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結婚式の朝、エレノアが目を覚ますと、窓の向こうには雲ひとつない青空が広がっていた。
昨夜はなかなか寝つけないかもしれないと思っていたが、リナやマルタと話しているうちに気持ちが落ち着いたのか、いつもと変わらずよく眠れたらしい。窓から差し込む朝日を眺めていると、今日が結婚式だという実感が少しずつ湧いてきた。
寝台を降りたところで扉が控えめに叩かれ、ローザが顔を見せた。
「おはようございます、エレノア様。本日はおめでとうございます」
「おはよう、ローザ。ありがとう」
「朝食のご用意が整っております。その前に、リナさんとマルタさんがお顔を見せにいらっしゃいました。お通ししてもよろしいでしょうか?」
「もちろんよ!」
エレノアが答えると、ローザは微笑んで扉を開けた。
「エレノア様、おはようございます!」
先に入ってきたリナは、朝から随分と嬉しそうだった。その後ろにはマルタも続いており、二人とも昨日とは違う、結婚式にふさわしい装いをしている。
「リナ、マルタ。こんなに早く来てくれたの?」
「当然でございます! エレノア様の花嫁支度を、私が見逃すわけにはまいりませんもの」
「私も、ぜひお手伝いをさせていただきたくて参りました」
マルタが穏やかに答えると、リナは早速エレノアの髪を眺め、どのように結い上げるのかとローザに尋ね始めた。
その様子がおかしくて、エレノアは笑ってしまった。
「リナったら、私より張り切っているみたい」
「だって、今日という日をどれほど楽しみにしていたことか! エレノア様は、まだ実感が湧いていらっしゃらないのですか?」
「実感はあるわ。でも、まだ少し不思議な気持ちなの」
リナとマルタに見送られ、エレノアはまず朝食を取ることにした。今日の支度には時間がかかるため、ローザからもしっかり召し上がるよう勧められていた。
食事を終えると、湯浴みの支度が整えられていた。結婚式に向けた肌や髪の手入れは数日前から続けており、前日にも専門の者による丁寧な手入れを受けている。今朝は香りのよい湯で身体を温め、肌を整えたあと、侍女たちに手伝ってもらいながら支度着へ着替えた。
部屋へ戻ると、髪結いの専門家と数人の侍女が待っていた。鏡の前に腰を下ろしたエレノアの髪をローザが丁寧に梳き、髪結いの者が仕上がりを相談しながら少しずつ形を整えていく。
リーヴェにいた頃は、こうして支度を手伝ってくれるのはいつもリナだった。幼い頃にはマルタに髪を結ってもらったこともある。今はローザがその役目を引き継ぎ、二人は傍らで楽しそうに話している。
それぞれの場所で過ごすようになっても、大切な日にこうして集まってくれることが嬉しかった。
やがて扉が叩かれ、セシリアが姿を見せた。
「まあ、もう皆さんお揃いなのね」
「お義母様。おはようございます」
「おはよう、エレノアさん。いよいよ今日ね」
セシリアは嬉しそうに近づき、エレノアの肩へそっと手を置いた。
「よく眠れた?」
「はい。思っていたよりもぐっすり眠れました」
「それならよかったわ。私は昨夜、何度も今日のことを考えてしまって、少し寝不足なのよ」
「お義母様が、ですか?」
「そうよ。息子の結婚式だもの。それに、あなたの花嫁姿をようやく見られるんですものね」
セシリアはそう言って微笑み、ローザが準備していた髪飾りや装身具を一緒に確認し始めた。
エレノアは、昨日父から受け取った小さな箱を取り出した。
「お義母様、ひとつお願いがあるのですが……」
箱を開けて母の髪飾りを見せると、セシリアは優しく目を細めた。
「まあ、素敵ね」
「亡くなった母のものなんです。昨日、お父様が渡してくださって。今日、どこかにつけられたらと思っているのですが」
「もちろんよ。ぜひそうしましょう」
セシリアは髪飾りを手に取り、光にかざして細工を確かめた。
「この真珠なら、今日のドレスにもよく合うわ。髪を結い上げたところに添えるのはどうかしら」
ローザも頷き、飾りを留める位置を確認した。
「とてもよろしいかと存じます。ほかの装飾を少し控えれば、こちらが綺麗に映えると思います」
「では、それでお願いするわ」
エレノアが答えると、マルタは小さな髪飾りを見つめながら、懐かしそうに微笑んだ。
「奥様も、きっとお喜びになりますね」
その言葉にエレノアは頷き、鏡の中の自分へ目を向けた。
母が大切にしていたものを身につけて、アレクシスのもとへ嫁ぐ。そう考えると、今日という日がいっそう特別なものに思えた。
◇
