52
朝の光が寝室のカーテンの隙間から差し込む頃、アレクシスはゆっくりと目を覚ました。
普段ならとっくに起きている時刻だったが、今朝は寝台から出ようという気にならなかった。腕の中ではエレノアが穏やかな寝息を立てており、頬にかかった髪が呼吸に合わせてかすかに揺れている。
昨夜、妻となったばかりの彼女が、こうして自分の隣で眠っている。
結婚式を終え、二人きりになったときのエレノアの笑顔を思い出し、アレクシスはそっと彼女の髪を撫でた。眠りを妨げないように指先で髪を払うと、エレノアは小さく身じろぎし、彼の胸元へ顔を寄せてきた。
アレクシスは思わず口元を緩めた。
5年前、リーヴェの屋敷で療養していた頃は、彼女が部屋を訪ねてくる時間を待つことしかできなかった。戦場へ戻ってからも、忙しさに追われる日々の中で、ふとした瞬間に思い出すのはいつも彼女のことだった。
それが今では、手を伸ばせば触れられる場所にいる。
しばらくその寝顔を眺めていたが、エレノアが目を覚ます気配はなかった。昨日は朝から結婚式の支度に追われ、披露宴が終わる頃には疲れも見えていた。加えて、昨夜は彼女を遅くまで眠らせなかったのだから、今朝くらいは好きなだけ休ませてやりたかった。
アレクシスは眠るエレノアの頬にそっと触れ、起こさないよう慎重に腕を抜くと、寝具を肩まで掛け直した。
支度を整えて寝室を出ると、廊下にはすでにローザが控えていた。
「おはようございます、旦那様」
「ああ。エレノアはまだ眠っている。起こさずに休ませてやってくれ」
「かしこまりました」
「朝食も、目を覚ましてからで構わない。それと、今日は屋敷の仕事をさせないように」
ローザは一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに微笑んで頭を下げた。
「承知いたしました。奥様には、ゆっくりお過ごしいただきます」
アレクシスは頷くと、廊下の先へ歩き出した。
数日間の休暇を取るため、急ぎの案件は結婚式までに片づけてある。必要な引き継ぎも済ませており、今日からしばらくは執務室に籠もる必要もない。
それでも長年の習慣で早く目が覚めてしまったが、今朝ばかりは仕事よりも、妻が十分に休めることの方が気になっていた。
◇
エレノアが目を覚ましたとき、隣にアレクシスの姿はなかった。
寝台の上で身体を起こし、何気なく時計を見た彼女は、思わず目を見開いた。
「……えっ?」
いつもなら朝食を済ませ、仕事を始めている時刻をとうに過ぎている。
昨夜は確かに疲れていたが、まさかこんな時間まで眠ってしまうとは思わなかった。
慌てて寝台を降りようとしたところで、扉が叩かれた。
「奥様、お目覚めでございますか?」
「ローザ! 私、寝坊してしまったわ!」
入ってきたローザにそう告げると、彼女は少しも慌てた様子を見せず、穏やかに微笑んだ。
「ご心配には及びません、奥様。旦那様より、本日はお目覚めになるまで起こさず、ゆっくりお休みいただくよう申しつかっております」
「アレクシス様が?」
「はい。それから、本日はお仕事もなさらないようにとのことでございます」
エレノアは驚いてローザを見つめた。
「でも、昨日は結婚式で何もできなかったでしょう? 確認しておきたい書類もあるのだけれど……」
「そちらも、今日はお休みいただくようにと」
ローザはにっこり微笑んだ。
どうやらアレクシスは、エレノアが仕事を始めようとすることまで予想していたらしい。
「……そこまで言われてしまったら、仕方がないわね」
エレノアが苦笑すると、ローザも楽しそうに頷いた。
「旦那様は、奥様にゆっくりお過ごしいただきたいのでしょう。朝食のご用意をいたしますので、まずはお支度をなさいませんか?」
「ええ、お願い」
エレノアは寝台から降り、ローザに手伝ってもらいながら身支度を整えた。
昨夜のことを思い出すと、まだ少し照れくさい気持ちになる。けれど、それ以上に、目覚めたときからアレクシスの気遣いを感じられることが嬉しかった。
着替えを済ませて鏡の前に立つと、ローザが髪を整えながら尋ねた。
「奥様、本日はどのようにお過ごしになりますか?」
「そうね……お義母様は今日、別邸へお戻りになるのよね?」
「はい。午後にご出発の予定でございます」
「それなら、お見送りはしたいわ。それから、アレクシス様にもお会いしなくては」
ローザは微笑み、最後に髪飾りを留めた。
「旦那様も、きっとお喜びになりますよ」
◇
遅めの朝食を済ませたエレノアが応接間へ向かうと、セシリアが荷物の確認を終えたところだった。
「おはようございます、お義母様。遅くなってしまって申し訳ありません」
「まあ、エレノアさん。おはよう。謝ることなんてないわ。昨日は大変だったでしょう?」
「はい。でも、とても幸せな一日でした」
「それなら何よりよ」
セシリアは嬉しそうに微笑み、エレノアを隣へ座らせた。
