54
新婚休暇の最終日、アレクシスとエレノアは屋敷の庭を散歩して過ごした。
観劇に出かけた日から数日が経ち、その間にも二人は王都の街を歩いたり、庭でお茶を楽しんだりと、これまでなかなか取れなかった時間を一緒に過ごしていた。特別な予定を立てず、気の向くままに話をして過ごす日もあり、エレノアにとってはどれも新鮮だった。
もっとも、アレクシスは休暇中もまったく仕事を忘れていたわけではない。王宮から急ぎの連絡があれば必要な判断を下し、侯爵家に関わる重要な書類にも目を通していたが、それ以外の時間はエレノアと過ごすことを優先してくれた。
「明日から、またお忙しくなりますね」
庭の小道を歩きながらエレノアがそう言うと、アレクシスは隣を歩く彼女へ目を向けた。
「ああ。休暇中に任せていた案件もあるから、しばらくは慌ただしくなるだろう」
「セドリックも、きっとお待ちかねですね」
「どうだろうな。俺が戻れば、あいつも少しは気を抜けなくなる」
その言い方がおかしくて、エレノアは笑ってしまった。
「セドリックは、いつもきちんとお仕事をなさっていると思いますけれど」
「仕事はできる。ただ、余計なこともよく言う」
「ふふ。仲がよろしいのですね」
「……そう見えるか?」
「はい。信頼していらっしゃるからこそ、ああしてお話しできるのでしょう?」
アレクシスは少し考えたあと、否定せずに頷いた。
「長い付き合いだからな。あいつには随分助けられている」
エレノアはその言葉を嬉しく思った。アレクシスが部下の働きをきちんと認めていることは以前から知っていたが、本人のいないところでこうして素直に口にするのは、少し珍しい気がした。
庭の奥では季節の花が咲き、風に揺れる枝葉の間から午後の日差しが落ちていた。二人は歩調を合わせながら小道を進み、やがて小さな東屋の前で足を止めた。
「エレノアは、明日からまた屋敷の仕事を始めるつもりか?」
「はい。ローザとも相談して、確認したいことをまとめてあるんです。結婚式の前後は皆さんにお任せしてしまいましたから」
「任せられる者がいるなら、それでいいだろう」
「もちろん、全部を自分でしようとは思っていません。でも、私も侯爵夫人として、きちんと屋敷のことを把握しておきたいんです」
アレクシスは彼女の言葉に頷いた。
「君がそうしたいなら、止めるつもりはない。ただ、何か困ったことがあれば俺にも相談してくれ」
「はい。アレクシス様も、お仕事でお疲れのときは無理をなさらないでくださいね」
「分かった」
素直な返事にエレノアが微笑むと、アレクシスは彼女の手を取り、指先を優しく包み込んだ。
「それと、仕事に戻るからといって、君と過ごす時間がなくなるわけじゃない」
「……はい」
「夕食にはできるだけ戻るつもりだ。遅くなる日は知らせる」
エレノアは少し驚いて彼を見上げた。
「そんなことまで考えてくださっていたのですか?」
「妻を迎えたんだから、当然だろう」
その言葉が嬉しくて、エレノアは彼の腕にそっと手を添えた。
結婚前にも何度となく一緒に歩いた庭だったが、今は同じ場所にいても、これからの暮らしについて当たり前のように話せることが幸せだった。
◇
翌朝、アレクシスは休暇に入る前と同じ時刻に起床した。
身支度を整えて寝室へ戻ると、エレノアはすでに起きており、ローザの手を借りて髪をまとめているところだった。
「おはようございます、アレクシス様」
「ああ、おはよう。今日は早いんだな」
「お見送りをしたかったので」
エレノアが微笑むと、アレクシスは彼女のそばへ歩み寄った。
「まだ休んでいてもよかったんだぞ」
「もう十分休ませていただきました。それに、私も今日からお仕事ですもの」
「そうだったな」
彼は鏡越しにエレノアと目を合わせ、穏やかに微笑んだ。
「では、朝食を一緒に取ろう」
「はい!」