花嫁衣装に袖を通す頃には、部屋の中もすっかり賑やかになっていた。
仕立て屋が最後の調整を確かめ、ローザとリナが裾を整える。ほかの侍女たちも着付けを手伝い、髪結いの者がヴェールの位置を確認していた。マルタは少し離れたところから全体の仕上がりを見守り、セシリアは装身具の位置を確認していた。
ドレスは、以前エレノア自身が選んだものだった。
柔らかな白い生地を重ねた裾は、歩くたびに軽やかに揺れる。胸元から袖にかけて施された繊細な刺繍には、小さな花があしらわれており、光の当たり方によって控えめに浮かび上がった。
華美になりすぎず、それでいて侯爵家の結婚式にふさわしい気品を備えた一着だった。
髪を結い上げ、母の真珠の飾りを添えたところで、ローザが一歩下がった。
「お支度が整いました、エレノア様」
エレノアは鏡の前に立ち、自分の姿を確かめた。
何度も衣装合わせを重ねてきたはずなのに、すべてを身につけた姿を見るのは初めてだった。鏡の中には、見慣れた自分とは少し違う、花嫁姿の女性が立っている。
「……綺麗」
リナがぽつりと呟いた。
振り返ると、彼女は両手を胸の前で組み、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「リナ?」
「申し訳ございません。まだ泣くつもりはなかったのですが……」
「もう、泣くのは式が終わってからにしてちょうだい」
エレノアが笑うと、リナも涙を拭いながら笑った。
マルタは何も言わずに近づき、ドレスの裾をほんの少し整えた。
「よくお似合いでございます、エレノア様」
「ありがとう、マルタ」
「奥様にも、お見せしたかったですね」
「…ええ。でも今日は、これをつけているから」
エレノアが髪飾りにそっと触れると、マルタは深く頷いた。
セシリアも目元を押さえながら、エレノアの手を取った。
「本当に綺麗よ。アレクシスに見せるのが惜しいくらいだわ」
「お義母様、それでは困ります」
「あら、そうね。今日ばかりは見せてあげなくては」
二人が笑い合っていると、廊下から式の準備が整いつつあるとの知らせが届いた。
いよいよ、アレクシスと会う時間が近づいていた。
◇
式場には、王都の貴族たちをはじめ、ヴァルツェン家と縁のある人々が集まっていた。
侯爵家の結婚式とあって参列者は多く、会場には華やかな衣装が並んでいる。王家からも使者を通じて祝辞と祝いの品が届けられており、式場には侯爵家の結婚を祝う華やかな空気が満ちていた。祭壇の前に立つアレクシスは、祝福の言葉をかけられるたびに礼を返していたが、その表情は普段と大きく変わらなかった。
「閣下」
隣に控えていたセドリックが、周囲に聞こえない声で呼びかけた。
「そろそろお時間です」
「ああ」
アレクシスは頷き、会場の入口へ視線を向けた。
エレノアの花嫁衣装は、今日まで一度も見せてもらえなかった。母が頑として譲らず、エレノアまで楽しそうに秘密にしていたため、仕上がりを知っているのは支度に関わった者たちだけだった。
それでも、彼女がどのような姿で現れるのかを想像するより、無事に今日を迎えられたことの方が大きかった。
5年前、リーヴェを離れたときには、再び会える保証などなかった。
生きて帰ると約束したものの、戦場へ戻れば何が起こるか分からない。彼女に自分の名も身分も明かさないまま別れたのは、巻き込みたくないという思いもあったが、今になって振り返れば、ずいぶん身勝手な別れ方だったと思う。
それでもエレノアは、再会した自分を受け入れてくれた。
侯爵という身分を知って戸惑いながらも、最後には自分の意思で隣に立つことを選んでくれた。
会場の入口付近で動きがあり、参列者たちが静かに席へ戻り始めた。
やがて扉が開かれ、アレクシスは顔を上げた。
父に手を添えられたエレノアが、ゆっくりと姿を現した。
白いドレスの裾が床を滑るように広がり、結い上げた髪には小さな真珠が光っている。薄いヴェール越しにも、その青緑色の瞳がまっすぐこちらを向いているのが分かった。
アレクシスは、しばらく目を離せなかった。
幼い頃の面影を残しながらも、5年前よりずっと大人びた彼女が、今日、自分の妻になるために歩いてくる。
エレノアは父に導かれ、一歩ずつ祭壇へ近づいてきた。
途中で目が合うと、彼女は少し緊張したように微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、アレクシスもわずかに口元を緩めた。
やがて二人が祭壇の前へ到着すると、父はエレノアの手をそっと離した。
「侯爵閣下」
