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劇場へ出かける日の朝、エレノアはいつもより少し早く目を覚ました。
隣ではすでに起きていたアレクシスが、枕元に置かれた時計へ目を向けている。彼はエレノアが身じろぎしたことに気づくと、こちらへ顔を向け、穏やかに微笑んだ。
「おはよう、エレノア。よく眠れたか?」
「おはようございます、アレクシス様。とてもよく眠れました」
そう答えて身体を起こそうとすると、アレクシスが彼女の背中へ手を添えた。昨日から何度も体調を気遣われていることを思い出し、エレノアは思わず笑ってしまう。
「大丈夫ですから、そんなに心配なさらないでください」
「まだ何も言っていないだろう」
「お顔に書いてあります」
アレクシスは少し意外そうに眉を上げたあと、諦めたように笑った。
「そうか。なら、今日は遠慮なく出かけられるな」
「はい! とても楽しみにしていたんです」
エレノアが嬉しそうに答えると、アレクシスはその額へ軽く口づけてから寝台を降りた。
結婚してまだ二日目だというのに、朝の挨拶を交わし、同じ部屋で一日の予定を話せることが、少しずつ当たり前になり始めている。その変化が嬉しくて、エレノアは彼の背中を見送りながら、自然と頬を緩めていた。
◇
朝食を終えたあと、エレノアはローザとともに外出の支度を始めた。
劇場へ行くのだから、普段の散歩とは違う装いが必要になる。とはいえ、夜会ほど華やかな衣装を選ぶつもりはなく、ローザと相談しながら、淡い青色のドレスに白い手袋を合わせることにした。
「こちらのお色は、奥様によくお似合いになりますね」
「ありがとう。今日はどんな舞台が観られるのか、朝から楽しみで仕方がないの」
「旦那様とご一緒ですもの。きっと素敵な一日になりますよ」
ローザは微笑みながら髪を整え、耳元に小さな真珠の飾りを添えた。
鏡に映る自分を眺めながら、エレノアは数日前の結婚式を思い出した。あの日は多くの人に祝福され、夢のような時間を過ごしたけれど、今日の外出はそれとは違う楽しみがある。
夫婦として、二人で街へ出かけるのだ。
支度を終えて階下へ向かうと、玄関ホールにはアレクシスが待っていた。濃紺の上着を身につけた彼は、エレノアの姿を見るなり手元の書類から目を離し、こちらへ歩み寄ってくる。
「待たせてしまいましたか?」
「いや、ちょうど終わったところだ」
アレクシスは書類を傍らの従者へ預けると、改めてエレノアを見つめた。
「よく似合っている」
「ありがとうございます。ローザと相談して決めたんです」
「そうか。いい色だな」
あまりにも自然に褒められ、エレノアは少し照れながら微笑んだ。
「アレクシス様も、とても素敵です」
彼はわずかに目を細め、差し出されたエレノアの手を取った。
「では、行こうか」
玄関の外には馬車が用意されており、二人が乗り込むと、御者はゆっくりと馬を進め始めた。
◇
王都の大通りには、昼前から多くの人が行き交っていた。
窓の向こうには店先へ商品を並べる商人や、買い物を楽しむ人々の姿が見え、エレノアはときおり身を乗り出すようにして街の様子を眺めた。
王都での暮らしにもずいぶん慣れたつもりだったが、こうして仕事の予定を気にせず外出するのは久しぶりだった。これまでは屋敷の用事や社交のために馬車を使うことが多く、行き先へ向かう道中も、頭の中では次にすべきことを考えていたように思う。
「今日は、何も気にせず楽しんでいいんですよね」
向かいに座るアレクシスへそう尋ねると、彼は不思議そうに彼女を見た。
「そのつもりで連れ出したんだが」
「ふふ。そうですよね。何だか、まだ少し慣れなくて」
「休むことにか?」
「はい。こんなふうに一日を過ごしていいのかしら、と思ってしまうんです」
アレクシスは小さく息をつき、エレノアの手を取った。
「君は十分働いている。屋敷のことも、リーヴェのことも、いつも気にかけているだろう。少しくらい仕事を忘れても、誰も困らない」
「アレクシス様にそう言われると、説得力がありますね」
「……どういう意味だ?」
「いつもお忙しい方ですから」
エレノアが笑うと、アレクシスも苦笑した。
「それを言われると返す言葉がないな」