ローザは何事もなかったように最後の髪飾りを留めたが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
朝食の席では、アレクシスが今日の王宮での予定を簡単に話し、エレノアも屋敷の管理についてローザと打ち合わせをするつもりだと伝えた。
結婚前は、互いの予定をこうして毎朝話すことなどなかった。今では一日の始まりに顔を合わせ、どんな仕事をするのかを知ることができる。
エレノアがそのことを嬉しく思っていると、アレクシスが食事の手を止めた。
「今日は、何か大きな予定があるのか?」
「まずは厨房と使用人の皆さんの配置を確認して、それから先月の支出を見直そうと思っています。結婚式のために特別な出費もありましたから」
「なるほど。必要な資料が揃っていなければ、家令に言うといい」
「はい。ありがとうございます」
アレクシスは頷き、再び食事を始めた。
しばらくして出発の時刻になると、エレノアは玄関まで彼を見送った。
従者から外套を受け取ったアレクシスは、扉の前で振り返り、エレノアの手を取った。
「行ってくる」
「はい。お気をつけて」
彼は彼女の額に口づけると、名残惜しそうに一度だけその顔を見つめてから馬車へ向かった。
エレノアは馬車が門を出るまで見送り、姿が見えなくなると、隣に控えていたローザへ顔を向けた。
「それじゃあ、私たちも始めましょうか」
「はい、奥様。皆もお待ちしております」
◇
王宮へ到着したアレクシスを待っていたのは、休暇中に積み重なった報告書と、机の前に立つセドリックだった。
「お帰りなさいませ、閣下。いやあ、ようやくお戻りになりましたね」
「休暇中にも連絡は受けていただろう」
「ええ、もちろんです。ただ、閣下がいらっしゃらないと判断を仰ぐのにも何かと手間がかかりまして」
セドリックはそう言いながら、机の上に積まれた書類を示した。
「こちらが本日ご確認いただきたい案件です。急ぎのものから順にまとめてありますので」
アレクシスは椅子に腰を下ろし、最初の書類を手に取った。
「随分あるな」
「閣下が数日間お休みになっていた結果でございます」
「その間の処理は任せたはずだが?」
「もちろん済ませておりますよ。こちらは閣下の最終確認が必要なものばかりです。私もできることなら、もう少し減らしておきたかったのですが」
アレクシスは書類をめくりながら、淡々と答えた。
「なら、さっさと片づけるぞ」
「はいはい。そうおっしゃると思っておりました」
「返事は一度でいい」
「承知いたしました、閣下」
セドリックは平然と答え、次の資料を机へ並べた。
休暇中も必要な連絡は取っていたため、業務そのものが滞っているわけではない。それでも王宮では日々新たな案件が生じており、担当部署から上がってくる報告も少なくなかった。
アレクシスは一つひとつの内容を確認し、必要な指示を出していった。数字の不一致や説明の足りない箇所があれば容赦なく指摘し、判断に必要な情報が揃っていない案件については、担当者へ差し戻すよう命じる。
「この報告では、なぜ予算を増額する必要があるのか分からない。前年との比較だけでは不十分だ」
「追加の資料を求めますか?」
「ああ。実際の支出と、今後の見込みを出させろ。それを確認してから判断する」
「承知しました」
セドリックは指示を書き留め、次の書類を差し出した。
午前中はほとんど休む間もなく仕事が続いたが、アレクシスの判断は的確で、滞っていた案件も順調に処理されていった。
昼が近づいた頃、セドリックが一息つくように肩を回した。
「やはり閣下がいらっしゃると、仕事が早いですね」
「お前が普段から必要な資料を揃えておけば、もっと早い」
「揃えておりますよ。閣下の要求が細かいだけです」
アレクシスは書類から顔を上げ、冷ややかな視線を向けた。
「何か言ったか?」
