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侯爵邸の正門に馬車が到着したと知らせを受け、エレノアは読んでいた書類を机に置いた。
リーヴェから父たちが到着するのは今日の午後と聞いていたが、朝から何度も時計を確かめてしまい、いつもより仕事が進まなかった。出迎えの準備は使用人たちが整えてくれているというのに、じっとしているのも落ち着かず、知らせを待つ間だけでも何かしていようと書類を広げていたのだった。
「エレノア様、お迎えに参りましょう」
ローザに声をかけられ、エレノアは立ち上がった。
「ええ。思っていたより早かったわね」
「道中が順調だったのでしょう。皆様も、きっとお会いになるのを楽しみにしていらっしゃいますよ」
その言葉に頷きながら廊下へ出ると、エレノアは自然と足を速めた。
玄関広間にはすでに家令が控え、到着した客人を迎えるために扉が開かれていた。外へ目を向けたエレノアは、馬車から降りてくる見慣れた姿を見つけ、思わず声を上げた。
「お父様!」
「エレノア!」
父は顔をほころばせ、駆け寄ってきた娘を両腕で迎えた。
リーヴェを発ってから、まだ数か月しか経っていない。それでも、こうして父の顔を見ると懐かしさが込み上げ、エレノアはしばらくその腕の中から離れられなかった。
「長旅、お疲れさまでした。お身体は大丈夫ですか?」
「もちろんだよ。途中で十分に休みも取ったし、何も心配はいらない。それより、エレノアは元気にしていたかい?」
「はい。毎日とても楽しく過ごしています」
「それならよかった」
父は安心したように微笑み、娘の顔を改めて眺めた。
「少し見ない間に、ずいぶん綺麗になったね」
「もう、お父様ったら」
照れくさくなって笑うと、馬車のそばから聞き慣れた声が飛んできた。
「エレノア様!」
「リナ!」
振り返った先には、リナが立っていた。
エレノアが両手を広げると、リナも嬉しそうに駆け寄ってきた。侯爵邸で別れた日には涙をこらえていた二人だったが、今日は再会の喜びが先に立ち、顔を見合わせるなり笑ってしまった。
「お久しぶりでございます! お元気そうで、本当によかったです」
「リナも元気そうね。リーヴェはどう? みんな変わりない?」
「はい。お屋敷も変わりありませんし、皆、エレノア様のお手紙を楽しみにしておりますよ」
「そうなのね。あとでゆっくり聞かせてちょうだい」
二人が話していると、少し離れたところからマルタが歩いてきた。
「エレノア様、お元気そうで何よりでございます」
「マルタ!」
エレノアが近づくと、マルタはいつものように丁寧に頭を下げたものの、すぐに顔を上げて彼女を見つめた。
「お顔色もよろしいようですね。きちんとお食事は召し上がっていますか?」
「ええ、もちろんよ。こちらのお料理もとても美味しいの」
「それなら安心いたしました。慣れない土地でご無理をされていないか、気になっておりましたので」
「心配してくれてありがとう。でも、本当に大丈夫よ」
そう答えるエレノアの表情を見て、マルタもようやく満足したらしい。
そのとき、玄関広間の奥からアレクシスが姿を見せた。
客人の到着に合わせて仕事を切り上げてきたのだろう。エレノアが彼に気づいて振り返ると、アレクシスはまっすぐこちらへ歩いてきた。
「長旅、ご苦労だった。道中に問題はなかったか」
「はい。おかげさまで、滞りなく到着いたしました」
「そうか。父上も疲れているだろう。まずは部屋で休んでほしい」
父は驚いたようにアレクシスを見た。
「……父上、と?」
「ああ。もうすぐ家族になるのだから、そう呼ばせてもらおうと思っている」
「それは……光栄です。ありがとうございます、侯爵閣下」
父は嬉しそうに頭を下げた。
そのやり取りを聞いていたエレノアは、先日の夜を思い出した。
