仕事に少しずつ慣れてきていた。朝はアレクシスとともに食事を取り、彼を見送ったあとはローザや家令とその日の予定を確認する。午後には届いた手紙に目を通したり、使用人たちから相談を受けたりと、侯爵夫人としての仕事は思っていた以上に幅広かった。
それでも、忙しさに追われているという感覚はなかった。分からないことがあれば周囲に尋ね、必要な判断は自分でもよく考える。リーヴェで父の仕事を手伝っていた経験が役に立つことも多く、屋敷の者たちとの関係も少しずつ深まっていた。
アレクシスも、仕事を終えるとできるだけ夕食までに帰宅するようになっていた。もちろん公務の都合で遅くなる日もあったが、そうしたときには必ず連絡が届き、エレノアも安心して自分の時間を過ごすことができた。
そんなある日の朝、いつもどおり王宮へ出勤したアレクシスは、執務室の机に置かれた一通の封書に目を留めた。
封蝋には王家の紋章が刻まれている。
「セドリック、これは?」
「今朝、王宮の外交担当から届きました。正式な通達です」
アレクシスは椅子に腰を下ろし、封を切って書面を取り出した。
そこに記されていたのは、隣国の王女が近く公式訪問するという知らせだった。
訪問の目的は両国の友好関係を深めることであり、王宮では歓迎のための式典や晩餐会が予定されている。さらに、王女の滞在中には複数の公的な行事が組まれる見込みで、関係する貴族や官吏には準備への協力が求められていた。
アレクシスは最後まで目を通すと、書面を机に置いた。
「随分急な話だな」
「先方との調整自体は以前から進んでいたようですが、正式な日程が決まったのはつい先日だそうです」
「それで、こちらに何を求めている?」
「歓迎行事の警備体制について、閣下にも協議に加わっていただきたいとのことです。加えて、王女殿下の滞在中に予定されている視察にも、王宮側の代表として同行を求められる可能性がございます」
アレクシスはわずかに眉を寄せた。
「警備の協議はともかく、視察の同行まで俺が担当する必要があるのか?」
「先方が、我が国の軍事や復興政策に関心を示しているようです。閣下は戦時中の功績もございますし、適任と判断されたのでしょう」
「関心があるのなら、担当部署から説明を受ければ済む話だ」
「私もそう思いますが、王宮としては、先方への礼を尽くしたいのでしょうね」
セドリックは肩をすくめるように言い、別の資料を差し出した。
「こちらが現在分かっている予定です。歓迎式典、晩餐会、それから滞在中の視察について、概要だけまとめてあります」
アレクシスは資料を受け取り、日程を確認した。
「歓迎式典には、エレノアも出席することになるな」
「はい。ご夫婦でのご招待になる見込みです。正式な招待状は追って届くそうです」
「分かった。警備に関する協議の日程を調整してくれ。視察については、内容が決まってから判断する」
「承知いたしました」
セドリックは指示を書き留めたあと、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、王女殿下はまだお若い方だそうですよ」
「それがどうした」
「いえ、特に意味はございません。ただ、今回が初めての公式訪問になると聞いておりますので、王宮も随分気を遣っているようです」
「なら、なおさら準備に不備がないようにしなければならないな」
「……閣下は、相変わらずですね」
アレクシスは書類から目を上げた。
「何がだ?」
「いえ。何でもございません」
セドリックは微笑みながら資料を揃え、何事もなかったように次の案件へ話を移した。
◇
その日の午後、エレノアは侯爵邸の応接室で、ローザとともに届いた手紙を確認していた。
結婚してからというもの、王都の貴族たちから挨拶や茶会への招待が届くようになっていた。すべてに応じることは難しいため、エレノアはローザと相談しながら予定を調整していたが、最近では少しずつ顔見知りも増え、社交の場にも以前ほど気負わずに臨めるようになっていた。
「こちらは来週のお茶会のご案内でございます。奥様のお知り合いも何名か出席されるそうです」
「そうなのね。予定が重ならなければ、ぜひ伺いたいわ」
エレノアは招待状を手に取り、差出人の名前を確認した。
「それから、こちらは王宮からのお知らせです」