「いいえ。次の案件へ参りましょう」
セドリックは涼しい顔で別の書類を差し出した。
アレクシスは小さく息をついたものの、それ以上は何も言わず、仕事を続けた。
◇
その頃、侯爵邸ではエレノアがローザとともに屋敷の管理について確認を進めていた。
広い侯爵邸を維持するためには、多くの使用人がそれぞれの役割を果たしている。厨房や清掃、庭園の手入れに加え、客人を迎える準備や備品の管理など、日々の仕事は細かく分かれていた。
エレノアは以前から少しずつそれらを学んできたが、正式に侯爵夫人となった今、改めて全体の流れを把握しておきたいと考えていた。
「結婚式の前後は、厨房も随分忙しかったでしょう?」
「はい。ですが、料理長が早めに準備を進めておりましたので、大きな問題はございませんでした」
ローザは帳簿を開き、食材の仕入れと支出の記録を示した。
「こちらが先月分の費用でございます。結婚式に関する支出は、通常の運営費とは分けて記載しております」
「ありがとう。とても分かりやすいわ」
エレノアは数字を確認しながら、いくつか気になった項目について尋ねた。
リーヴェで父の仕事を手伝っていた頃にも帳簿を扱うことはあったが、侯爵家では管理する金額も品目も大きく異なる。それでも、支出の理由を一つひとつ確かめ、必要なものと見直せるものを区別するという基本は変わらなかった。
「この備品の費用は、先月だけ少し多いのね」
「客間の調度品を一部新しくいたしました。結婚式に合わせてお客様をお迎えするためでございます」
「そうだったのね。それなら問題ないわ。今後も同じ費用が続くわけではないのね?」
「はい。次月からは通常の額に戻る見込みです」
エレノアは頷き、確認した項目に印をつけた。
しばらくして厨房の責任者が挨拶に訪れると、エレノアは先日の結婚式での働きに礼を伝え、今後の献立や食材の仕入れについても話を聞いた。
使用人たちは、若い侯爵夫人が細かなことまで質問するのを最初こそ少し意外に思ったようだったが、エレノアが一方的に指示を出すのではなく、それぞれの仕事を理解しようとしていることが分かると、次第に率直に意見を伝えるようになった。
昼食を終えたあと、ローザが新しいお茶を用意しながら声をかけた。
「奥様、少しお休みになりませんか?」
「そうね。ちょうど一段落したところだし、いただこうかしら」
エレノアは帳簿を閉じ、椅子の背にもたれた。
「皆さん、本当にしっかりお仕事をしてくださっているのね。私が知らないことも、まだたくさんあるわ」
「奥様は、これから少しずつ覚えていかれればよろしいのです。何もかも一度に把握する必要はございませんよ」
「ええ。焦らずにやっていくつもりよ」
ローザが微笑みながらお茶を注ぐと、エレノアは礼を言ってカップを受け取った。
結婚してから初めて迎える、夫のいない平日だった。
アレクシスが王宮で仕事をしている間、自分も屋敷で役割を果たす。そう考えると、侯爵夫人になったのだという実感が、改めて湧いてくるようだった。
◇
午後の王宮では、アレクシスが最後の報告書を確認していた。
窓の外では日が傾き始めており、机の上に積まれていた書類も、朝に比べれば随分少なくなっている。
セドリックは処理済みの書類をまとめながら、何気ない調子で口を開いた。
「本日は、もうお戻りになりますか?」
「ああ。急ぎの案件は片づいた」
「珍しいですね。以前でしたら、残っている書類にも手をつけていらしたでしょうに」
「明日で構わないものまで、今日片づける必要はないだろう」
セドリックは思わず顔を上げた。
「……閣下のお口から、そのようなお言葉が聞けるとは」
「何だ」
「いえ、奥様のお力は偉大だと思いまして」
アレクシスは書類を揃えながら、セドリックを見た。
「お前も帰れるときには帰れ。無駄に残る必要はない」