「でも、休暇を取ってくださって嬉しいです。こんなにゆっくりご一緒できるなんて、結婚する前は思ってもいませんでした」
その言葉に、アレクシスは彼女の手を握り直した。
「これからは、こういう時間も作る」
「本当ですか?」
「ああ。毎日は難しいだろうが、君と出かけるための時間くらい、確保できる」
エレノアは嬉しそうに頷き、窓の外へ視線を戻した。
やがて馬車が大通りを曲がると、正面に大きな劇場が見えてきた。
白い石造りの建物には彫刻が施され、入口の上には本日の演目を知らせる看板が掲げられている。広い階段を上る人々の姿もあり、エレノアは思わず声を上げた。
「まあ、素敵な建物ですね!」
「王都でも古い劇場の一つだ。何度か改修されているが、外観は昔のまま残されているらしい」
「そうなのですね。中も楽しみです」
馬車が停まると、アレクシスは先に降り、エレノアへ手を差し出した。
その手を取って地面へ降り立った瞬間、近くにいた人々の何人かがこちらへ視線を向けた。
「ヴァルツェン侯爵閣下では……?」
小さな声が聞こえ、エレノアは少しだけ背筋を伸ばした。
結婚式を終えたばかりとはいえ、アレクシスが人々の注目を集めることに変わりはない。彼は周囲の視線を気にする様子もなく、エレノアを自然にエスコートして階段へ向かった。
◇
劇場の中へ足を踏み入れると、エレノアは思わず立ち止まりそうになった。
高い天井からは大きな燭台が下がり、壁には細やかな装飾が施されている。赤い絨毯が敷かれた広間には観客たちの話し声が満ち、開演を待つ華やいだ空気が漂っていた。
「こんなに立派な劇場だったのですね」
「気に入ったか?」
「はい。舞台を見る前から、わくわくしてしまいます」
アレクシスは嬉しそうな彼女を見て微笑んだが、近づいてきた劇場の支配人に気づくと、すぐに表情を改めた。
「ヴァルツェン侯爵閣下、本日はご来場いただき、誠にありがとうございます」
「世話になる」
「お席までご案内いたします。こちらへどうぞ」
支配人の丁寧な案内を受けながら、二人は階段を上がった。
用意されていたのは舞台を正面から見渡せる二階の観覧席で、周囲の席から少し離れた造りになっている。劇場全体を見下ろすことができ、幕の下りた舞台もよく見えた。
「アレクシス様、こんなに良いお席を取ってくださったのですか?」
「初めて一緒に観る舞台だからな。見やすい席の方がいいだろう」
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
エレノアが椅子へ腰を下ろすと、アレクシスも隣に座った。
開演までにはまだ少し時間があり、観客席では人々が席を探したり、知人同士で挨拶を交わしたりしている。
エレノアは手元の演目案内を開き、今日の物語のあらすじに目を通した。
舞台は、遠い港町を舞台にした恋物語だった。長い航海へ出た青年と、帰りを待つ女性が、幾度ものすれ違いを経て再会するという内容らしい。
「恋のお話なのですね」
「ああ。評判がいいと聞いた」
「アレクシス様がお選びになったのですか?」
「そうだが、何か問題があったか?」
「いいえ。ただ、少し意外でした」
エレノアが笑いながら答えると、アレクシスは彼女の手元にある案内へ視線を落とした。
「君が楽しめそうなものを選んだつもりだ」
「ふふ。ありがとうございます。とても楽しみです」
ほどなくして開演を告げる鐘が鳴り、場内のざわめきが静まっていった。
◇
幕が上がると、舞台には港町の風景が広がった。
青く塗られた背景の前に船の帆が揺れ、役者たちが行き交う市場には、威勢のよい掛け声が響いている。舞台の上とは思えないほど生き生きとした光景に、エレノアはたちまち引き込まれた。
物語の主人公は、船乗りとして働く若者だった。
彼には幼い頃から想いを寄せる女性がいたが、遠い海へ出る仕事を選んだため、二人は長いあいだ離れて暮らしていた。青年は帰るたびに彼女へ会いに行くものの、互いの気持ちをうまく伝えられず、次の航海が決まるたびに別れを繰り返してしまう。
最初は明るく軽快に進んでいた物語も、やがて海で大きな嵐が起こり、青年の船が消息を絶ったことで雰囲気を変えた。
彼の帰りを待つ女性が、港へ届く船の知らせを一つひとつ確かめる場面では、客席のあちこちから小さなため息が聞こえた。