結婚式のために本邸へ滞在していたセシリアは、予定どおり今日の午後には別邸へ戻ることになっていた。もともと自分の暮らしを大切にしている人であり、エレノアもそのことは以前から聞いている。
「お義母様、これまで本当にありがとうございました。王都へ来たばかりの頃から、たくさんのことを教えていただいて……」
「何を言っているの。これからも、いつでも頼ってちょうだい。私はあなたが娘になってくれて、本当に嬉しいのよ」
セシリアはエレノアの手を取り、優しく握った。
「でもね、これからは二人で相談して、二人らしい家庭を作っていってほしいと思っているの。もちろん、困ったことがあれば遠慮なく知らせてちょうだいね」
「はい。ありがとうございます」
エレノアが頷くと、セシリアは少し楽しそうな顔になった。
「それにしても、アレクシスが休暇を取るなんてね。あの子が自分から仕事を休むと言い出したときは、私も驚いたわ」
「えっ?」
エレノアは思わず聞き返した。
「アレクシス様、お休みなのですか?」
「あら、聞いていなかったの?」
「はい。今朝も、もうお仕事へ行かれたのだと思っていました」
セシリアは小さく笑った。
「ふふ。あの子ったら、あなたを驚かせたかったのかしら。結婚式の前から、セドリックと相談していたみたいよ」
そこへ、ちょうどアレクシスが姿を見せた。
「母上、お支度は整いましたか?」
「ええ、もう済んだわ。それよりアレクシス、エレノアさんに休暇のことを話していなかったのね」
アレクシスはエレノアへ目を向けた。
「まだ話していませんでした。今日、伝えるつもりだったので」
「そう。では、あとは二人でゆっくり話しなさいな」
セシリアは微笑みながら立ち上がり、出発の支度を整えるために侍女を呼んだ。
午後、玄関前には別邸へ向かう馬車が用意され、アレクシスとエレノアは並んでセシリアを見送った。
「母上、結婚式の準備から何から、お世話になりました」
「いいのよ。私も楽しかったわ」
「また近いうちに、エレノアと伺います」
「ええ、楽しみにしているわ。でも、あなたも少しは身体を休めるのよ。エレノアさんのことばかり心配して、自分が倒れては困るでしょう?」
「……気をつけます」
その返事にセシリアは満足そうに頷き、エレノアへ向き直った。
「エレノアさん、またお茶でもご一緒しましょうね」
「はい、お義母様。ぜひ!」
セシリアは二人に微笑みかけ、馬車へ乗り込んだ。
やがて馬車が門の向こうへ消えると、エレノアは隣のアレクシスを見上げた。
「お義母様がいらっしゃらなくなると、少し寂しいですね」
「またすぐに会える。それに、母上も自分の暮らしに戻りたいだろう」
「そうですね」
アレクシスはエレノアの手を取り、屋敷へ向かって歩き始めた。
「ところで、休暇の話を聞いたそうだな」
「はい! 驚きました。いつの間にお決めになったのですか?」
「結婚式の前からだ。数日は仕事を休むつもりで、必要なことは済ませてある」
「それなら、どこかへお出かけできますね」
嬉しそうに顔を上げるエレノアに、アレクシスは少し考えるような表情を見せた。
「出かけるのは明日以降にしよう。今日は屋敷で休んでいればいい」
「でも、せっかくのお休みですのに……」
「休暇なんだから、休めばいい」
あまりにも当然のように言われ、エレノアは笑ってしまった。
「アレクシス様がそのようなことをおっしゃるなんて、少し意外です」
「俺だって休むときは休む」
「ふふ。そうでしたね」
二人はそのまま庭に面した小さな居間へ向かった。
◇
居間に入ると、アレクシスはエレノアをソファへ座らせ、侍女にお茶を頼んだ。
窓の外には手入れの行き届いた庭が広がり、午後の日差しが花壇を明るく照らしている。昨日まで結婚式の準備で慌ただしかった屋敷も、今日はいつもの落ち着きを取り戻していた。
アレクシスはエレノアの隣へ腰を下ろし、彼女の顔を見つめた。
「身体はつらくないか?」
「え? はい、大丈夫です」
「無理はするな。今日はゆっくり休んでいればいい」
いつになく念入りに体調を気遣われ、エレノアは不思議そうに首を傾げたが、やがて彼が何を心配しているのかに気づいた。
「……アレクシス様、もしかして昨夜のことを?」
「ほかに何がある」
あまりにも当然のように返され、エレノアは顔を赤くした。
「だ、大丈夫です! そんなに心配なさらなくても……」
「ならいい。だが、今日は休め」
そう言ってアレクシスから頬に口づけされ、エレノアは思わず彼を見つめた。
結婚前にも、アレクシスはいつも彼女を大切にしてくれていた。けれど、夫婦になってからは、こうして触れることにも迷いがなくなったように感じる。
「……アレクシス様」
「何だ?」
「少し、驚いてしまいました」
「何に?」
「その……以前よりも、ずっと近くにいらっしゃるので」
アレクシスは彼女の言葉を聞き、わずかに笑った。
「嫌か?」
「いいえ。嬉しいです」