アレクシスが父のことを「父上」と呼んだときは驚いたが、こうして本人を前にしても変わらずそう呼んでくれることが嬉しかった。
「お父様、まずはお部屋でお休みになってください。皆も疲れたでしょう?」
「そうさせてもらおうかな。馬車に座っているだけでも、なかなか疲れるものだね」
父が笑うと、マルタも頷いた。
「本当に。昔より道がよくなったとはいえ、長旅には変わりありませんね」
家令が客人たちを案内し、エレノアも一緒に客室へ向かった。
◇
夕食の席にはセシリアも加わり、久しぶりに顔を合わせた者同士、話は尽きなかった。
セシリアは以前からリーヴェの復興について気にかけてくれていたため、食事の間も自然と領地の話題になった。
「今年は畑の作付けも、ずいぶん増えたそうですね」
「ええ。まだ以前のようにはいきませんが、少しずつ戻ってきております。エレノアが王都へ来てからも、皆よく頑張ってくれていますよ」
「まあ。それは何よりですわ」
セシリアは嬉しそうに頷き、隣に座るエレノアへ微笑みかけた。
「こちらでも本当によく頑張ってくれているのよ。私が教えることも、だんだん少なくなってしまって」
「お義母様、まだまだ教えていただきたいことはたくさんあります」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいわ」
そのやり取りを見て、父は安心したように目を細めていた。
エレノアはリーヴェでの出来事を尋ね、父は領地の近況を一つひとつ聞かせてくれた。修復を終えた水路のことや、新しく畑を借りた家族のこと、以前から働いてくれている職人たちの話まで、懐かしい名前がいくつも挙がった。
アレクシスも時折会話に加わり、道路の整備について父と意見を交わしていた。
エレノアはその様子を眺めながら、二人がこうして同じ食卓を囲んでいることを嬉しく思った。
5年前、リーヴェの屋敷で療養していたアレンと、父が言葉を交わしていたことは覚えている。あの頃は二人の関係を深く考えたこともなかったが、今では自分の大切な家族同士として、向かい合って座っている。
食事が終わる頃には、父の表情から旅の疲れも少し薄れていた。
「明日は式の準備で忙しいのだろう?」
父に尋ねられ、エレノアは頷いた。
「はい。最後の確認がいくつかありますけれど、お父様たちと過ごす時間も取っていただけるそうです」
「それはありがたいね。せっかく王都まで来たのだから、エレノアともゆっくり話したいと思っていたんだ」
「私もです」
セシリアは二人の様子を見て、にこやかに言った。
「明日の午後は、どうぞご家族でお過ごしになってくださいな。こちらの準備は私たちで進めておきますから」
「ありがとうございます、お義母様」
エレノアが礼を述べると、セシリアは楽しそうに微笑んだ。
「花嫁さんには、前日くらいゆっくりしてもらわなくてはね」
◇
結婚式を翌日に控えた午後、エレノアは父の客室を訪ねた。
午前中に最後の衣装合わせを済ませ、式の流れについても確認を終えている。あとは明日を迎えるばかりとなり、ようやく落ち着いて父と話せる時間ができたのだった。
部屋へ入ると、父は窓辺の椅子に腰掛け、庭を眺めていた。
「お父様、お待たせしました」
「いや、ちょうど庭を見ていたところだよ。見事なものだね」
「私も初めて来たときは驚きました。今は時々、あちらの小道を散歩するんです」
エレノアが窓の外を指さすと、父は楽しそうにその先を眺めた。
「そうか。こちらでの暮らしにも、すっかり慣れたようだね」
「はい。お義母様も皆も、とてもよくしてくださいますから」
父は頷き、向かいの椅子へ座るよう促した。
しばらくはリーヴェの近況について話した。エレノアが気にかけていた家の修繕は無事に終わり、マルタも相変わらず屋敷のことを取り仕切っているという。リナも自分の結婚に向けて少しずつ準備を進めているそうで、その話になるとエレノアは身を乗り出して詳しく尋ねた。