ローザが差し出した封書には、王家の紋章が押されていた。
エレノアは少し驚きながら封を開き、中の書面に目を通した。
「……隣国の王女殿下が、王都へいらっしゃるのね」
「はい。王宮では歓迎の式典が開かれるそうです」
書面には公式訪問の概要と、正式な招待状が後日送られる旨が記されていた。
エレノアは内容を確認すると、静かに頷いた。
「大切なお客様をお迎えするのね。アレクシス様も、きっとお忙しくなるわ」
「そうでございますね。閣下も何かしらのお役目を任されるかもしれません」
「ええ。私も、出席することになったら失礼のないように準備しなくては」
エレノアは書面を丁寧に畳み、ほかの招待状とは分けて置いた。
王宮の行事には、結婚前にも何度か足を運んでいる。しかし、侯爵夫人となってから正式な場に出席するのは、これが初めてになるかもしれなかった。
そのことに少し緊張を覚えながらも、エレノアは新しい立場での務めをきちんと果たしたいと思っていた。
「ローザ、式典の日程が決まったら、衣装のことも相談させてね」
「もちろんでございます。奥様にお似合いのものをご用意いたしましょう」
「ありがとう。頼りにしているわ」
ローザは嬉しそうに微笑み、次の手紙を手に取った。
◇
夕方、アレクシスが侯爵邸へ戻ると、エレノアはいつものように玄関で彼を迎えた。
「お帰りなさいませ、アレクシス様」
「ただいま、エレノア」
彼は彼女の顔を見ると表情を和らげ、差し出された手を取った。
「今日は何をしていた?」
「午前中は屋敷の仕事をして、午後からは届いたお手紙を確認していました。それから、王宮からのお知らせも届いたんです」
「王女殿下の訪問についてか?」
「はい。アレクシス様も、もうご存じなのですね」
「ああ。今朝、正式な通達があった」
二人は並んで廊下を歩きながら、王宮から届いた知らせについて話した。
「歓迎の式典には、私も出席することになるのでしょうか?」
「その予定だ。正式な招待状は後日届くそうだが、侯爵夫妻として招かれることになるだろう」
「そうなのですね。私、侯爵夫人として王宮の式典に出席するのは初めてですから、少し緊張してしまいそうです」
「君なら大丈夫だ」
アレクシスは迷いなく答えた。
「これまでだって、社交の場で失礼な振る舞いをしたことはないだろう。必要以上に気負うことはない」
「ありがとうございます。でも、今度はアレクシス様の妻として出席するのですもの。やっぱり、きちんとしていたいんです」
彼はエレノアの言葉に頷き、少しだけ笑った。
「それなら、俺も隣にいる。何かあれば頼ってくれ」
「はい。とても心強いです」
エレノアが嬉しそうに微笑むと、アレクシスも穏やかな表情を返した。
夕食の席では、王女の訪問についてもう少し詳しく話すことになった。
アレクシスは今回の訪問が両国の友好を深めるためのものであることや、歓迎行事の準備が進められていることを説明した。
「王女殿下は、どのような方なのでしょう?」
エレノアが尋ねると、アレクシスは少し考えてから答えた。
「詳しい人柄までは知らない。今回が初めての公式訪問になると聞いている」
「そうなのですね。初めての外国訪問でしたら、王女殿下もきっと緊張なさるでしょうね」
「そうかもしれないな」
「せっかく我が国へいらっしゃるのですから、よい思い出を持ってお帰りいただけたら素敵ですね」
アレクシスは彼女の言葉を聞き、静かに微笑んだ。
「君らしい考えだ」
「そうでしょうか?」
「ああ。まだ会ったこともない相手のことを、そこまで気遣えるんだからな」
エレノアは少し照れたように笑った。
「だって、遠い国からいらっしゃるのでしょう? 私だったら、知らない土地で親切にしていただけたら嬉しいと思いますもの」
アレクシスは頷き、食事を続けた。
王女の訪問に伴う準備は、これから本格的に始まる。王宮での仕事も忙しくなるだろうが、アレクシスにとっては、与えられた役目を果たすことが何より重要だった。
一方のエレノアも、侯爵夫人として初めて迎える大きな行事に向け、できる限りの準備をしておきたいと考えていた。
このときの二人にとって、隣国の王女の訪問は、数ある王宮行事のひとつにすぎなかった。
その出会いが、穏やかに続いていた夫婦の日々に思いがけない波紋を広げることになるとは、まだ誰も知らなかった。