エレノアも膝の上で手を握り、舞台から目を離せなくなっていた。
隣に座るアレクシスは、彼女がすっかり物語に夢中になっていることに気づいていた。役者たちの演技に合わせて表情を変え、ときには小さく笑い、ときには心配そうに眉を寄せる姿が微笑ましく、彼自身も舞台を楽しみながら、折に触れて彼女の横顔へ視線を向けていた。
やがて物語は、数年後の港町へと移る。
帰らぬ人になったと思われていた青年が、長い年月を経て故郷へ戻ってくるのだ。
しかし、彼を待ち続けていた女性は、突然の再会を素直に喜ぶことができなかった。生きているなら、なぜ知らせてくれなかったのか。どれほど心配していたのか。そんな思いを涙ながらにぶつける彼女に、青年は何度も謝り、ようやく二人は互いの気持ちを確かめ合う。
その場面を見つめながら、エレノアはふと、隣のアレクシスへ目を向けた。
5年前、彼がリーヴェを去ったあと、自分も何度となく彼のことを思い出した。けれど、どこで何をしているのかも知らず、再び会えるという確信も持てなかった。
舞台の二人とは事情が違う。それでも、長い年月を経て再会した恋人たちの姿に、どこか懐かしい気持ちが込み上げてくる。
アレクシスは彼女の視線に気づき、そっと手を差し出した。
エレノアがその手を握ると、彼は何も言わずに指を絡めた。
舞台では、ようやく想いを伝え合った二人が、港を見渡す丘の上で未来を語り合っていた。
エレノアはアレクシスの手を握ったまま、最後まで物語を見届けた。
◇
終幕を迎えると、劇場は大きな拍手に包まれた。
役者たちが舞台へ並んで挨拶をすると、エレノアも惜しみなく拍手を送り、何度も幕が上がる様子を楽しそうに眺めていた。
「素晴らしかったです!」
観客たちが席を立ち始めた頃、エレノアは興奮の残る声でアレクシスへ話しかけた。
「最後に二人が再会できて、本当によかったです。途中はどうなることかと思いましたけれど……」
「ずいぶん夢中になっていたな」
「はい。役者の方々も素晴らしくて、まるで本当にあの港町にいるようでした」
エレノアは演目案内を大切そうに閉じ、アレクシスを見上げた。
「連れてきてくださって、ありがとうございます」
「楽しんでもらえたなら何よりだ」
二人は支配人に礼を告げ、劇場をあとにした。
外へ出ると、午後の日差しは少し傾き始めており、劇場の前には公演の感想を話し合う人々が集まっていた。
馬車へ向かう途中、エレノアはアレクシスの腕に手を添えながら尋ねた。
「アレクシス様は、どの場面がお好きでしたか?」
「そうだな。最後に青年が戻ってきたところだろうか」
「やっぱり、あの場面ですよね」
「ただ、あれだけ長く待たせたのなら、もう少し早く事情を説明すべきだったとは思うが」
あまりにも真面目な感想に、エレノアは思わず吹き出した。
「ふふっ、アレクシス様ったら!」
「何かおかしいことを言ったか?」
「いいえ。でも、あの青年もきっと、いろいろと事情があったのでしょう?」
「それは分かる。だが、相手を不安にさせたままにするのは感心しない」
エレノアは笑いながら彼を見上げた。
「アレクシス様らしいですね」
「そうか?」
「はい。とても」
馬車へ乗り込むと、エレノアは窓の外に見える劇場をもう一度振り返った。
楽しかった舞台の余韻はまだ残っており、できることなら、また別の演目も見てみたいと思った。
「また、ご一緒していただけますか?」
そう尋ねると、アレクシスは迷わず頷いた。
「もちろんだ。次は君が観たいものを選ぶといい」
「本当ですか? それなら、今度は喜劇も見てみたいです」
「喜劇か。いいだろう」
エレノアは嬉しそうに微笑み、隣に座るアレクシスへ少しだけ身を寄せた。
彼は当然のように肩を抱き、馬車が動き出すまで彼女をそのまま抱き寄せていた。
「今日は、本当に楽しかったです」
「俺もだ」
アレクシスはそう答え、エレノアの髪へ軽く口づけた。
窓の外では、王都の街並みがゆっくりと後ろへ流れていく。エレノアは彼の肩に寄り添いながら、今日見た舞台のことをもう一度思い返していた。
結婚式の日も、昨日の穏やかな一日も、そして今日の観劇も、きっといつまでも忘れないだろう。
そう思いながら、エレノアはアレクシスの手を握り、帰り道の時間を楽しんだ。