「それはありがたいお言葉です。ぜひ今後も、その方針でお願いいたします」
「仕事を終わらせてから言え」
「もちろんでございます」
セドリックは笑いを堪えるように口元を引き締め、書類を抱え直した。
アレクシスは外套を受け取ると、必要な指示を最後にいくつか伝え、執務室をあとにした。
王宮の廊下では、すれ違う官吏たちが次々と頭を下げた。アレクシスはいつもどおり落ち着いた表情で挨拶を返し、余計な会話を交わすことなく歩いていく。
その姿は、休暇前と何も変わらないヴァルツェン侯爵そのものだった。
◇
夕方、侯爵邸へ戻ったアレクシスを迎えたのは、玄関ホールで待っていたエレノアだった。
「お帰りなさいませ、アレクシス様!」
彼女の声を聞いた瞬間、アレクシスの表情が和らいだ。
「ただいま、エレノア」
差し出された手を取ると、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「今日はどうだった?」
「とても充実した一日でした。ローザと一緒に帳簿を確認したり、厨房の方々とお話ししたりしていたんです」
「そうか。無理はしていないか?」
「大丈夫です。ちゃんと休憩も取りましたよ」
エレノアが笑うと、アレクシスも満足そうに頷いた。
「それならいい」
彼は外套を従者へ預け、エレノアの手を取ったまま廊下を歩き始めた。
「アレクシス様は、王宮でのお仕事はいかがでしたか?」
「休暇中の案件が少し溜まっていたが、問題なく片づいた。セドリックもよくやってくれていたようだ」
「ふふ。やっぱり、セドリックは頼りになる方ですね」
「ああ。口さえもう少し慎めば、なおいいんだが」
エレノアは思わず笑い、アレクシスもつられるように口元を緩めた。
夕食の席では、それぞれが今日あった出来事を話した。
エレノアが厨房で聞いた話をすると、アレクシスは興味深そうに耳を傾け、屋敷の管理について気になることがあれば相談するようにと伝えた。アレクシスも王宮での仕事について、話せる範囲で説明してくれたため、エレノアは普段彼がどのようなことをしているのかを知ることができた。
食事を終えたあと、二人は庭に面した居間へ移り、温かいお茶を飲みながらくつろいだ。
「こうしてお話ししていると、今日一日があっという間だったように感じます」
エレノアが言うと、アレクシスは隣へ腰を下ろした。
「忙しかったか?」
「はい。でも、楽しかったです。皆さんのお仕事を知ることができましたし、これから自分にできることも少しずつ見えてきました」
「それはよかった」
アレクシスは彼女の肩を抱き、そっと引き寄せた。
「俺も、帰ってきて君の顔を見ると落ち着く」
思いがけない言葉に、エレノアは彼を見上げた。
「……アレクシス様」
「何だ?」
「そんなことを言われると、嬉しくて困ってしまいます」
彼は小さく笑い、彼女の肩を抱く腕に少しだけ力を込めた。
「困ることはないだろう。思ったことを言っただけだ」
エレノアは照れながらも微笑み、彼の肩へ頭を預けた。
休暇中のように、一日中一緒に過ごすことはできない。それでも、朝は顔を合わせて食事を取り、夜には互いの一日を話しながらくつろげる。
エレノアはそんな暮らしを、これから大切にしていきたいと思った。
「明日も、お仕事頑張ってくださいね」
「ああ。君も、無理はするなよ」
「はい。アレクシス様もですよ」
二人は顔を見合わせ、笑い合った。
アレクシスはエレノアの手を握り、その温もりを確かめるように指を絡めたあと、彼女をもう一度抱き寄せた。
屋敷の外では夜の静けさが広がり始めていたが、居間にはまだ柔らかな灯りがともっている。
夫婦となって迎えた、初めての仕事の日。
特別な出来事があったわけではないけれど、エレノアにとっては、これから始まる二人の暮らしを感じられる大切な一日になった。