エレノアが素直に答えると、彼は彼女の肩を抱き寄せた。
「なら、遠慮する必要はないな」
「……そういうことになりますね」
自分で答えておきながら恥ずかしくなり、エレノアは笑って彼の肩へ頭を預けた。
しばらくしてお茶が運ばれてくると、二人は昨日の結婚式について話し始めた。
エレノアは、父が祭壇まで付き添ってくれたときのことや、リナが朝から何度も泣いていたことを楽しそうに話した。アレクシスもセドリックから披露宴の準備について聞いていた話を教えてくれ、二人は思い出すたびに笑い合った。
「そういえば、以前、劇場へ行きたいと言っていただろう」
アレクシスが思い出したように切り出すと、エレノアは顔を上げた。
「はい。覚えていてくださったのですか?」
「ああ。休暇中に行けるよう、席を取ってある」
「本当ですか!」
エレノアの表情がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます! とても楽しみです」
「公演は数日後だ。それまでは、ゆっくり過ごそう」
「はい。どんなお話なのか、今から楽しみです」
エレノアが嬉しそうに話すのを、アレクシスは穏やかな表情で聞いていた。
そのとき、廊下から控えめな足音が近づき、扉が叩かれた。
「閣下。セドリックでございます」
扉の向こうから聞こえた声に、アレクシスはわずかに眉を寄せた。
「入れ」
セドリックは書類を手に入室すると、エレノアにも一礼した。
「お休みのところ申し訳ございません。できれば私も、本日は閣下のお顔を拝見せずに済ませたかったのですが」
「……用件を言え」
「王宮から至急の通達が届きました。本日中にご判断いただく必要がございます」
差し出された書類に目を通したアレクシスは、表情を引き締めた。
「担当部署への確認は?」
「済んでおります。こちらが関連資料です」
セドリックは用意していた書類を続けて差し出した。
アレクシスは内容を確認し、しばらく考えてから口を開いた。
「この条件では承認できない。修正を求めろ。回答期限はこちらで調整する」
「承知いたしました」
「それと、この件は先方との調整が必要になる。執務室で指示を出す」
「かしこまりました。……奥様、お時間をいただいて申し訳ございません」
セドリックがエレノアへ頭を下げると、彼女は微笑んだ。
「いいえ。急ぎのお仕事なのでしょう? どうぞお気になさらないで」
「ありがとうございます。奥様はお優しいですね」
「セドリック」
「はい、閣下。すぐに参ります」
アレクシスの低い声に、セドリックは何事もなかったように姿勢を正した。
扉が閉まると、エレノアは思わず小さく笑った。
仕事に厳しいところは、結婚しても何も変わらないらしい。
それでも、自分のために休暇を取ってくれたことを思うと、嬉しさが込み上げてきた。
◇
アレクシスが戻ってきたのは、それからしばらくしてのことだった。
執務室で必要な指示を済ませ、セドリックに残りの対応を任せてきたらしい。居間へ入るなりエレノアの姿を確かめると、彼は隣へ腰を下ろした。
「待たせたな」
「いいえ。お仕事はもうよろしいのですか?」
「ああ。必要なことは済ませた。あとはセドリックに任せてある」
「それならよかったです」
エレノアが微笑むと、アレクシスは彼女の手を取り、指先へ軽く口づけた。
「今日はもう、君と過ごす」
「ふふ。ありがとうございます」
夕食までの時間、二人は庭を眺めながら話をしたり、届いていた祝いの品を一緒に確かめたりして過ごした。
王家から贈られた品をはじめ、親しい貴族たちからの贈り物には、それぞれ心のこもった祝辞が添えられていた。エレノアは差出人の名前を確認しながら、お礼状をどのように書こうかと考え始めたが、アレクシスに今日は休むよう言われたことを思い出し、思わず笑ってしまった。
「どうした?」
「いえ。つい、お礼状のことを考えてしまって」
「明日以降でいい。急ぐものはない」
「そうですね。今日はお休みでした」
アレクシスは彼女の笑顔を見て、満足そうに頷いた。
夕食を終えたあとも、二人はすぐにそれぞれの部屋へ戻ることなく、ゆっくりと時間を過ごした。
昨日までは婚約者として、限られた時間の中で会っていた。けれど今は、話が途中になったからといって別れを惜しむ必要もなく、明日の予定を相談しながら同じ部屋でくつろいでいられる。
エレノアはその変化が嬉しくて、隣に座るアレクシスへ微笑みかけた。
「明日も、こうして一緒に過ごせるのですね」
「ああ。そのために休暇を取ったんだ」
彼は当然のように答え、エレノアをそっと抱き寄せた。
エレノアも彼の肩に身を寄せ、窓の外へ目を向けた。
夜の庭には柔らかな月明かりが降り注ぎ、昼間とは違う静けさが広がっている。
これから先、二人で迎える朝も、こうして過ごす夜も、少しずつ当たり前になっていくのだろう。
エレノアはその日々を思い浮かべながら、アレクシスの手を握り返した。