「帰ったら、きっとまた手紙をくれるわよね」
「もちろんだよ。あの子はエレノアに話したいことがたくさんあるようだからね」
父は笑い、それから少し表情を和らげた。
「エレノア。明日はいよいよ結婚式だね」
「はい」
「こうして王都で暮らすお前を見ていると、安心するよ。出発する日は寂しかったけれど、今は本当によかったと思っている」
エレノアは父の顔を見つめた。
「お父様には、ずっと心配をかけてしまいましたね」
「心配するのは父親の仕事だからね。それに、お前は昔から自分で決めたことには一生懸命だった。侯爵閣下との結婚も、お前が望んだことだと分かっているよ」
父の穏やかな声を聞いていると、リーヴェで過ごした日々が思い出された。
戦争で領地が荒れた頃も、復興が思うように進まなかった頃も、父はいつもエレノアの話に耳を傾けてくれた。意見が違うことはあっても、最後には娘の考えを尊重し、一緒にできることを探してくれたのだった。
「私、お父様の娘でよかったです」
エレノアがそう言うと、父は少し驚いたように目を瞬かせ、それから照れくさそうに笑った。
「それは嬉しいことを言ってくれるね。私も、お前の父親でいられて幸せだよ」
父は立ち上がり、部屋の奥に置かれた旅行鞄から小さな箱を取り出した。
「そうだ。お前に渡したいものがあったんだ」
「私に、ですか?」
差し出された箱を開けると、中には小さな真珠をあしらった髪飾りが収められていた。
華やかすぎない、上品な細工の施された飾りだった。エレノアはそれを見た途端、懐かしさに目を見開いた。
「これ……お母様の?」
「ああ。母さんが大切にしていたものだよ」
エレノアはそっと髪飾りを持ち上げた。
幼い頃、母が鏡の前で髪を整えていた姿を覚えている。特別な外出のときには、この飾りをつけていたこともあった。
「覚えていたんだね」
「はい。お母様がつけていらっしゃるのを、何度も見ました」
「母さんは、お前が大きくなったら譲りたいと言っていたんだ。ずっとしまってあったけれど、渡すなら今だと思ってね」
エレノアは手の中の髪飾りを見つめた。
母が亡くなってから、もう何年も経つ。王都へ来てからはセシリアが温かく迎えてくれ、新しい家族が増えることを心から嬉しく思っていたが、母のことを忘れた日はなかった。
「……お母様にも、見ていただきたかったです」
そう口にすると、父は静かに頷いた。
「そうだね。母さんも、きっとお前の花嫁姿を見たかっただろう」
エレノアが顔を上げると、父は優しく微笑んでいた。
「明日は私がしっかり見ておくよ。帰ったら、母さんにもたくさん話してやらなくてはね」
その言葉に、エレノアは涙をこらえながら笑った。
「はい。お願いします、お父様」
父は娘の頭をそっと撫でた。幼い頃と変わらない手の温かさに、エレノアは目を細める。
「幸せになるんだよ、エレノア」
「はい。必ず」
エレノアは髪飾りを箱へ戻し、大切に両手で包んだ。
明日は、アレクシスと結婚する日。
5年前、リーヴェの屋敷で出会った青年と、これから先の人生を共に歩んでいく。
父ともう少し話していたい気持ちもあったが、夕方にはリナとマルタが訪ねてくることになっていた。エレノアがそのことを伝えると、父は笑って立ち上がった。
「それなら、そろそろ行っておいで。二人とも、お前と話すのを楽しみにしていたからね」
「はい。また夕食でお会いしましょう」
扉へ向かったエレノアは、ふと思い出して振り返った。
「お父様」
「何だい?」
「明日、よろしくお願いします」
父は一瞬だけ目を細め、穏やかに頷いた。
「ああ。こちらこそ、よろしく頼むよ」
エレノアは微笑んで一礼すると、母の髪飾りを大切に抱え、部屋をあとにした。