アレクシスが視線を向けると、父は娘を一度見つめ、それから彼へ向き直った。
「エレノアを、よろしくお願いいたします」
「ああ。必ず幸せにする」
アレクシスはそう答え、差し出されたエレノアの手を取った。
父は安心したように微笑み、静かに席へ戻っていった。
アレクシスに導かれて隣へ立ったエレノアは、小さく息をついた。
「……緊張しています」
周囲には聞こえないほどの声だった。
アレクシスは彼女の手を握ったまま、わずかに顔を寄せた。
「俺もだ」
意外な返事に、エレノアは思わず彼を見た。
「アレクシス様も?」
「ああ」
その表情はいつもと変わらず落ち着いていたが、握られた手は温かかった。
エレノアは少しだけ肩の力を抜き、彼の隣で祭壇へ向き直った。
◇
式が始まると、会場は厳かな静けさに包まれた。
司式者の言葉に耳を傾けながら、エレノアは隣に立つアレクシスの存在を感じていた。
今日まで何度も結婚式の流れを確認し、誓いの言葉も覚えてきた。それでも、実際に祭壇の前に立つと、練習していたときとはまったく違う気持ちになる。
司式者が二人へ向き直り、これから夫婦となる意思を確かめた。
アレクシスはエレノアの方を向き、彼女の手を取った。
「エレノア」
名を呼ばれ、エレノアは顔を上げた。
「これから先、どんなことがあっても、君と共に生きることを誓う。嬉しいことも、苦しいことも、一人で背負わせたりはしない」
その声は、いつもと変わらず落ち着いていた。
「君が大切にしているものを、俺も大切にしたい。君の隣にいることを、これから先も選び続ける」
エレノアは、彼の言葉を一つひとつ受け止めた。
リーヴェの復興に心を砕いていたときも、王都での暮らしに慣れようとしていたときも、アレクシスは彼女の考えを尊重し、必要なときには手を差し伸べてくれた。
その彼が、これから先も共に歩んでいくと誓ってくれている。
エレノアは微笑み、彼の手を握り返した。
「私も、アレクシス様と共に生きることを誓います。嬉しいときには一緒に喜び、苦しいときには、私にも支えさせてください」
アレクシスが静かに頷くのを見て、エレノアは言葉を続けた。
「アレクシス様が私を大切にしてくださるように、私もあなたを大切にしたいです。これから先、どんな日も、あなたの隣にいたいと思っています」
アレクシスの指が、彼女の手を強く握った。
二人の誓いを受け、司式者が結婚の成立を宣言すると、会場に祝福の拍手が広がった。
続いて指輪が運ばれ、アレクシスはエレノアの左手を取った。
指輪をはめる彼の手元を見つめながら、エレノアはこれまでの日々を思い返していた。
5年前、名前も知らなかった青年に惹かれたこと。再会したとき、彼が侯爵だと知って驚いたこと。そして、身分の違いに戸惑いながらも、彼の隣にいたいと願ったこと。
今、その願いが叶おうとしている。
エレノアもアレクシスの指に指輪をはめると、彼はその手を離さず、静かに彼女を見つめた。
司式者が二人に口づけを促したことに、エレノアは思わず息を止めた。
アレクシスとは何度も手を繋ぎ、抱き寄せられたこともある。けれど、唇を重ねたことはまだ一度もなかったからだ。
彼がそっとヴェールを上げると、遮るもののなくなった視界に、アレクシスの顔が映った。
「エレノア」
優しく名を呼ばれ、彼女は微笑んだ。
「はい」
アレクシスの手が頬に触れる。
エレノアが目を閉じると、彼はゆっくりと顔を近づけ、その唇に口づけた。
初めての口づけは、思っていたよりもずっと優しかった。
ほんの短い間だったはずなのに、エレノアには周囲の音が遠くなったように感じられた。アレクシスが顔を離し、彼女が目を開けると、すぐ近くで彼が微笑んでいた。
「……綺麗だ」
耳元で囁かれ、エレノアの頬が熱くなった。
「ありがとうございます」
ようやくそう答えると、アレクシスは彼女の手を取り、参列者たちへ向き直った。
会場には大きな拍手が響いていた。
最前列ではセシリアが涙を拭いながら笑い、父も嬉しそうに二人を見つめている。少し離れた席にはマルタとリナの姿があり、リナはすっかり泣いてしまっているようだった。
クラリスも隣に座るユリウスとともに、満面の笑みで拍手を送ってくれていた。
エレノアは一人ひとりの顔を見渡し、最後に隣のアレクシスを見上げた。
彼は彼女の視線に気づくと、繋いだ手を握り直した。
「行こう、エレノア」
「はい、アレクシス様」
二人は並んで歩き出した。
5年前、リーヴェの小さな屋敷で出会った二人が、今日、夫婦になった。
扉の向こうには明るい陽光が差し込み、祝福の声が二人を迎えていた。




